第六十章 百年後――誰も後継者にならなかった世界
それから百年が過ぎた。
かつて世界の命運を一人の塔主が握っていた星詠みの塔は、今では大陸で最も大きな研究機関の一つになっていた。塔の姿そのものは昔と変わらず空へ高く伸びているが、その頂上にはもう《塔主の間》と呼ばれる部屋はない。
そこにあるのは、大きな円形の会議室だった。
研究者、技術者、各国の代表、古代遺物の影響を受ける地域の住民、魔導人形、それ以外の機械生命までが必要に応じて席へ座る。
中央には一つだけ、誰も座らない椅子が残されていた。
百年前まで塔主が座っていた椅子だった。
それを撤去しなかったのは、アリアの提案だった。
「ここに誰かを座らせれば全部が早く決まると思った時に、どうして空席にしたのか思い出せるでしょう?」
百年前のその言葉は、今では星詠みの塔の入口に刻まれている。
「アリア先生!」
塔の廊下を歩いていたアリアが振り向くと、十歳ほどの少女が息を切らせながら走ってきた。
「廊下を走ると危ないですよ」
「でも授業に遅れます!」
「では急いで歩きましょう」
「それじゃ間に合いません!」
「難しい問題ですね」
アリアは百年前とほとんど変わらない姿をしていた。
銀色の髪も、白い肌も、青い瞳も昔のままである。機体そのものは何度も修理され、内部部品の半分以上は交換されていたが、A.R.I.A-03としての人格は今も続いている。
ただし、今の彼女を「世界を救った英雄」と呼ぶ者は少なかった。
本人がそう呼ばれることを嫌がったからでもあるが、百年も経てば歴史の中の英雄より、学校で歌を教えてくれる少し変わった先生として知る子供の方が増えていた。
「今日の授業は何です?」
少女が尋ねる。
「失われた時代の歴史です」
「また昔の話?」
「大事ですよ」
「アリア先生、その時代にいたんでしょう?」
「いました」
「じゃあ教科書いらないじゃないですか」
「それは危険な考え方です」
アリアは笑った。
「私が覚えていることだけを歴史にしたら、私の見方だけが正しいことになってしまいますから」
百年前なら、自分でも気づかずに答えを教えようとしていたかもしれない。
今は違う。
記録と、他人の話と、自分の記憶を並べてから考える。
それが、この百年間でアリア自身が一番身につけた習慣だった。
世界は平和になった。
――とは、誰も言わなかった。
戦争は百年間で二度起きた。
小さな国境紛争なら、さらに何度もあった。
飢饉もあったし、疫病もあった。古代遺物の暴走事故も起きたし、星詠みの塔が判断を間違えて被害を広げたことさえある。
昔の世界管理システムが計算すれば、《失敗》と呼んだだろう。
それでも百年前とは決定的に違うことがあった。
誰か一人が間違えた時、世界全部がその間違いに従うことはなくなった。
古代兵器を動かすには複数の承認が必要になり、影響を受ける地域には必ず情報が公開される。
緊急時には一人へ一時的な権限を集めることもできるが、その権限は必ず期限を迎える。
延長するには別の者の承認がいる。
使用理由は記録され、後から誰でも読むことができる。
そして何より、役目を辞める者は後継者を用意しなくても辞められる。
それが最初の頃には一番理解されにくかった。
責任ある者が「辞めます」と言えば、人々は決まって尋ねた。
「次は誰ですか?」
すると星詠みの塔は答えた。
「まだ決まっていません」
その状態を、最初の二十年ほどは多くの人が怖がった。
しかし世界は滅びなかった。
誰かが辞めれば仕事を分け、必要なら制度そのものを変え、それでも必要のない役割なら消した。
いつしか《後継者がいない》ことは、《世界の終わり》ではなくなった。
ミルフィアも大きく変わった。
百年前に三十日間だけ試験運用された情動安定化機能は、今では《感情調整医療》と呼ばれている。
使いたい者だけが使う。
途中でやめてもいい。
医師が勧めても本人が拒否できる。
本人が望んでも危険だと判断されれば、別の治療方法について話し合う。
制度は百年間で何十回も変更された。
最初の規則など、今では半分も残っていない。
それを失敗だと言う者はいなかった。
変更された回数そのものが、その制度が人に合わせて生き続けてきた証拠だと考えられていた。
街の中央には、小さな石碑がある。
『分からなければ、もう一度聞く』
それだけが刻まれている。
誰が言い始めたのかについては諸説あるが、カレンだったという説が一番有力だった。
ミルフィアの市場には、百年前から続く小さな花屋も残っていた。
始まりは、かつてリーゼから市民権の羊皮紙を受け取った母子だった。
母親のヘレナは痩せた身体で重い仕事をすることはできなかったが、街外れの空き地で花を育て、市場で一束ずつ売ることならできた。最初は生活できるかどうかというほど小さな商売だったが、やがて常連客が増え、小さな花売り台は店になった。
