第六十三章 四十二歳の男と歌姫
墓地を出たアリアとフィナがミルフィアへ戻る頃には、空がゆっくりと茜色へ変わっていた。
百年前と比べれば街はずっと大きくなり、高い建物も増え、街道には王国や帝国だけでなく遠い国から来た人々の姿もある。人間の隣を魔導人形が歩き、古代機械の部品を積んだ荷車が行き交い、その横で子供たちが何も珍しがらずに遊んでいた。
フィナはしばらく黙って歩いていたが、やがてアリアを見上げた。
「アリア先生は、これからもずっと生きるんですか?」
「分かりません」
「機械なのに?」
「機械だからといって壊れないわけではありませんよ。百年間で何度も修理しましたし、交換できない部分もあります」
「じゃあ、いつかアリア先生もいなくなる?」
「たぶん」
フィナは少し寂しそうな顔をした。
「嫌だな」
「ありがとうございます。でも、それでいいんです」
「どうして?」
アリアはすぐには答えず、街の向こうに見える星詠みの塔を眺めた。
百年前、あの塔には世界を決める者がいた。
今は誰もいない。
正確には、決める人がいないのではなく、必要な時に必要な人が集まって決める場所になった。
「昔の私は、誰かを助けるなら最後まで助けなければいけないと思っていました。世界を良くするなら、自分がずっと見ていなければいけないとも少し思っていたんです」
「今は?」
「私がいなくても続くなら、その方がいいと思っています」
フィナは首を傾げた。
「でもアリア先生がいた方が安心だよ」
「そう言ってもらえるのは嬉しいです。でも、それを理由に私がずっとここにいなければならないとなったら、百年前と同じでしょう?」
「あ……」
「必要だから残ってほしいと思うことと、その人が残らなければならないことは別なんです」
フィナはしばらく考えてから頷いた。
「じゃあ先生も、辞めたくなったら辞めていい?」
「もちろんです」
「何するの?」
「まだ辞めませんよ」
「なんだ」
アリアは笑った。
その夜、アリアは星詠みの塔の屋上で一人、ミルフィアの灯りを眺めていた。
少なくとも外から見れば一人だった。
『なあ』
胸の奥というより、もっと思考に近い場所から言葉が浮かぶ。
「はい」
『今日、リーゼの墓の前で泣きそうになってただろ』
「泣いていません」
『泣く直前だった』
「それはあなたもでしょう」
『そういうところ、百年前から変わらないな』
「あなたに言われたくありません」
アリアは笑った。
『……リーゼ、ちゃんと生きたな』
「……はい。本当に」
そしてその言葉に続いた気持ちも、もうどちらのものなのか分からなかった。
ただ二人とも、もう一度泣きそうになっていた。
今度はアリアも誤魔化さなかった。
男も何も言わなかった。
時間がいくら過ぎても、別れに慣れることはなかった。
けれど、それでいいのだと今の二人は思っていた。
悲しくなるほど大切だったということまで、忘れてしまう必要はないのだから。
二人がこうして言葉を交わすのは珍しいことではない。
この世界でアリアが再び目覚めた時から、ずっとそうだった。
A.R.I.A-03として元から存在していた人格。
そして別の世界で四十二年間を生きた男の人格。
二人は同じ身体の中で目を覚まし、最初から互いを認識していた。
同じ目で見て、同じ耳で聞き、同じ身体を動かし、記憶も感情もほとんど共有していた。
男が何かを思えば、その気持ちはアリアにも伝わる。
アリアが嬉しければ、その温かさは男にも届く。
だから最初の頃から、どちらが身体を動かしたのか分からなくなることもあった。
それでも二人は別の人格だった。
男は自分を「俺」と呼んだ。
アリアは自分を「私」と呼んだ。
百年経った今でも、それだけは残っている。
『百年か』
「長かったですか?」
『最初の四十二年より長いはずなんだけどな。不思議とこっちの百年の方が短く感じる』
「色々ありましたからね」
『色々で済ませる量じゃないだろ』
男の記憶が浮かぶ。
雨の降る廃墟で目覚めた日。
自分の手が少女の形をしているのを見て、男が本気で混乱した。
『待て待て待て、何で女の子なんだ』
「私は最初からこの姿ですが」
『いや、そういう問題じゃない!』
「ではどういう問題なんです?」
『俺にも分からん!』
あの頃のアリアは男の反応を理解できなかった。
男の方も、頭の中から平然と返事をしてくる少女人格を理解できなかった。
