レコーディングの魔力はガッチガチ!
高鳴る胸を抱えながらセブンスヘブンに入ると、すでに影待は準備を終えていた。 いつも授業で使う組み立て式の小さなテーブルの上には、なにやら高価で複雑そうな機械が並んでいる。
「なんだか本格的……ですね?」
音香はそれらを見つめながら、唖然と言った。 すると影待はいつものように無表情で、その機械の端をクロスで拭きながら
「そんなに重く考えなくていい。 これは本当に軽く作業に使える物だから。 音楽好きな人なら皆知ってるような物ばかり。 さっき城沢の前に授業していた人も、これでレコーディングしたんだ」
と軽く言われ、少し損をした気分になった。 拓也が知ったらさぞやガッカリするだろう。 そんな気も知らないで、影待は淡々と機材をセッティングしていった。
レコーディングのやり方はこうだ。
まず、演奏だけを最初に録る。 そして次に、その演奏を聴きながらボーカルを録る。 ギター一本だけのアーティストなら、基本的にこれで終了だ。
何ピースかのバンドであれば、ドラム、ベース、ギター、ボーカルをそれぞれ録音していくのだという。
そしていくつかの演出効果で色づけし、装飾していく。
音香の場合は初めてのレコーディング作業ということもあって、今回はシンプルにギターの伴奏のみとボーカルの二回だけの録音作業をすると告げられた。
『二回だけ』
この二回だけの作業が、意外に思うようにはいかなかった。
マイクをギターのボディに開いたホールの前に設置されると、音香の身体と指は完全に緊張した。
セブンスヘブンの中は防音に長けているので、外の音は全く聞こえないし、空調のかすかな音がひどく目立って聞こえるほどなのだ。 そんな、物音ひとつしない閉ざされた部屋でのレコーディングは、いつもの授業や自分の部屋での演奏とはまるで違うし、人前で演奏した何回かの経験よりも全く違う雰囲気に包まれていた。
とにかく今まで感じたことの無い緊張感が、音香の心と体をガチガチに固めてしまっていた。
音香の目の前で、影待が三回目のテイクを削除している。
「どうした、今日は?」
影待の声が、いつもより冷たく思える。
「うまく指が動かなくて……」
音香は困り果てたように眉をしかめながら、手指をマッサージし、肩を回した。
「すっかり固くなってるんだな。 ま、大抵の人は、録音って聞くと途端にビビるとこがあるから。 珍しいことじゃないよ」
「すみません……」
申し訳なくて謝ってはみたが、まだ心まで固い音香は、笑顔さえも強張っていた。
『間違えないように……!』
そんな圧迫感に押しつぶされそうだった。
「何度でもやり直せるんだから、焦らない、焦らない」
影待は抑揚の無い声で言いながら、ポンッとボタンを押した。 削除完了の音だ。
「昔はカセットテープに一発取りで、録り直しなんてきかなかったんだよ。 一発勝負。 間違えたら、そのテープはゴミ。 それに比べたら、最近はデジタルになって、何度でも簡単に録り直せるんだから。 便利な世の中になったと思わない?」
「…………」
きっと影待は、音香を和ませようとしてくれたのだろう。 だが音香は逆にその心遣いが重荷になって、泣きたくなっていた。 だがここで引き下がるわけにはいかない。 自分の作った曲が、作品として形になるチャンスなのだ。
『どうにかしても、乗り越えなくちゃ!』
ガチガチになりながらも、音香はやっと一曲目の演奏を録音し終えた。
「いいでしょう」
影待の、渋々とも思えるオーケーの言葉に、音香は安堵を込めた長いため息をこぼした。
「まだ終わってないよ」
その言葉と共に、影待はすでに次の準備に取り掛かっている。 次はボーカルの録音だ。 スタンドマイクを、立ち上がった音香の口元に合わせた。
これまた、今まで感じたことの無い重圧感だ。 レコーディングとは、こんなにエネルギーを消費するものなのか……。
「はいっ!」
音香は気合を入れ、深呼吸をした。 しばらくして、耳をすっぽりと覆う重厚なヘッドフォンから、たった今録音したばかりの自分が演奏したギターの音が聞こえてきた。
『私のギター、こんな音なんだ?』
初めての自分の演奏した音を聞いた音香は、思っていたより軽い短調な音に違和感を感じながら、息を吸い、思いを込めて歌い始めた――
『あれ?』
ものの数十秒で歌が止まってしまった。
喉が開かない。
極度の緊張で、すっかり喉が絞まっているのだろう。 全然声が出ないのだ。 同時に、動揺と共に動悸が激しくなってきた。
音香は気分を落ち着かせようと、水分補給をした。
「カラオケだと思えばいいから」
音香の緊張をほぐそうとしてくれているのか、それともただの他人事だからか、影待はそれほど深く突っ込んでこない。
ありがたいが、
『音響の神からしたら、そんなもの?』
と皮肉を絡めながら、誰も味方が居ないことに少し淋しくも感じた。 こんなことなら、無理を言ってでも拓也についていてもらうべきだった。
「カラオケね……」
音香は気持ちを切り替えようと必死だった。 どうにかして楽しい事を考えようとすればするほど、頭の中は真っ白になってパニックになってしまうのだった。
そして、根気良い影待に付き合ってもらいながら、何度目かのテイクを経て、ついに音香オリジナル曲の一曲目が出来上がった。
「聞いてみる?」
と言われた音香は、とりあえず二曲目を録り終えてからのお楽しみにすることにした。 というより、あまりの出来の悪さを思い知らされるのが怖かったのだ。 聞かなくても分かる。 けれど、聞きたい。 そんな気の迷いのなか、次へと駒を進めることにした。
