24.5
苛々と酒精混じりの息を吐きながら、なおも安いブランデーを煽る男はカードを一枚テーブルへと投げた。スペードの2。今日一番の運だと言ってもいい。
ブラグ(※)は得意だと自負している男だが手持ちのカードと相手を交互に移動する目はぎょろぎょろと落ち着がなかった。
もう今夜だけでいくら賭けただろうか。数える気はないが、懐がだいぶ軽くなってきていることは一刻ほど前から気づいていた。
ロンドンの外れにある会員制の賭博場――そう言えば聞こえがいいがテーブルを囲む面々は決して育ちが良いものとは言えなかった。顔に傷がある者、ポケットからピストルをチラつかせている者、対戦結果が芳しくないのかしきりに爪を噛む者まで様々だ。
その中でもひときわ上流階級を思わせる身なりはしかし、全くその機能を果たしておらず、深く皺が刻まれたシャツが男の生活の杜撰さを物語っている。着ているものだけではない、艶をなくした髪は乱れ、鬱々とした表情とは裏腹に窪んだ眼球だけがぎらぎらと輝くその姿に高貴な面影を見出だせる者などここにはいないだろう。
男―― チェスター・マーベロウは苛立っていた。
最近何もかもが上手くいかない。元来より貴族の嗜みとして賭け事は好きだったが、狂うほどではなかった。もちろん、庶民の感覚からは到底想像もできない金額を賭けてはきたものの、貴族の感覚としては至極一般的な額だ。
それがいつからか偶に得られる雀の涙ほどの勝ちに縋り、負けた分を取り戻そうと躍起になり更に負債が増えるという悪循環に陥っている。もはや自身にいくらの借金があるのかも把握しきれていなかった。
貴族はある意味「信用」で借金をするものだが、ここのところ殆どの申し出は断られているところを踏まえればもはや子爵家の名など失墜したも同然だった。
嫡男に甘い母親は困ったわねと苦笑いし、立場の弱い妻はおろおろとするだけで何も意見はしないが、日々失われていく屋敷の家財道具やフットマンたちの数を見れば決して子爵家の未来は安泰とは言えなかった。そう遅くない内に由緒ある子爵家の栄華の灯はゆっくりと、しかし確実に途絶えていくのだろう。
辛うじて残っているいくつかの領地はもはや財産などと呼べるほど立派なものではなく、屋敷に残された歴代当主がグランドツアーで収集したコレクションは既にいくつか競売にかける予定になっている。それも幾ばくかの足しにしかならない。
貴族というのは生きていくだけで莫大な金がかかるのだ。数えきれないほどの納税に高貴なるものの義務などどいったふざけた精神で恵まれない領民の救いも欠かせない。
社交界が始まれば更に地獄だ。舞踏会・正餐会を含めたパーティが連日開かれるばかりか、昼間も狩にお茶会に数か月殆ど休む間もなく、必然と付随する金額も莫大になってくる。
タウンハウスを持てるほど裕福ではないためホテル暮らしか知り合いの家に間借りすることになるが、領地からロンドンへの移動費や連れてくる使用人への給金、ドレスの新調費も含めるとなればマーベロウの優秀な執事を以てしてでも最近の財政難には頭を抱える他なかった。
その最もたる原因はチェスターの散財であるのだが、それにしてもここまで予定が狂うのはまるで想定していなかった。
そう、目に見えて運命が狂い始めたのはあの夜からだ。
今思い出しても舌の奥が薬でも噛んだかのように苦いのは没落していった貴族の行く末が筆舌に尽くし難いと知っているからだ。
残りのカードからクローバーのクイーンを捨てることにしながら、チェスターはいつかの忌々しい記憶をもう一度掘り起こさねばならなかった。(もちろん、左隣の男の顔が歪んだのは見逃さなかった)
*
公爵夫妻に招かれたディナーパーティでチェスターはいつになく上機嫌だった。ここのところ負け続きで豪華絢爛なディナーパーティなど内心面白くなかったが、それでも王家とも深い繋がりのある公爵夫妻に招かれるという名誉は、傾き始めた自尊心を保つには充分だったのだ。
祖父の代からの知り合いである公爵夫妻は長年社交界に絶対的な権力を持ち、当然同じように招待されているのはこの国の中枢を担う名門貴族ばかり。