それでも歩かなければならなかった。
リーゼと出会った。
マルタと出会った。
カレンと出会い、ヘレナとニコに会い、ミアの手を握った。
イレーヌと古代文明を調べ、エクリプスと戦い、ハルモニアを目覚めさせた。
ソラリスと向き合い、自分たちの中にある四十二年間の記憶がどこから来たのかも知った。
世界を救おうとして、救うことと支配することの境界で何度も迷った。
その全てを二人で見てきた。
「昔はよく喧嘩しましたね」
『今もするだろ』
「昔ほどではありません」
『昔は身体をどっちが動かすかで揉めたからな』
「あなたが危険な時に逃げようとするからです」
『普通は逃げるんだよ。剣を持った相手に向かっていく方がおかしい』
「リーゼが後ろにいたでしょう」
『分かってる。だから最後には俺も止めなかった』
「止めなかったというより、一緒に動きましたよね」
それは何度もあった。
アリアが誰かを助けようとして前へ出る。
男は怖いと思う。
逃げたいと思う。
それでも最後には足が動く。
どちらが動かしたのか分からない。
逆もあった。
アリアが自分を犠牲にすれば全て解決すると判断した時、男が強く拒絶した。
『お前まで自分のことを道具扱いするな』
あの言葉を、アリアは今でも覚えている。
「私が人を助けることばかり考えていた時、止めたのはあなたでした」
『俺は人助けなんて得意じゃなかったからな』
「だから良かったんです」
『褒めてるのか?』
「とても」
アリアは微笑んだ。
最初の頃、男はアリアを眩しいと思っていた。
人を助けたいと言えること。
歌いたいと言えること。
誰かのために迷わず動けること。
自分にはなかったものだと思っていた。
けれどアリアから見れば、男の方にも自分にはないものがあった。
失敗する怖さを知っていた。
善意がいつでも正しい結果になるとは信じていなかった。
必要とされることの甘さも、その言葉に縛られる危険も知っていた。
昔の人生で傷ついた部分が、百年後にはアリアが立ち止まる理由になっていた。
『でも最近、どこまでが俺でどこまでがお前なのか、分からなくなってきたな』
「私もです」
これは百年の間に少しずつ起こった変化だった。
最初はもっとはっきりしていた。
『俺は嫌だ』
「私はやりたいです」
『危ない』
「それでも行きます」
そんなふうに二つの考えが明確に並んでいた。
今では違う。
誰かが困っているのを見れば、助けたい気持ちと慎重に考えようとする気持ちが同時に生まれる。
舞台へ立てば、歌いたい喜びと人前に出る恥ずかしさが一緒に存在する。
甘いものを見れば食べてみたいと思う一方で、「機械なのに意味があるのか」と考える。
どちらから生まれた感情なのか、もう分からない。
「融合しているんでしょうね」
『嫌か?』
アリアは少し考えた。
「いいえ」
『俺もだ』
「でも、完全に一つにはなっていません」
『こうして話せるしな』
「はい」
少しの沈黙があった。
『いつか完全に混ざると思うか?』
「可能性はあります」
『その時、俺は消えるのか?』
アリアは答えるまで少し時間を置いた。
「消えるという表現は違うと思います」
『じゃあ?』
「例えば百年前の私と今の私は同じアリアですが、考え方はかなり変わっています。それでも百年前の私は消えたとは思いません」
『なるほどな』
「あなたも同じです。もし境界がなくなっても、あなたがいなかったことにはなりません」
『ずいぶん機械らしくない答えになったな』
「誰の影響でしょう」
『俺じゃないだろ。俺はそんな立派なこと考えない』
「そうやって自分を低く評価するところは、百年前からあまり変わりませんね」
『百年じゃ治らなかったか』
「少しは治りました」
男はしばらく黙っていた。
同じ視界で、二人は街を見ていた。
リーゼはもういない。
マルタも。
カレンも。
ヘレナもニコもミアも、百年前に出会った多くの人々も、今では記憶の中にいる。
『寂しいな』
「はい」
『俺、昔は誰かが死んでも、ここまで寂しくなるほど人と付き合ってなかった』
「知っています」
『知ってるよな。全部共有してるんだから』
「でも今は寂しいでしょう?」
『ものすごくな』
「私もです」
それも、どちらの悲しみなのか分からなかった。
二人のものだった。
『それでも、会わなかった方が良かったとは思わない』
「私も思いません」