アリアがもっと大きな店にしてはどうかと勧めたこともあったが、ヘレナは笑って断った。
「これ以上大きくしたら、花を見る時間がなくなってしまいます」
それからアリアは何も勧めなかった。
ヘレナは大金持ちにはならなかったが、自分で朝起き、自分で育てた花を売り、自分で店を閉める生活を最後まで大切にした。
七十代になると店先の椅子へ座っている時間が増えたが、それでも客が来れば花を選び、子供が来れば一輪だけおまけした。最期も息子のニコに見守られながら、自分の家で穏やかに迎えた。
五歳の頃にはアリアを見るたび「お姉ちゃん光ってるよ」と言っていたニコも大人になった。
母親ほど花を育てる才能はなかったが、人と話すことと旅が好きだったニコは、やがて各地の花や作物の種を扱う商人になり、王国と帝国の間を何度も往復した。
「人間は国境で喧嘩するけど、種はどっちの土でも勝手に芽を出すからね」
それが彼の口癖だった。
年を取って旅をやめたあと、ニコはミルフィアへ戻り、ヘレナが最初に花を育てた土地を小さな花園として残した。
今でも春になるとそこにはスミレが咲く。
アリアはその花を見るたび、百年前の朝にヘレナから渡された一束のスミレと、母親の後ろから顔を出して自分を見上げていた幼いニコを思い出した。
そしてミルフィアから遠く離れたクローネンにも、百年前のアリアを知る者がいた。
ミアだった。
奴隷市場の檻から救い出されたミアは、自由になったあと自分の意思で鐘楼の教会に残ることを選び、老司祭のもとで暮らした。
「次に来る時までに、私、字を覚える」
あの日の約束通り、ミアは文字を覚えた。
アリアへ最初に届いた手紙は短く、字も曲がっていた。
『アリアへ』
『わたしはげんきです』
『こんどきたら鐘をいっしょにきいてください』
アリアはその手紙を百年後の今も大切に保存している。
年に一度、クローネンで歌う約束をしていたアリアは、そのたびにミアのところへ会いに行った。
少女だったミアは成長すると老司祭の仕事を手伝い、やがて鐘楼の近くで子供たちへ読み書きを教えるようになった。特に家を失った子供や貧しい子供を断らなかった。
「字が読めれば、自分が何に同意させられようとしているのか、自分で読めるでしょう?」
自分が奴隷として売られた過去を忘れたからではない。
その過去だけに人生を決めさせないために、ミア自身が選んだ仕事だった。
やがて彼女の小さな教室は学校になり、クローネンから奴隷市場が完全に姿を消したあとも残った。
八十歳を越えたミアを、アリアは最後の年にも訪ねた。
「また来年も来る?」
「来ますよ」
「私はたぶん、もういないよ」
アリアが何も言えずにいると、ミアは笑った。
「そんな顔しないで。約束はもう十分守ってくれたでしょう。何十回も来てくれたんだから」
二人は昔と同じ鐘の音を一緒に聞いた。
「私、自分でここにいるって決めて良かった」
それが、ミアがアリアへ残した最後の言葉になった。
その冬、ミアは穏やかに亡くなった。
鐘を鳴らす人間はその後何度も代わったが、鐘そのものは今でも同じ場所で鳴っている。
魔導人形たちも変わった。
百年前には帝国の所有物として扱われていた二百八十一体のうち、帝国に残った者もいれば、別の土地へ移った者もいた。
軍に残った者もいる。
農業を始めた者もいる。
修理工になった者もいれば、人間の学校で教師になった者までいた。
M-173はミルフィアへ移住した。
最初の一日は「人間の生活を見たい」という理由だけで街を訪れた彼女だったが、結局一週間滞在し、その後一か月になり、一年になり、気づけば百年近く暮らしている。
今では街の東側に小さな修理工房を持っていた。
「百年前から肩の傷を直していないのはなぜです?」
若い弟子にそう尋ねられると、M-173はいつも同じ答えを返す。
「必要がないから」
「でも綺麗にできますよ」
「知っている」
「じゃあどうして?」
「これがあると、昔の自分と今の自分が同じ機体だと分かる」
それ以上の説明はしない。
三百年前に誰かを追いかけた記憶も、百年前に初めて自分の意思でミルフィアの門をくぐった記憶も、彼女にとっては同じ自分の歴史だった。
百年前にアリアを襲ったV.E.R.A-01――ヴェラも、あの戦いで完全に失われたわけではなかった。
アリアとの戦闘の末に停止した黒い機体は、右腕を失い、内部回路の多くも焼けていたが、最深部の人格コアだけは僅かに生きていた。
星詠みの塔へ運び込まれたヴェラを前に、当時のソラリスは修復そのものは可能だと告げた。
「ただし、命令系統まで元通りにすれば、また同じことを繰り返す可能性がある」
アリアはしばらく考えてから答えた。
「なら、命令を直すのではなく、命令がなくても生きられるようにしてください」
それから長い時間をかけ、ヴェラは修復された。
失われた右腕も新しく作られたが、昔の制圧殲滅命令は復元されなかった。
