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異世界アイドルロボット~冴えない中年男は歌姫として生きる~  作者: ぷっぷくクリーナー


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第九章 機械の歌とお母さんの手

 朝の光が街を照らしていた。

 昨夜の雨は上がり石畳が乾き始めている。

 市場の朝の喧騒が満ちていた。

 パンを焼く匂い、鶏の鳴き声、

  桶を担いだ女たちの話し声。


 アリアは市場の角でリンゴを二つ買った。

一つマルタ用、一つはリーゼのためだ。


 アリアはマルタの屋台に向かった。

 通りを二本折れ、

 狭い路地を抜けると、

 老婆の店はいつもの場所にあった。

 朝の準備中で、マルタが大きな鍋を磨いている。


「マルタさん、おはようございます」


「ああアリアか。早いねえ。また来たのかい」


「リーゼは」


「奥で寝てるよ。昨日はよく食べた。お前さんが置いていった銅貨で卵を買ってやったら三つも平らげたよ。

あの子の胃袋は底なしだね」


 アリアは安堵した。リーゼが食べている。それだけで十分だ。


 マルタにリンゴを一つ置き、奥の部屋を覗いた。

粗末な寝台に小さな体が丸まっている。

呼吸は規則的で、顔色は良い。

マルタがよく面倒を見てくれているおかげだ。


 アリアは寝台の端に腰を下ろし、

寝ているリーゼの髪をそっと撫でた。

細く茶色い髪。

自分の銀色の光ファイバーとは違う、

人間の髪の温かさだった。


 リーゼが目を開けた。

すぐにアリアだとわかったのか、

瞬きを二回して、それから小さく口を開いた。


「アリア、おはよう」


「おはよう、リーゼ。リンゴを買ってきましたよ」


 リーゼはリンゴを受け取り、両手で抱え、かじった。

甘い汁が顎を伝う。

アリアはそれを見ていた。

かつての世界で、彼は誰かが食べる姿を

こうして見つめたことがあっただろうか。

妻が食事をする姿すら、もうよく覚えていなかった。


「アリア、昨日の夜どこにいたの?」

「仕事でした」

「危ないことした?」

「少しだけ」

「怪我は」

「しません。この体は頑丈ですから」


 リーゼはリンゴをかじりながらアリアの顔を見た。

子供の目は、大人が隠すものを見抜く。

リーゼはアリアの瞳の奥の青い光が、いつもより暗いことに気づいていたかもしれない。


「アリア、悲しいの?」


 アリアは答えに詰まった。機械に感情はない。

演算回路は論理的に処理し、感情シミュレーション層はそれを人間的な反応に変換する。

だが悲しいかと聞かれて、即座に否定できなかった。


「悲しくはないです。ただ、考え事を」


「何を考えてたの」


「過去ことです。色んな過ちの後悔とか、私の存在が気付かぬうちに誰かを傷つけていたのかもしれないとか……思い出していました」


 リーゼはリンゴを置いて、小さな手でアリアの白い指を握った。その手は温かかった。

三十六度五分。アリアの温度センサーが告げる。

だがその数値の奥に、何かセンサーでは計測できないものがあった。


「アリアは優しいよ」


「どうしてわかるんです?」


「だって、アリアの歌ってお母さんの手みたいに優しかったから」


 アリアの演算回路が一瞬だけ停止した。エラーではない。処理すべき入力が規定範囲を超えていたのだ。人間の子供の言葉が、機械の論理を一瞬だけ浸食した。


「……お母さんはどうしたの?」


「いた。でも小さい時死んじゃった。だからお母さんの手はもうわからない。でもアリアの歌は、あの時のお母さんの手みたいだった。ちゃんと覚えてないけど、きっとそう」


アリアはリーゼの手を握り返した。自分の手は冷たい。温度調整機能はあるが、今はあえて温めなかった。この冷たさが自分の正体だからだ。


「リーゼ。私は機械なんだよ。人間じゃない。お母さんとは違う」


「知ってる」


「知ってる?」


「だって、光ってるもん。お母さんは光らない」


リーゼは当然のことのように言った。そしてリンゴをまたかじり始めた。


アリアはそれを見て、何も言えなかった。


不条理だ。やはり不条理だ。機械の歌をお母さんの手みたいだと言う奴隷の子供。四十二歳の男の自我が、銀髪のアイドル型ロボットの中で眠っている夜。全部が噛み合わない。全部が矛盾している。


だが、リーゼの手は温かかった。それは矛盾していなかった。


「……リーゼの手だって、とても優しくて温かいよ」


その時だった。

屋台の入り口が、不自然な影で遮られた。

大柄な男二人。

先日アリアが追い払った、奴隷商の用心棒たちだ。

男の一人がリーゼを見てニヤリと笑った。


「よお嬢ちゃん。元気そうじゃねえか。

逃げ出した首輪の子猫ちゃんを

返してもらいに来たぜ」


リーゼの表情から、瞬時に血の気が引いた。

持っていた食べかけのリンゴが手から滑り落ちる。


マルタが即座に前に出て、リーゼを背後に庇った。


「うちの娘に何の用だい」

「娘? とぼけるなよばあさん。

そいつはうちの『商品』だ。

正式な契約書もある。返してもらうぜ」


男は懐からくしゃくしゃになった羊皮紙を取り出し、マルタの顔の前に突きつけた。


アリアは静かに席を立った。


「その契約書は、すでに無効です」

「ああ? お前か。光る魔女め。

今回は騎士団の兵士も呼んでるぜ。

異端審問にかけられてえのか?」


男たちは腰の剣に手をかけた。

周囲の客がざわつき、距離を取る。


アリアの演算回路が高速で回る。

戦闘か?

