第十章 地下水路の共振
ギルドの扉を開けると、朝の喧騒がいつもと違っていた。
冒険者たちがカウンターの前に列を作っている。だがその表情は活気ではなく不安だった。ひそひそ声が交わされ、誰もが何かを恐れているようだった。
アリアが列の脇を通ってカウンターに近づくと、カレンが帳簿を叩く手を止めて顔を上げた。いつもの鋭い目の奥に今日は疲れが見えた。
「おはようアリア。ちょうどよかった。あんたに話がある」
「おはようございます。何かあったのですか」
「一昨日の夜から地下水路の調査依頼が来て、銀級の連中を二人送り込んだんだけど、どっちも戻ってきてない」
カレンの声は低かった。だがその奥に焦りが滲んでいる。
「戻っていない?」
「一人は昨日の昼に入った。もう一人は夕方に追加で送った。どっちも連絡なし。地下水路の入り口には見張りを立ててるが、中に入ったきり出てこない」
アリアの演算回路が状況を分析した。行方不明者二名。地下水路。未知の脅威。
「他の冒険者は」
「銀級以上の腕の立つ連中は運悪く皆出払っちまってる。半端な冒険者を送り込んで、これ以上行方不明者を増やしたくは無いからな」
カレンは帳簿を閉じ、アリアの目を真っ直ぐ見た。
「そこで正直に言う。あんたに頼みたいことがある。ただしこれは普通の依頼じゃない。行方不明者の救出も兼ねてる」
「ご依頼承りました。二人の名前と装備は?」
報酬の額も聞かずに即答で依頼を受けた事にカレンは少し驚いた顔をした。
「……一人目はデッカー。銀級の古参で剣使い。経験はあるが腕は並み。二人目はリーナ。銀級になったばかりの若い娘で短剣使い。装備は二人とも革鎧に銅製の武器。たいした装備じゃない」
「地下水路の状況は」
「最近、地下から奇妙な振動音がするんだと。下流の井戸水が濁り始め、近隣で下痢や発熱の報告が上がっている。衛兵が一度入口から覗いたが、奥から低い音が聞こえて引き返したそうだ」
「低い音」
アリアの聴覚センサーが微かに反応した。音。それは彼女の最も得意とする領域だ。
「その音について詳しく教えてください。衛兵は何と言っていましたか」
「『地面が震えるような音がする』だと。普通の音じゃない。何か生き物の声とも違う。体の中に響くような不快な音だと言ってた」
体の中に響く音。低周波。人間の可聴域以下の振動。内臓に共振する周波数。アリアのデータベースが即座に該当する情報を弾き出した。
「その音の方向は一定でしたか。それとも変動していましたか」
カレンは眉をひそめた。
「なぜそんなことを聞くんだい」
「音の性質を知れば原因が絞り込めるからです。一定の方向から聞こえるなら固定された発生源。変動するなら移動する何か。衛兵が音を聞いた位置と時間、そして音が最も強く感じられた方向がわかれば」
「待ちな。衛兵を呼んでくる」
カレンは奥の部屋に入り、一分後に若い衛兵を連れて戻ってきた。二十代前半の男で顔色が悪い。一晩中見張りに立っていたのだろう。
「衛兵のトーマスだ。地下水路の入り口を見張ってた。さっそくだがトーマス、
直接アリアの質問に答えてやってくれ」
トーマスはアリアの姿を見て一瞬ぎょっとしたが、カレンが目で促すと咳払いをして話し始めた。
「あの音はですね。昨日の夕方頃から聞こえ始めました。入り口から三十歩ほど入ったところで立ち止まって聞いたんですが、音は奥から来ていました。方向はほぼ一定。北東の方向です。そして音は断続的でした。五秒鳴って三秒止まる。それの繰り返しです」
「五秒鳴って三秒止まる。規則的ですね」
アリアの演算回路がパターンマッチングを行った。規則的な間隔。低周波。内臓共振。
「それは呼吸です」
「呼吸?」
カレンとトーマスが同時に聞き返した。
「五秒吸って三秒止まる。あるいは五秒吐いて三秒止まる。生き物の呼吸パターンです。かなり大型の」
カレンの顔が険しくなった。
「つまり何かが住みついてるってことか」
「それも相当大きな何かが。地下水路の奥に」
トーマスが青ざめた。
「じゃあデッカーさんとリーナさんはその何かの巣に入り込んだってことですか」
アリアはトーマスに向き直った。
「トーマスさん。もう一つ聞いていいですか。その音を聞いた時、体に何か異常はありましたか」
トーマスは腕をさすった。
