第六十二章 百年後――残ったもの
星詠みの塔での授業が終わった日の夕方、フィナは帰ろうとするアリアを呼び止めた。
「アリア先生、百年前の話に出てくる人たちは、そのあとどうなったんですか?」
「誰のことです?」
「リーゼとか、マルタさんとか、カレンさんとか。教科書には制度がどう変わったとか、国がどうなったとかばかり書いてあって、その人たちがどう生きたのかはほとんど載ってないです」
アリアは少しだけ目を細めた。
「では、寄り道して帰りましょうか」
「どこへ?」
「百年前の人たちに会える場所です」
アリアがフィナを連れて向かったのは、ミルフィアの古い墓地だった。
街は百年前よりずっと大きくなっていたが、この一角だけは昔とあまり変わっていない。古い木々の間に小さな墓石が並び、その中の一つへアリアは迷うことなく歩いていった。
そこには二つの名前が並んで刻まれていた。
マルタ。
リーゼ。
「一緒なんですか?」
「リーゼがそうしてほしいと言ったんです」
フィナが墓石を見る横で、アリアは静かに話し始めた。
「マルタさんは、世界を変えるような仕事はしませんでした」
「そうなの?」
「最後まで食堂をやっていました」
百年前、情動安定化機能の問題が終わったあとも、マルタの日常はほとんど変わらなかった。
朝になると店を開け、鍋にスープを入れ、昼になれば労働者や冒険者へ食事を出す。
ただし、店には少しずつ変わった客が増えた。
魔導人形。
帝国から来た人間。
星詠みの塔の研究者。
住む場所をなくした子供。
誰であってもマルタはあまり態度を変えなかった。
「食べられるなら食べな。食べられないなら座って話でもしていきな」
それが彼女の決まり文句だった。
魔導人形には食事が必要なかったが、それでも何体かは店へ通った。人間が何をしながら食べるのかを見るためだった。
M-173もその一体だった。
「マルタさんは長生きしたんですか?」
「八十四歳まで生きました」
「アリア先生はずっと一緒にいた?」
「はい」
最期の日も、マルタは自分の家にいた。
病院へ移ることもできたが、本人が嫌がった。
「どうせなら自分の布団で寝たいよ」
そう言って、いつもの部屋で眠った。
アリアもリーゼもそばにいた。
マルタは最後まで特別なことを言わなかった。
「アリア、リーゼ、夕飯はちゃんと食べな」
それが最後の言葉だった。
「……それだけ?」
「それだけです」
アリアは微笑んだ。
「マルタさんらしいでしょう?」
「リーゼは?」
フィナが尋ねる。
アリアは隣に刻まれた名前を見る。
「リーゼは大人になりました」
「何になったの?」
「最初は何にもなりたくないと言っていました」
幼い頃のリーゼは長いあいだ、自分の将来を聞かれることが嫌いだった。
奴隷だった頃は自分で明日を決めることすらできなかったのに、自由になった途端、大人たちは何になりたいのかと聞いてくる。
それが重かったのだという。
「だから私は、分からないなら分からないままでいいと言いました」
リーゼは十五歳になる頃までマルタの店を手伝い、その後しばらくミルフィアの学校へ通った。
やがて、自分と同じように戦争や奴隷制度で家族を失った子供たちの世話をする仕事を始めた。
政治家にはならなかった。
星詠みの塔にも入らなかった。
「世界を変えたいんじゃない。目の前にいる子が、今日どこで寝るか分からないのが嫌なだけ」
それがリーゼの言葉だった。
彼女が始めた小さな保護所は、後にいくつもの街へ広がった。
ただしリーゼ本人は、それを自分の功績とはあまり考えていなかった。
五十歳を過ぎても子供たちに叱られ、七十歳を過ぎると今度は若い職員から「働きすぎです」と叱られていた。
「結婚は?」
フィナが何気なく尋ねた。
「しましたよ」
「誰と?」
「ミルフィアの大工さんです。特別な英雄でも転移者でもありません」
「子供は?」
「二人いました。その子供たちにも子供ができて、今でも街に子孫がいます」
リーゼは九十二歳で亡くなった。
眠る前の日まで自分で歩いていた。
最期にアリアへ言ったのは、昔とほとんど同じ言葉だった。
「私、ちゃんと自分で決めて生きたよ」
アリアは、その言葉だけは何百年経っても忘れなかった。
少し離れた場所には、カレンの墓もあった。
墓石には本人の希望で、とても短い言葉だけが刻まれている。
