さよなら……行ってきます!!
しばらくして
「では、これは僕からの景気付けに」
と、飲みかけのファジーネーブルの横に新しいカクテルが置かれた。
炭酸の泡が踊るカクテルが入ったロンググラスの縁に塩がまぶしてある。 音香も知っているカクテルだ。
「これは……ソルティ・ドッグ?」
音香が尋ねると、マスターは微笑んでうなずいた。
「これに何か意味があるの?」
「ソルティ・ドッグ……訳すと塩辛い犬。 これは、甲板員を意味する言葉なんです」
「甲板員って、船に乗ってる人の事?」
「そう。 ほら、こう……グラスの縁に塩をまぶしてあるでしょう? これを僕たちバーテンダーは、『塩のスノー・スタイル』って言うんですけど、そこからの連想で、海水を浴びながら仕事をする船乗りを意味する名前をこのカクテルに付けた、というわけです。」
「船乗り…… そうか、クロノスの出航ってことね?」
音香はしげしげとカクテルを見つめた。 渋く輝くロンググラスの向こうで、マスターは
「まあ、そんなところです」
と微笑んだ。
「ありがとう」
口に含むと、グレープフルーツのほろ苦さと、塩のアクセントが気持ちを引き締めるようだった。 心憎い演出をしてくれたマスターの気遣いは、音香の心に元気を与えてくれた。
「がんばるよ!」
答えるように、音香は親指を立ててみせた。
数日後、音香は両親に頼み込んで、東京行きを決行することにした。
ネクサスエンターテインメントの本社へ行って、直々に挨拶とお詫びをしなければ、音香の気持ちが治まらなかったのだ。 クロノスの面接もそこでやるというから、音香もそこに付いて行くことにしたのだ。
それに、新しいギタリストのことも気になる。 自分たちの将来を見抜いてくれた棚橋が、どう決断を下すのか、音香自身の耳で知りたかったのだ。
「あんたはいつも何をやってるのか分からない所があるけど、ちゃんと戻ってくるから不思議よね」
呆れ顔で母親に言われたが、音香には褒め言葉にしか聞こえなかった。 父親も最初は反対をしていたが、ついに音香のしつこさに根負けした。 職場には、それまで持っていた有給休暇を半分以上使うことになったが、これで自分の評価が下がっても良いと思えるほど、今の音香には勢いがあった。
こうして数日間の予定で、ナツユキたちが借りた格安のアパートの一角に居候させてもらうことになった。
出発の日。
クロノスメンバーが揃った空港には、裕里や朋美、セブンスヘブン代表として、立木兄弟が見送りに来てくれた。
「オッカ、ヘンな男にひっかかるんじゃないよ!」
からかう裕里を小突き
「バカにしないで! あたしはそんな事しに行くわけじゃないんだから!」
と笑いあった。
朋美はもうすぐ一歳を迎える我が子、柚季を抱いて来てくれた。 まだ言葉にならない声で、音香に向かって真っ直ぐな視線を投げかけてくる。 会うときはいつも笑顔を絶やさない、愛想の良い子だ。
「ゆず~、すぐ帰ってくるからね」
音香はその小さな手を優しく握って、柚季と微笑みあった。
立木兄が細長い包みをナツユキに手渡した。
「これ、マスターから。 餞別だって」
「うわ! 有難い! マスターによろしく言っておいてください!」
「俺ら、応援してますから! 絶対天下取ってくださいよ!」
立木弟がたくましい腕をぐっと挙げてエールを送った。
メンバー全員が深々とお辞儀した。 全員が、セブンスヘブンには感謝の気持ちがいっぱいなのだ。 唯一の心残りと言えば、地元最後のライブを出来なかったことだ。 音香が脱退するとなってから色々とバタバタして、結局ラストライブの日取りが決められなかったのだ。 今まで支えてくれたファン達に挨拶のひとつ、残していけなかったのが心苦しかった。
音香にとっては、地元の皆とはしばしの別れだ。
ぱんぱんに膨れ上がった大きな荷物を引きずっていく三人の後ろを歩き、何度も振り返って手を振りながら、音香は遠ざかるロビーを見回した。
『やっぱり来てくれなかったか……』
遂に自分から連絡も出来ず、影待の姿を見ることもなく、音香は飛行機に搭乗した。