『最後には死ぬって分かっててもか?』
「それでもです」
アリアは墓地でフィナに聞かれたことを思い出した。
百年経っても寂しいのか、と。
寂しい。
けれど、寂しくなるから出会わなければ良かったとは思えない。
四十二歳の男も同じ気持ちだった。
『なあ、アリア』
「何です?」
『俺たちって、結局何なんだろうな』
「百年経って今さらですか?」
『百年考えたから聞いてるんだよ』
アリアは少し笑った。
最初は転生だと思った。
一人の男が少女型機械へ生まれ変わったのだと。
その後、A.R.I.A-03には元々人格があったと分かった。
さらに四十二年間の記憶がソラリス由来の複製だったことも知った。
ならば男は偽物なのか。
アリアが本物なのか。
それとも二つが混ざってできた現在の存在だけが本物なのか。
昔はずいぶん悩んだ。
今では答えは単純だった。
「私たちは私たちですよ」
『雑だな』
「百年考えた結果です」
『俺とお前で?』
「はい。二人で一人に近くて、一人なのに二人でもある」
『説明になってない』
「説明する必要があります?」
男はしばらく考えた。
『ないか』
「でしょう?」
アリアは夜空を見上げた。
「私はアリアです」
『俺は四十二歳の冴えない男だ』
「まだそれを言いますか」
『じゃあ、元・冴えない男』
「百年生きているので、年齢は百四十二歳以上ですよ」
『やめろ。その数字は聞きたくない』
アリアは声を上げて笑った。
しばらくして男が言った。
『一つだけ、不思議なんだよ』
「何がです?」
『俺、人前に出るの嫌いだっただろ』
「はい」
『飲み会のカラオケから逃げたこともある』
「覚えています」
『なのに百年経った今、歌を唄うことをちょっと楽しみにしてる』
アリアは目を細めた。
「私の影響ですね」
『たぶんな』
「嫌ですか?」
『いや』
答えはすぐに返ってきた。
『昔の俺だったら、誰かに見られるのが怖かった。下手だったらどうしようとか、笑われたらどうしようとか、そんなことばっかり考えてた』
「今は?」
『別に笑われてもいいかな』
「随分変わりましたね」
『お前と百年もいたからな』
少し間を置いて、男が続ける。
『お前も変わっただろ』
「私が?」
『最初のお前なら、歌う理由を聞かれたら「人の心を癒やすためです」と即答してた』
「……そうですね」
『今なら?』
アリアは考えなかった。
「歌いたいから歌います」
『だよな』
「あなたの影響でしょうか」
『どうだろうな。俺、昔は歌いたいなんて一度も思わなかったし』
「では二人で変わったんですね」
『それが一番しっくり来る』
夜が深くなる。
街の灯りが少しずつ消えていった。
アリアは屋上の手すりから離れた。
「戻りましょうか」
『そうだな』
「明日もありますから」
『何か予定あったか?』
「みんなで集まるでしょう。そのあと歌おうと思っています」
『また歌うのか』
「嫌です?」
『まさか』
アリアが扉へ向かう。
途中で男がふと尋ねた。
『もし最初からやり直せるとしても、また俺と一緒でいいか?』
アリアの足が止まった。
百年前なら、長く考えたかもしれない。
今は違う。
「はい」
『即答だな』
「あなたは?」
『俺もだ』
「少女型機械の中ですよ?」
『それは最初だけ相当困った』
「今は?」
『今さら別の身体に行けって言われても落ち着かない』
「私も、あなたがいないと少し静かすぎます」
『少しかよ』
「かなり」
『ならよし』
アリアはもう一度笑った。
男も笑っていた。
どちらが最初に笑ったのかは分からない。
百年前なら区別できたのかもしれない。
今はもう、それでよかった。
二つの人格は消えてはいない。
片方が片方を乗っ取ったわけでもない。
長い時間を共に生きるうちに、境界が少しずつ柔らかくなり、同じ喜びや悲しみを分け合いながら、それでも「俺」と「私」は残っている。
それが今のA.R.I.A-03だった。
「おやすみなさい」
『同じ身体なのに俺だけ寝られるわけじゃないだろ』
「雰囲気です」
『はいはい。おやすみ』
アリアは塔の中へ戻った。
明日も世界は続く。
自分たちがいなくなったあとも、きっと続いていく。
だから明日は世界のためではなく、自分たちのためにも歌おうとアリアは思った。
その考えに、四十二歳の男も何も付け足さなかった。
付け足す必要がなかった。
同じことを思っていたからだった。