気を取り直しての二曲目。
一曲目を明るい感じの曲にしたこともあり、二曲目は少し抑えた感じの静かな曲を選んだ。
前の段階で散々緊張しつくしたのが功を奏したのか、比較的スムーズに録音し終わることができた。 それでも数テイクはやり直しをしたのだが、影待は驚いたように
「今度は意外にうまくいったな」
と舌を巻いていた。
「本当は多分、すごく度胸があるんじゃないか? ほとんどの生徒達は、一曲だけでスタミナ切れして、ダウンしてたから」
感心するように首を傾げながら言う影待。 この人、実は感情を出すのが下手なのではないかと思う一瞬だ。 それとも、教える側としてのマナーなのだろうか? あまり私情を絡めないのが、教育者としての在り方だと考えているのかもしれない。
とは言え、褒められて嬉しくないわけがない。 笑みが漏れる音香。
「なんだか、楽しくなっちゃって……」
実は、音香の中では『もっとレコーディングしたい』という気持ちが生まれ始めていた。 この初めて味わった緊張感が、意外にも気持ち良ささえ感じさせていたのだ。
こんな場面でも楽しむことが出来るようになったのも、何度か人前で演奏させてもらったり、色々な人々との交流があったからだろう。 そんな一つ一つの経験は、確かに音香の中に積み重ねられ、力になっていた。
丁度授業時間も終わりに近づいた頃、休憩していた(と言うよりぐったりしていた)音香の前に、ケースに入れられた一枚のCDが差し出された。
「?」
「出来たよ」
「えっ?」
音香は思わずそれを手に取った。
「もう出来たんですか?」
うなずく影待の前で、音香は手の中のCDをしげしげと見つめた。
『この虹色の中にあたしの音が入ってるんだ……』
「聞いてみる?」
「え、ん……でも……」
『聞いてはみたいが、怖い……』
音香が迷っていると、影待は無言でその手からCDを取り上げ、カウンターへと向かった。
「俺も聞いてみたいから」
言いながら、早くもカウンターの奥で再生機にセットしている。
『どうせ、聴くんじゃない……あたしの意見は無視か!』
音香が呆れているうちに、スピーカーからアコースティック・ギターの音色が響いてきた。
『あっ! あたしの音だ……』
音香のギター、音香のボーカル。 例えようの無い、自分の創りだした音。 音香が思いを込めて作った曲。 緊張しすぎて、ガチガチに強張った心で挑んだ初めてのレコーディング。
ついさっきまで過ごしていた一時間あまりの時が、濃厚な生チョコレートのように音香の心を渦巻いていた。
『今まで聞いてくれていた人は、こんな風に聞こえてたんだ?』
思わず音香は恥ずかしくなって、頬を赤らめて俯いた。
いつの間にか影待がカウンターから戻ってきて、音香の前の椅子に座って腕を組み、真剣に耳をそばだてている。
やがて全二曲が終わると影待はスッと立ち上がり、またカウンターの奥に戻り、CDを取り出して音香に返すと、
「うん、まあ、いいんじゃない?」
と一言言った。
「先生、あたしのギターって、すごく軽い音じゃないですか?」
音香が聞くと、影待は視線を合わせないままでフッと笑った。
「だって、安いギターだもん」
「えっ!」
それは、音香にとって衝撃の答えだった。 まさかそんな簡単に返ってくるとは思っていなかったから。
「ギターってのは種類がたくさんある故にピンキリで、音は同じように出るけど、深さや響きってのはそのギターによって全然違うんだ。 それはアコギもエレキも同じ。 ピックアップや弦、ボディの形の違い等で全然変わってくる。 現に俺の使ってるギターも、城沢のとは違う音だと思わない?」
「んー…… 言われてみれば……」
「値段で言ったらそれまでだけど、このギターでも十万ちょっとしたかな」
「じゅ……十万?」
驚く音香を前に、影待は自分のギターを見つめながら淡々と続けた。
「ほら、ずっと前にマスターのギターを触ったことあったろ? あれ、五十万位するんだぞ」
「ええええええ!」
音香の全身に震えが走った。
「ご、五十万のギターを、あたしが触ってたの?」
まだギター教室に入る前、偶然セブンスヘブンで遭遇したマスターの五十万もするギターに、成り行きと勢いだったとはいえ、素人の音香がそんな軽い気持ちで触れていたとは。
人生初のレコーディングでかなりの体力と精神力を消耗しているところに、衝撃の事実を叩きつけられたのだから無理も無い。 あまりの衝撃に、若干貧血気味になって眩暈がした。
音香は、たかだか二万円もしないような初心者ギターで、いかにも『自分は弾き語りが出来ますよ』と言わんばかりに、皆に聞かせまくっていたのだ。
「恥ずかしい……」
肩を落とし落ち込む音香に、影待は言った。
「城沢のギター、貸してみて」
影待は慣れた感じで音香のギターを構えると、爪弾き始めた。
「え?」
音香は思わず顔を上げ、聞き入った。
さっき録音した音とは違う音色。 とても同じギターの音とは思えない。 よく言えば、情熱がこもっているといったところか。 響いてくる空気の振動が、音香の胸を震わせた。
『凄い……あたしの音とは全然違う……』
一通り弾いてみせ、ギターを音香に返すと、
「演奏者の腕にもよるしね」
と微笑んでみせた。 そして、
「しかし、やっぱり弾きにくいな」
と皮肉っぽく言いながら首をかしげた。
音香は受け取った自分のギターをしげしげと見つめた。 まるで自分の物ではないのではないかと、疑いの目で見つめながら、
「ギターって……やっぱり凄いや……」
と、改めてギターの奥深さを思い知っていた。