「吐き気がしました。それと、なんとなく頭がぼーっと。音が止まると少し楽になるんですが、また鳴り始めると辛くなる。あの音はなんだか嫌なことを思い出させるような、そんな感じがしました」
嫌なことを思い出させる。精神干渉成分の可能性。単なる物理的な低周波ではなく、魔力を含んだ音波。
「わかりました。ありがとうございますトーマスさん」
トーマスが下がった後、カレンは腕を組んでアリアを見た。
「どうだい。いけるか」
「行きます」
アリアは即答した。
「ただし一つ条件があります」
「条件?」
「もし行方不明の二人が生きていた場合、彼らの救出を優先します。原因の排除はその後です。それでも構いませんか」
カレンは少し目を見開いた。そして苦笑した。
「あんたは変わってるね。普通の冒険者なら報酬のために原因排除を優先する。行方不明者は二の次だ」
「人が助かるのが先です。原因は後からでも対処できます」
「……わかった。救出優先でいい。ただし無理はするなよ。あんたまで行方不明になったら私が泣くからね」
「泣かないでください。必ず戻ります」
アリアは依頼書を受け取った。
羊皮紙には『地下水路の行方不明者2名の救出、もしくは異変調査および原因の排除。報酬額金貨二枚』
と記され、カレンの署名とギルドの印が押されていた。
「カレンさん。もう一つ」
「なんだい」
「地下水路の見取り図はありますか。以前の調査記録があれば教えてください。でないと二人を探すのに手間がかかります」
カレンは引き出しから古い羊皮紙を取り出した。
「十年前の調査記録だ。地下水路は三百年前に作られた古いものだが、構造はだいたいこのままのはず。ただしそれ以降に崩落や水路の変化があるかもしれない」
アリアは見取り図を一瞥し、瞬時に記憶した。主要な通路三本。合流地点二箇所。地下貯水槽一箇所。出口は入り口を含めて四箇所。
「ありがとうございます」
アリアが背を向けた時、カレンが呼び止めた。
「アリア」
「はい」
「あんた、前の宿屋の幽霊の件もそうだけど、音に関することになると人が変わるね。目の色が変わるっていうか」
アリアは振り返らなかった。ただ微かに肩をすくめた。
「音は私の仕事ですから」
その言葉は嘘ではなかった。だが完全な真実でもなかった。音は仕事だ。だが音は同時に、この不条理な体に与えられた唯一の「言葉」でもある。人間だった頃に使えなかった言葉。機械になった今、ようやく使えるようになった言葉。
「行ってきます」
アリアはギルドを出た。
外の光が眩しかった。だがアリアの視界にあるのは光ではなかった。地下水路の奥で待つ「音」と、その音の果てにいるかもしれない二人の命だった。
アリアは地下水路の入り口にたどり着いた。
街の外れ崩れた石段の下。
湿った冷気が漂い腐敗臭とカビの匂いが鼻をつく。人間の嗅覚なら嘔吐するレベルだがアリアのセンサは成分分析メタンガス硫化水素腐葉土と出力するだけだ。
暗視モードに切り替え石積みのトンネルへと足を踏み入れる。
歩き出してすぐ異変を感じた。
音だ。
低い唸り声のような振動。地下水路の壁全体が微かに震えている。
アリアの聴覚センサが周波数を解析する。
周波数十八ヘルツ。人間の可聴域以下。内臓に共振する振動。
それは地下水路に棲みついた何かの心臓の鼓動か呼吸音のようだった。
トマスの証言通りだ。五秒鳴って三秒止まる。規則的な呼吸パターン。だが現場で聞くとその音は予想以上に重く、アリアの機械の体でさえ内部回路に微かな干渉ノイズが走るのを感じた。
トンネルを進むと水路の水量が増していた。濁った水が粘り気を帯びている。アリアは水に手を浸した。
成分分析高濃度の魔力残滓および未確認の有機毒素。
これが井戸水を汚染している原因だ。
通路の壁に沿って進むとアリアは何かを見つけた。通路に革鎧の破片が落ちている。デッカーのものかリーナのものかは判別できないが少なくとも二人はここを通った。
更に奥へ進むと分岐点に来た。見取り図では左が地下貯水槽への通路右は排水路。左の通路からあの低周波の振動が強く感じられる。
アリアは左の通路の壁に手を触れた。振動が指先から伝わる。壁の石が微かに震えている。だがそれだけではない。壁の表面に何かが付着している。粘液だ。灰色の粘液が壁を伝い通路の奥へと続いている。
アリアは粘液を分析した。