さて、ひとつ甘やかされた坊っちゃんたち相手にカードの誘いでもしてみようか、上手く行けば借金の提案も受け入れてくれるかもしれないと応接間の顔ぶれを物色して時だ。
「―― ラザフォード卿ならびにラザフォード卿夫人!」
聞こえてきた"ラザフォード卿"が、誰であることなどすぐに結びついた。マグナス・グランヴェルはチェスターにとって最も面白くない男の一人であったからだ。
彫刻のように冷たく整った美貌とすらりとした体格、性格は決して社交的ではないが伯爵家としての歴史は深く、由緒正しき血と有り余る財産の前ではあまり大した問題にはならない。それ故、若き伯爵の交友関係は確かで繋がりを切望する貴族も多いのだ。
嘗てのチェスターもその内の一人であった。友人の従兄の知り合いという細い繋がりで慌ただしく初対面を済ませ、挨拶代わりに賭けを申し込んだ。
当時、まだマグナスは父親の爵位を継いだばかりだった。
先代の伯爵同様、冷たく頭の切れる男だとは聞いていたが、所詮温室育ちの貴族など相手にはならないと高を括ていたゲームでの結果は惨敗に終わった。呆然とするチェスターを前に「どうやら勝利の女神は私に惚れているらしい」と薄く笑った顔をどれだけ殴りたかったことか!
富も名声も何もかも事前に用意されるだけでは飽き足らず、平然とその玉座に座り己以外を嘲笑うような男――それがマグナス・グランヴェルというこの世で一番憎い響きなのだ。
そのマグナスが社交界の華であった奥方を亡くし、再婚したという噂は僅かながらチェスターにも届いていた。更に新しい奥方は義理の妹の家庭教師で親類もいないと聞く。
それはチェスターにとってなんとも言い難い甘さを孕んだ事実であった。
あの名門伯爵家の夫人が労働者階級出身で、しかも持参金も見込めないような孤児だとは。とんだお笑い種だとその日はいつも以上に気分がよかった。どんなに表面を繕ったところで所詮は鍍金。生まれ持った金の彫刻には到底なることは叶わないのだ。
さあ、どんな失態を見せてくれるのだろうと舌なめずりしたのもつかの間、生憎なことにチェスターの期待通りに事は進まなかった。晩餐会に現れた夫人は、確かにはっとするような華美さはないものの凛とした清廉さを感じる出で立ちであった。元家庭教師というだけあって真っ直ぐに伸びた背中と華奢な肩は氷の化身のような男と対になると、まるで春の精霊だった。
そして何とも忌々しいことに、些かたどたどしくはあったがその所作に難をつけることはできなかったのだ。寧ろその疎さが、かえって可憐さを際立たせているようでもあった。
隣にいる妻は最新のドレスのデザインと装飾品の質にばかり気を取られていたようだが、それもチェスターには面白くなかった。
もとより子爵家の財政状況では同等のドレスを用意することもままならない。妻はしきりにラザフォード伯爵夫妻とお近づきになりたいとチェスターにせがんだが、生憎晩餐会の前にその機会を得ることはできなかった。尤も、チェスターはもとよりお近づきになることなどまっぴら御免だったのだが。
そんな蟠りがあれば当然ディナーの最中も身の入るものではなかった。チェスターのそぞろな気配を感じた隣の婦人は始終不機嫌に最低限の会話をした後はだんまりを決め込んでしまい、晩餐会はワインで口を潤すばかりで決して楽しいとは言い難いものだった。
途中キングスリン卿による道化のような子芝居も、苛立ったチェスターにとってはどうでもよいことだった。
*
「まったく驚きだな。あのマグナスを落とせる女性がいただなんて」
「それだけ奥方が魅力的なんだ。ディナーの前に一度話しておくんだったな」
嘗てはチェスターの友人と呼べた男たちの中心で、マグナスはいつもと変わらず眉間に深く皺を寄せて黙っていた。その話題といえばラザフォード卿の新しい奥方になるのは至極当然のことだったが、チェスターにはその態度がどうしても気に入らなかった。
少々酒が入って気が大きくなっていたのかも知れない。
「それは一度お相手願いたいものだ」
