第六十一章 空席を埋めたい人たち
百年後の星詠みの塔には、誰も座らない椅子がある。
かつて塔主が世界中の古代遺物を管理していた頃の椅子であり、今では「誰か一人へ全部を任せたくなった時に見るための椅子」として残されていた。
ところが、その空席へもう一度誰かを座らせようという話が持ち上がった。
きっかけは帝国北部で起きた大規模な古代遺物の暴走だった。
地下に眠っていた気候制御施設が突然起動し、周辺一帯の気温を急激に下げ始めたのである。このままでは三日以内に複数の都市が凍りつく可能性があり、施設を止めるには星詠みの塔、帝国、現地住民、そして古代機械側の承認を順番に通す必要があった。
「遅すぎる!」
緊急会議の席で、帝国代表の男が机を叩いた。
「今は非常事態だ。承認を四つも待っている時間などない。誰か一人に全権限を渡すべきだ」
円形会議室がざわめいた。
「一時的なら必要では?」
「六時間だけなら問題ないだろう」
「だったらアリア様に任せればいい。失われた時代のシステムを一番理解している」
突然名前を出されたアリアは、会議室の端で目を瞬いた。
「私ですか?」
「あなたなら古代施設へ直接接続できる。百年前にも世界管理中枢を扱ったのでしょう?」
「扱いましたけど」
「なら決まりだ」
「まだ決まっていません」
アリアが普通に答えると、男は言葉を止めた。
「しかし時間がないのです」
「それは分かります。だから緊急権限を使うこと自体には反対しません」
「では」
「でも、どうして私一人なんですか?」
男は困ったように黙った。
百年前なら「アリアにしかできない」と言われた時、アリアは必要とされた嬉しさの方を先に感じていたかもしれない。
今は違う。
「私は施設の古代構造には詳しいです。でも帝国北部の現在の地形には詳しくありませんし、そこに住んでいる人が何を優先したいかも知りません」
アリアは空席になっている古い塔主の椅子を指した。
「だから、あそこへ座るつもりはありません」
会議には一人の少女が見学に来ていた。
以前アリアの授業へ遅れそうになって廊下を走っていた少女で、名前をフィナといった。
「アリア先生」
「はい?」
「でも、本当に急いでいるなら、一人で決めた方が早いですよね?」
「早いですよ」
アリアはあっさり認めた。
「じゃあ、どうして駄目なんです?」
「駄目とは言っていません。急ぐ時には一人か少人数へ権限を集めた方がいいこともあります」
「同じじゃないですか」
「違うのは、その人がずっと持つかどうかです」
アリアは黒板代わりの表示へ大きく六時間と書いた。
「例えば今から六時間だけ、止めるために必要な権限を少人数へ渡します。その六時間が終わったら自動的に消えるようにする。そして何をしたか全部記録する」
「六時間で終わらなかったら?」
「別の人たちも含めて、もう一度続けるか考えます」
「本人が続けたいって言っても?」
「本人だけでは決められません」
フィナは少し考えた。
「面倒ですね」
「でしょう?」
アリアは笑った。
「でも昔は、面倒だから全部一人へ渡したんです」
最終的に緊急権限を持つことになったのは、アリア一人ではなかった。
古代施設を理解しているアリア。
兵器や危険制御に詳しいノクターン。
帝国北部の技術者。
現地の避難責任者。
そして気候制御施設そのものの状態を監視する魔導人形一体。
五者で六時間だけの緊急管理班を作った。
「私も入るのね」
ノクターンが言う。
「嫌ですか?」
「別に。ただ百年前なら、私一人で止めた方が早いと言っていたと思っただけよ」
「今でも思っています?」
「少し」
「正直ですね」
「でも、それで失敗したことも覚えているわ」
五人へ限定権限が渡された。
『緊急管理権限――発効』
『有効期間――六時間』
『目的――帝国北部気候制御施設停止』
『目的外使用――禁止』
『終了後――自動失効』
アリアは表示を見て頷いた。
「これで行きましょう」
問題は、施設を完全停止すればいいというほど簡単ではなかった。
気候制御装置は暴走していたが、同時に北部一帯の地下水循環にも使われており、全部止めれば春以降に深刻な水不足が起きる可能性があった。
「停止ではなく出力を十二パーセントまで落とすべきです」
現地技術者が提案する。
「十二では冷却が残りすぎる」
ノクターンが反対する。
「八パーセントまで落とせば?」
アリアが尋ねる。
現地の避難責任者が首を振った。
「八だと南部の水路が止まる。今避難している人間は助かっても、半年後に農地が死ぬ」
意見は割れた。
残り時間は少ない。
昔なら管理者が一つ選んだ。
今は五人が話している。
「やっぱり遅いですね」
アリアが呟く。
「後悔した?」
ノクターンが尋ねる。
「いいえ。ただ、面倒なのは本当だなと思って」
そこで魔導人形が新しい案を出した。
『北部冷却系のみ停止し、水循環系を独立稼働させる改修が可能』
全員がそちらを見る。
「そんなことできるんですか?」
『成功率――71%』
「失敗したら?」
『両系統停止』
アリアは少し考え、現地責任者へ尋ねた。
「失敗した場合でも、避難は間に合いますか?」
「今すぐ始めれば間に合う」
「農地は?」
「水循環を戻せなければ被害は出る。ただ、都市が凍るよりはましだ」
ノクターンが頷く。
「ならやる価値はあるわ」
五人の意見が初めて一致した。
四時間後。
気候制御施設の冷却系統は停止した。
水循環系だけが残り、北部の気温はゆっくり上昇へ転じた。
『緊急事態――解除』
『緊急管理権限――残り一時間四十七分』
アリアは表示を見た。
「もう必要ありませんね」
「まだ時間は残っているぞ」
帝国代表が言う。
「残っていても、必要がなくなったなら返します」
アリアが解除を選ぶと、五人の権限はその場で消えた。
『緊急管理権限――自主返還』
『終了』
何も特別な光景は起こらない。
ただ、力を持った人たちが、必要でなくなった力を手放しただけだった。
会議が終わったあと、フィナが空席の椅子を眺めていた。
「アリア先生」
「はい?」
「今日みたいなことが毎回あるなら、やっぱり誰か座っていた方が楽じゃないですか?」
「楽ですよ」
「じゃあ、どうして空けてるんです?」
アリアは少し考えたあと、椅子の背へ手を置いた。
「座る人が悪いからではありません」
「じゃあ何が悪いの?」
「みんなが『あの人が決めてくれる』と思い始めることです」
フィナは空席を見る。
「アリア先生なら座っても大丈夫そうなのに」
「百年前の私も、たぶんそう思われていました」
「実際、大丈夫だったかもしれないでしょう?」
「そうかもしれません。でも、私が大丈夫だったかどうかより、私の次に座る人まで大丈夫だと誰が保証するんでしょう」
少女はしばらく考えた。
「分かんない」
「私も分かりません」
「先生なのに?」
「先生でも分からないことはあります」
アリアは笑った。
「だから、分からないまま一人へ全部渡さないようにしたんです」
百年経っても、誰か一人に任せた方が楽だと思う人はいる。
それは悪いことではない。
世界が危険になれば、強い誰かに決めてほしいと思うのは自然なことだった。
だからこそ、空席は残されている。
もう二度と誰も座らないためではない。
もし座らせたくなった時に、本当に必要なのかをもう一度考えるために。
フィナは最後に椅子を振り返り、それからアリアを追いかけて会議室を出た。
椅子は今日も空いたままだった。