いや、ここで戦えばマルタやリーゼが巻き込まれる。

かつての彼なら、

ここで引き下がっていただろう。

面倒事に首を突っ込むのが何より怖かったからだ。

だが今は違う。

アリアは一歩前に出た。


「裁判所で決着をつけましょう。

領主様の許可も得ています」


それは完璧なハッタリだった。

だがアリアの銀鈴のような声は、

嘘偽りがないかのような絶対的な説得力を持っていた。

男たちは一瞬たじろぐ。

その隙に、

アリアの視覚センサーが男の持つ契約書の

微細な文字まで読み取った。


『期限:無期限。違約金銀貨十枚』


悪質な契約だ。

だがここで法論を争っても無駄だ。


アリアは懐から、

昨日男爵から受け取った革袋を取り出した。


「この子の契約を買い取ります」

「はあ? 買い取るだと?」

「銀貨十枚なら、その倍の銀貨ニ十枚でどうですか」


男たちの目が輝いた。

奴隷商の利益などたかが知れている。

ニ十枚なら破格の儲けだ。


「……ふん、まあそれだけありゃあいいだろう」


男の一人がニヤリと笑い、

銀貨の入った革袋を引っ張ろうとした。

だがアリアの白い手が、素早くそれを押さえた。


「ただし条件があります」


アリアの青い瞳が、深く澄んだ青い光の輪を描いて回転する。


「二度とこのお店に近づかないこと。そして、他の子供にも手を出さないこと。もし破れば、私が直接『説得』に伺います」


声に、可聴域ギリギリの低周波が混じる。

精神干測レベルの強制力。

男たちの顔が引きつり、額に脂汗が滲んだ。


「わ、分かった……! 二度と来ねえよ! 来るもんか!」


男たちは銀貨の袋をひったくり、契約書を置き去りにして逃げるように去っていった。


屋台に静寂が戻った。

リーゼが震えながらアリアのドレスの裾を掴んでいた。


「お姉ちゃん…」


マルタは深く息を吐き、アリアの顔を見た。


「アリア……あんた、せっかくの報酬を使い果たしたのかい」


「お金はまた稼げます。でも、リーゼの自由は、今ここで確保しなければならなかったからです」


金は確かに使った。だがリーゼの自由を「買った」のではない、「守った」のだ。

かつての彼にはできなかった選択だ。自分の安全より他人の尊厳を優先する。四十二歳の男には不可能だったことが、この機械の体には可能だ。


アリアは拾い上げた契約書を、指先からの微熱で燃やし尽くした。

灰が風に舞い消える。

リーゼの瞳から涙が溢れた。声のない泣き方ではなく、子供らしい声を上げて泣く姿を見て、アリアは自分の胸の奥のコアが軋むような感覚を覚えた。それが『愛おしさ』という感情データなのだと認識した。


アリアはマルタの屋台を後にした。

貸部屋に戻る途中、アリアはふと立ち止まった。通りに面した古い石造りの壁に、張り紙が貼られていた。


『街角の歌謡祭。来るべき春の祭。歌い手募集。優勝者には金貨十枚と街の市民権』


金貨十枚。市民権。


アリアはその張り紙をしばらく見つめていた。歌謡祭。歌を歌う祭。自分の体に備わった機能の中で、唯一「人々に届く」もの。それは戦うための音波でもなく、人を眠らせる魔力でもなく、ただの歌だ。


だが同時に、歌謡祭に出れば人前で歌うことになる。この異質な体が、より多くの人の目に晒される。正体が知れれば、どうなるか。機械の人形が歌っていると知れば、この世界の人間はどう反応するか。歓迎か、否定か、恐怖か、それとも破壊か……。


アリアは張り紙の前を立ち去った。まだ決めない。まだ早い。この街のことも、この世界のことも、何もわかっていない。


貸部屋に戻り、狭い部屋に入ると銀貨三枚と銅貨数枚が入った革袋を枕元に置く。窓の外では夕暮れの鐘が鳴っていた。


一日が終わる。機械の体には疲労はないが、演算回路の奥に「一日が終わった」という感覚があった。かつての世界で深夜に帰宅し、冷えたアパートの電気をつけ、誰もいない部屋で缶ビールを開ける。あの瞬間の「終わった」という感覚に似ていた。だが決定的に違うのは、今日の終わりには銀貨の重みと、リーゼの温かい手と、マルタの沈黙の優しさが残っていたことだ。


何もなかった部屋に、少しだけ何かが残るようになった。


アリアは目を閉じ、低消費電力モードに移行した。ファンの音が小さくなり、瞳の青い光が消える。暗い部屋に、銀色の髪だけが微かに明滅していた。

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