成分分析未確認の有機タンパク質。魔力を含む。
生き物の体液だ。そしてその粘液の軌跡は地下貯水槽へと続いている。
貯水槽に近づくにつれ空気が変わった。湿度が上がり空気中に微細な胞子のようなものが漂っている。アリアの濾過システムが自動起動し吸入空気を浄化する。
そして広大な地下貯水槽に出た。
そこに『それ』はいた。
巨大な肉塊。
粘液にまみれた灰色の塊。地下の壁から天井へと張り付き無数の触手が水面に垂れ下がっている。触手の先端から毒々しい紫色の液体が滴り落ち静水を波立たせていた。
そしてあの十八ヘルツの唸り声はこの肉塊の中心から発せられていた。
アリアは貯水槽の入り口で立ち止まり全体をスキャンした。
視覚センサが肉塊の全体像を捉える。直径約十五メートル。触手は四十本以上。中央に核と思しき高密度の魔反応。
そして肉塊の根元に二人の冒険者がいた。
デッカーとリーナだ。
二人とも壁に張り付いた粘液によって動けなくなっている。意識はあるようだが体が動かない。粘液が神経を麻痺させているのだろう。
肉塊がアリアの存在に気づいた。
無数の触手が一斉に蠢き鞭のようにアリアに向かって伸びてくる。速い。
アリアは背中のスラスターを瞬間噴射し重力を無視して宙に舞い触手を回避した。触手が石の床を打ち砕く。物理的な破壊力も凄まじい。
アリアは歌った。
高周波の攻撃的なソプラノ。音の刃が触手を切り裂く。切断面から黄色い体液が飛び散る。
だが肉塊はすぐに新しい触手を再生する。再生速度が速すぎる。まともに切り結んでいてはキリがない。
アリアは解析を続ける。
この魔獣の核はどこだ。
視覚センサが肉塊の内部を透過しようと試みるが濃密な粘液が邪魔をする。
だが聴覚センサが捉えた。あの十八ヘルツの振動の発生源。肉塊の最深部。
触手が襲い掛かるがアリアはアクティブバランス制御でそれを紙一重でかわし肉塊の表面へと張り付いた。粘液が人工皮膚を侵食するが自己修復機能が即座に修復する。
「目標に位相反転波を放ちます」
それは歌ではない。ただの音だ。
アリアは肉塊の内部に向けて音波を放射した。
あの十八ヘルツの振動を正確に打ち消す逆位相の音波。
内部共鳴により肉塊の核が激しく振動する。
十八ヘルツと逆位相の十八ヘルツがぶつかり合い互いに打ち消し合う。
破壊的な共振現象。
『ギギ……』
肉塊が初めて耳障りな悲鳴のような超高周波を発した。
次の瞬間核が砕け散った音が響く。
肉塊が灰のように崩れ落ちていく。
触手が干からび床に落ちる。
後には巨大な骸と浄化され始めた水だけが残った。
アリアは静かに着地した。
白いドレスに付いた粘液が微かな光を発して蒸発していく。自己浄化機能だ。
すぐにデッカーとリーナの元へ駆け寄った。二人を壁から固定している粘液を指先の超音波で慎重に分解する。数分後二人は自由になったが手足の痺れはすぐには取れないようだった。
「大丈夫ですか」
デッカーが弱々しい声で答えた。
「た……助かった……本当に助かった。あの化け物の歌で頭が割れそうになって動けなくなって……」
リーナは泣き出した。
「怖かった…音がずっと頭の中で鳴ってて」
アリアはリーナの肩を抱いた。小さな体が震えている。三十六度二分。低体温。精神的ショック。だが命に別状はない。
「もう大丈夫です。音は止まりました。帰りましょう」
アリアは二人を支えて地下水路を出た。
デッカーが空を見上げて「生きて帰れた」と呟いた。
地下水路から出ると外は夜だった。
星空が見えた。
地上の泥濘とは無縁の冷たく澄んだ光だった。
アリアは二人をギルドに届けカレンに報告した後、
地下水路の入り口に一人腰を下ろしばらくその星空を見上げていた。
この世界に来る前の彼はほとんど星を見たことがなかった。正確には見ようとしたことがなかった。深夜帰路のコンビニの駐車場でふと顔を上げたことはあったが光害と曇天で空はいつも濁ったオレンジ色だった。星など見えなくても生きていけた。それが彼の人生の態度だった。
だが今は違う。この機械の瞳は暗視モードを切っても微光を捉え無数の光点を鮮明に識別できる。星座のパターンマッチングを試みたがかつての世界のそれとも異なりデータベースに該当する星座はなかった。それでも美しかった。
「……きれいだ」
呟いた声はやはり銀鈴のソプラノで夜気に溶けていった。