『カレン よく働いた』
フィナが吹き出した。
「これ本人が決めたんですか?」
「はい。もっと立派な文章にしようとしたら怒られました」
カレンはその後、冒険者ギルドの責任者になった。
ただし条件を一つ付けた。
「辞めたくなったら辞めるからな」
その条件通り、十七年後には本当に辞めた。
後継者も決めなかった。
ギルド側は大混乱したが、数か月かけて仕事を三人へ分けた結果、以前より上手く回るようになった。
「カレンさんは?」
「本人は大笑いしていました。『最初から三人でやれ』って」
その後は小さな酒場を開き、七十六歳まで働いた。
亡くなる少し前、アリアが見舞いに行くと、カレンは昔と変わらない調子で言った。
「お前はまだ世界のことで悩んでんのか」
「はい」
「もう百年くらい悩んでろ」
「たぶん本当に悩みますよ」
「ならちょうどいい」
その数日後、眠るように亡くなった。
「イレーヌさんは?」
「最後まで研究者でした」
イレーヌは星詠みの塔に残り、失われた時代の記録を整理する仕事を続けた。
ただし彼女が最も力を入れたのは、正しい歴史を一冊にまとめることではなかった。
同じ事件について違う人が書いた記録を、できるだけ一緒に残すことだった。
「同じ戦争でも、王国と帝国では書き方が違う。同じ遺物事故でも、研究者と住民では見え方が違う。どちらか一つを消せば、後世の人は考える材料を失う」
その考え方は現在の星詠みの塔にも残っている。
アリアが授業で自分の記憶だけを正解として教えないのも、イレーヌの影響だった。
彼女は八十一歳で亡くなるまで研究を続け、最後まで大量の修正指示を残した。
「亡くなったあとも仕事を増やす人でした」
アリアが言うと、フィナが笑った。
アルトハイム男爵も、その後しばらく生きた。
地下遺構による身体への負担は完全には消えなかったが、アリアとハルモニアの助けによって症状は軽くなり、さらに十年以上ミルフィアを見守ることができた。
その間に彼が行った最も大きなことは、アルトハイム家だけが地下遺構を所有する権利を手放したことだった。
「先祖が守ってきたからといって、子孫だけの物にしていいとは限らない」
そう言って、街と共同で管理する形へ変えた。
自分が死んだあと、子孫が必ず同じ責任を背負わなくてもいいようにするためだった。
話を聞き終えたフィナは、墓地を見渡した。
「みんな死んじゃったんですね」
「人間ですから」
「寂しくない?」
アリアはすぐには答えなかった。
百年前には毎日のように会っていた人たちが、今はもう誰もいない。
マルタの店へ行っても、本人はいない。
カレンの酒場も別の店になった。
リーゼの子孫に会うことはあるが、それはリーゼではない。
「寂しいですよ」
「百年経っても?」
「百年経ったから寂しくなくなるわけではありません」
アリアは墓石へそっと触れた。
「でも、悲しいだけでもありません」
マルタが作った料理の一部は今でも街で食べられている。
リーゼが始めた保護所は今も残っている。
カレンが後継者を決めずに辞めた話は、星詠みの塔の研修でも使われている。
イレーヌが残した記録は、今の子供たちが読む教科書の元になっている。
誰も百年後の世界を設計しようとして生きたわけではなかった。
ただ自分の人生を生きた。
その結果、少しずつ何かが残った。
「百年前、私たちは世界を誰か一人の後継者へ渡さないと決めました」
アリアは墓地を見渡しながら言った。
「でも人から人へ何も渡らなくなったわけではなかったんです」
「何を渡したの?」
「料理だったり、考え方だったり、仕事だったり、失敗だったりします」
「それは後継じゃないの?」
アリアは少し考えてから笑った。
「似ていますね。でも、受け取った人が同じ人生を生きなくてもいいところが違うのかもしれません」
フィナはしばらく考えたあと、リーゼの墓へ小さな花を置いた。
「私、この人に会ってみたかった」
「きっとリーゼも喜びます」
「どうして分かるの?」
「分かりません」
アリアは笑った。
「でも、そうだったらいいなとは思います」
夕暮れの墓地を風が抜けていった。
百年前の人々はもういない。
それでも彼らの人生は、誰かに同じ役目を押しつける形ではなく、それぞれ小さなものとして今の世界に残っていた。
アリアはそれでいいと思った。




