ワインに込められた思い
『俺はここで頑張るから、お前も頑張れ!』
音香は、この先も絶対に忘れることはないであろうその言葉をまた思い出しながら、マネージャーに責め立てられながらビルを出て行く拓也の後ろ姿を見つめていた。
「オッカ……」
心配そうに声を掛けたマサトに、音香は瞳に残っていた涙を指でふき取り、微笑んでみせた。
「もう、大丈夫だよ。 すっきりしたから」
ナツユキとユウジも近づいてきて、それぞれに安どの表情を浮かべた。
「行こうか!」
そう明るい声で言ったナツユキは、エレベーターのボタンを押した。
音香の心は清々しく、軽くなったのを感じていた。
『偶然とはいえ、拓也と会えてよかった』
そう思いながら、静かに開いた扉をくぐり、エレベーターへと乗り込んだ。
クロノスメンバーは、広すぎるほどの会議室にぽつんと待っていた棚橋の前に並ぶと、一斉に深くお辞儀をした。 そして、自分たちの勝手な都合でメンバーが変更してしまったことをお詫びした。
棚橋は逆に、驚くほどの腰の低さで微笑み返して四人を椅子へとうながすと、ゆっくり話しましょうと優しく言った。
「私たちは、正直、商売としてお話をさせていただいています。 なので、あなた方がこれから芸能界という世界で、どういう風に輝いてくれるかということを、予見してスカウトをしているわけです。 ここにこうして皆さんが来ていただけたということは、この厳しい世界で生き抜く覚悟をしてきたと、認識して良いわけですよね?」
棚橋は優しい目つきをしていたが、その奥には揺るぎない商売への光を持っていた。 それを感じた四人は、息を飲んで深くうなずいた。
「ナオキさんが見込んだ人たちです。 ハズレは無いと信じていますから」
棚橋が微笑むと、四人は顔を見合わせた。 ナツユキが、緊張続きの為にかすれた声で尋ねた。
「マスターが?」
「話、聞いてませんでしたか? ナオキさんから、是非とも観てみてくださいとお話を頂いたので、ライブを拝見させていただいたんですよ。 実際のところ、驚きました。 ここまで熱いライブが出来るバンドを、再び同じ地で発掘できるなんて。 東京から行った甲斐がありました」
そう笑う棚橋の前で、四人はただただ驚いていた。
まさかここまでマスターにお世話になることになるとは。 音香は、帰ったらすぐにマスターにお礼を言わなくてはと強く思った。 ナツユキたちも、当然同じ気持ちだっただろう。
そこから話し合いは進み、とりあえずはサポートギタリストを迎えて、様子を見ながらやってみないかという話を頂いた。
クロノスをそこまで信用しているから言うのか、はたまたマスターの力がそこまで強いのかは分からないが、クロノスはマネージャーとなる棚橋、そしてネクサス・エンターテインメントに将来を託すことにした。
その夜、電車を乗り継いで閑静な住宅地にひっそりと建つアパートに戻った四人は、大きな荷物を部屋の端に置き、まだテーブルもカーテンも何もない六畳ほどの畳部屋に腰を下ろすと、早速マスターからもらった餞別の包みを開けた。
ナツユキが柄にもなく細長い包みを丁寧に開ける姿に、三人の失笑が漏れた。 中からは赤ワインの瓶が出てきた。
「ラ……クリマ……クリスティ……?」
ユウジがたどたどしくラベルを読んだ。
「La'cryma Christi……キリストの涙……」
マサトが呟いた。
「何、それ?」
身を乗り出してラベルを見ていた音香の問いに、マサトは微笑んだ。
「昔、天国から追放されたサターンはその土地を一部持ち去り、逃げ出しました。 その途中、サターンは盗んだ土地を落としてしまい、その場所にナポリの街ができました。 街の人々は悪徳の限りを尽くし、その悲惨な様子を天国から眺めていたキリストは、あまりの悲しさに涙を流しました。 すると、その涙が落ちたところから葡萄の樹が生えてきて、素晴らしいワインが生まれました……」
呪文のように言うマサトに、他の三人は呆然としていた。 誰もが口をあんぐりと開けたままだったので、マサトはワインのボトルを見つめながら説明するように呟いた。
「どんなに堕ちた場所にでも、光を灯せ、世界を変えろって、言いたかったんじゃないかな?」
「マサト、すごいね……」
目を丸くして言う音香に、マサトはうなずいた。
「歌詞を書くのに、ちょっと神話の勉強をしたことがあるんだ。 その時に偶然、このワインのことを何かで読んだんだ」
「マスターは、ホントに格好良い人だな!」
ナツユキが、感心するように再びワインを眺めた。
やがて、それぞれのコップに注がれた褐色のワインは、蛍光灯の光に淡く輝いた。 掲げられた四つの様々な形のコップに
「これからのクロノスに栄光を! 乾杯!」
と誓いを立て、一口含んだ。
渋い大人の味が口の中いっぱいに膨らみ、少しだけ釘を刺されたように痛かった。
次の日四人は、音香を含んだ最後のクロノスとしてストリートライブを敢行した。 さすがに外にドラムやアンプを置くことは出来なかったので、アコースティックライブとして披露した。
クロノスというバンドなど全く知らない人々の住む街、東京。 何人もの人が、クロノスの音に耳も貸さずに通り過ぎて行く。
だが、何故だか音香の胸には自信しか残らなかった。
ナツユキのボーカルが朗々と響き、マサトのベースがズンズンとリズムを刻み、ユウジのパーカッションが曲の礎を築きながらも、曲を盛り上げる。 そして今はサポートメンバーとなったオッカのギターが繊細なメロディを刻む。
クロノスなら大丈夫!
きっと、音香の住む街にもその音楽が届くようになる。
東京の空はビルに囲まれて小さかったが、クロノスの空はきっともっと広がるんだ。
未来を見据える心には、晴れ渡った青空が広がっていた。