そんな下世話な言葉が弾みで出たのも、その整った顔に少しでも不快感が過ぎればいいと思っただけだった。マグナスの周りにいた知人たちは各々顔を顰め、キングスリン卿に至ってはチェスターへ口を慎めと忠告した。
「奥方は元家庭教師だと言うじゃないか。君が夢中になるということはそれだけ夜の具合がいいのだろう?」
しかしそんな牽制ではチェスターの舌を渇かすことなど不可能だった。紡いだ言葉にその気に入らない、澄ました顔が少しでも歪めばいいのだ。何もかもを持っている男の唯一綻びた部分をチェスターは露呈したかった。
そうして気付いたときにはチェスターの体は上等な敷物の上に投げ出され、非難の言葉はただ、真冬の海のような凍えるような視線の前にあっさりと制された。
そこにあったのは真冬の闇夜で燃える炎だ。チェスターの体を火照らせていたワインの熱など一瞬にして冷めるような、激しく仄暗い。
やがてマグナスは一言、決闘ならいつでも受けて立つなどという物騒な言葉を吐き捨て応接間を後にした。残された周りから突き刺さる目は明確にチェスターを非難していたばかりか、侮蔑さえ含まれている気がした。一人、そしてまた一人とチェスターに背を向けて出ていく社交界の若き筆頭たち。それがチェスターにどれほどの屈辱を与えたのかなど、あの男は生涯知る由もないのだろう。
お陰で赤くなった頬のまま領地へ帰る羽目になり、帰りの馬車の中では妻に鬱陶しいほど怪我の理由を詮索されたが、チェスターの心の中はマグナス・グランヴェルへの嵐のような憎しみで埋め尽くされていた。
単なる冗談ではないか。よくも恥をかかせてくれたものだ。
しかし、チェスターが思っているよりも周りの受け止め方はずっと深刻であった。
チェスター・マーベロウがマグナス・グランヴェルの不興を買ったという噂はオフシーズンであるにも関わらず瞬く間に広がり、面白可笑しく誇張されていった。
今まで気前よく借金に応じてくれていた友人たちもどこかよそよそしくなり、交流が希薄になったどころか遠回しに借金の返済を求めてきたのだ。
そこからだ。明確に何もかもがおかしくなっていったのは。
確かにチェスターは優れていた。爵位は子爵に留まっていたものの、その家名に於いてはマグナスの家に引けを取らず歴史の上では何度も戦場で先頭に立ち貴族としての務めも全うした。
曽祖父の時代には王家所縁の貴族と縁続きにもなり、祖父や父は政治の中枢にいた。チェスターも歴代の当主に倣い、爵位が同等で持参金の多い妻を娶り貴族として不自由なくウィルコックの家名を守ってきたのだ。
その青い血の上でマグナスに劣るものなど何もないというのに。
チェスターの運命を狂わせたのはあの男なのだ。
あの男がすべての元凶なのだ。
*
――さあ、すべて終わりだ。
最後に投げつけるようにしてカードをテーブルに放ると、他の3人が己の手持ちに唸った。場所が場所だけに微々たる勝利ではあったが、何れにしても勝ちに変わりない。
久しぶりの高揚感を抑えきれないまま、チェスターは僅かながらの賞金を手に今までいたテーブルを後にした。今夜はこのまま愛人の家に泊まるつもりだった。
埃が混じったような空気を肺に取り込んだところで、闇夜に紛れるようにして一人の影がチェスターに近づいてきた。
「進展は」
それだけ聞くと男は心得たというようにチェスターへ一枚の紙を差し出した。それと引き換えに銀貨を数枚男の手に持たせてやると、硬貨の擦れる音が闇夜に不気味に響いた。
手の中の紙には歪な文字で数行の走り書きがされていた。しかしそれこそが焦がれるようにして望んだものだ。
チェスター・マーベロウはその顔に不敵な笑みを浮かべて、彼の傲慢な男のあの美貌が歪むのを想像した。その日を思うだけでなんと甘美な気持ちになるだろうか。
もはや妄執に近いその感情は、チェスターの最後の砦すら蝕んでいた。
※ブラグ(英語: Brag)は、トランプを使ったイギリスのゲームである。手札は3枚で、ルールはポーカーによく似ており、ポーカーの起源のひとつと考えられることもある。(Wikipedia)