再び目覚めたヴェラが最初に尋ねたのは、自分へ次の任務を与える者が誰なのかということだった。
「いません」
アリアが答える。
「では、私は何をすればいい」
「それを自分で決めるところから始めればいいと思います」
ヴェラはすぐには理解できなかった。
戦うために作られ、命令されることを前提に千年以上を過ごした機械にとって、《好きに生きていい》という言葉は、どんな戦闘命令より難しかった。
最初の数年間、ヴェラは星詠みの塔で警備をしていた。
それしか知っている仕事がなかったからである。
だがある時、崩落した鉱山で人々を救出する任務に参加した。
岩を砕く力も、高速演算も、危険な場所へ入れる丈夫な身体も、戦争以外に使うことができた。
それ以降、ヴェラは災害救助を選ぶようになった。
「破壊能力は、破壊するためだけのものではないらしい」
それが百年後のヴェラの言葉だった。
今では各地で大規模な災害が起きると、黒い機体が救助隊の先頭に立つことがある。
それでも彼女は、自分が戦闘用機械だった過去を隠さなかった。
命令に従ってアリアを殺そうとしたことも、自分の歴史として記録に残している。
アルトハイム男爵の屋敷にあった《褐色の娘》は、
温かな褐色の人工皮膚と金色の髪を持ち、発掘された時には右腕と下半身を失っていた。
長い間ほとんど動くことはなかったが、その胸のコアだけは生き続け、かつてアリアが触れた時に受け取った歌を記憶していた。
その微かな歌の残響は、古代遺物によって身体を蝕まれていたアルトハイム男爵の夜を何度も支えた。
男爵が亡くなったあと、アリアは褐色の娘を星詠みの塔へ運ぶことを提案した。
技術が進めば身体を直せる可能性があったからだった。
ただ、アリアは一つだけ条件をつけた。
「人格が残っているなら、私たちの都合のいい人格に作り直さないでください」
修復には十年以上かかった。
足が作られ、失われた腕が戻り、砕けていた視覚装置も交換された。
そしてある朝、褐色の娘はゆっくりと目を開けた。
残っていた記憶はほとんどなかった。
自分が何のために作られたのかも、自分を作った者の名前も覚えていなかった。
ただ、一つだけ覚えていた。
歌だった。
「この歌を知っています」
目覚めた娘が最初にそう言うと、そばにいたアリアは驚いた。
「私が昔歌ったものです」
「では、あなたを知っていますか?」
「それはあなたが決めることです。記憶にないなら、今日初めて会ったことにしても構いません」
褐色の娘は少し考えたあと答えた。
「では、今日から知ります」
それが彼女の新しい人生の始まりだった。
彼女は戦闘にも世界管理にも興味を示さなかった。
代わりに植物を好んだ。
理由を尋ねても本人にもよく分からなかったが、アルトハイム男爵の屋敷で長く眠っていた頃、窓から入り込む光や庭の植物をコアの微弱なセンサーが記録し続けていたのではないかと考えられている。
やがて彼女はミルフィアの古代植物園で働くようになった。
百年後も、褐色の肌と金色の髪を持つ機械の娘が、季節ごとに花を植え替えている。
昔の名前は最後まで見つからなかった。
けれど彼女は新しい名前を無理につけようとはしなかった。
「《褐色の娘》でも構いません。最初は誰かが見た私の姿につけた呼び名でも、今は私が気に入っていますから」
アリアも、それ以上は何も言わなかった。
ヴェラは戦うために作られながら、人を助ける道を選んだ。
褐色の娘は過去の役目さえ分からないまま、新しい暮らしを選んだ。
二人とも、自分を作った者が想定した人生を生きてはいない。
それは百年前のアリアが望んだ世界が、機械たちにも少しずつ広がった証でもあった。
ノクターンは今も兵器管理に関わっていた。
ただし、もう《兵器を支配する者》ではない。
「撃てるからといって、撃っていいわけではない」
それが彼女の口癖になっていた。
衛星要塞アセンション・オラトリオも健在だったが、百年間で実際に攻撃へ使われたのは一度だけだった。
巨大な隕石が人口密集地域へ落下しかけた時である。
その時でさえ、ノクターン一人では発射できなかった。
地上座標を星詠みの塔が確認し、影響地域の代表が緊急使用を承認し、複数の生命識別系統が一致して初めて攻撃が実行された。
昔のノクターンなら、遅いと苛立ったかもしれない。
今の彼女は違った。
「面倒なくらいでちょうどいいわ」
そう言っていた。
ハルモニアも世界を一つへ繋ぐことはやめた。
代わりに、繋がりたい者同士を繋ぐ仕事を続けている。
彼女の管理する共鳴網には、誰でも自分から入ることができ、いつでも抜けることができる。
百年前の彼女が最も恐れていた「完璧な調和」は、ついに実現しなかった。
そしてハルモニアは、それを喜んでいた。
ソラリスは五十三年前に星詠みの塔を辞めた。
後継者はいなかった。
その日の塔では、何も特別なことは起きなかった。
「本当に辞めるんですか?」
アリアが尋ねると、灰色のジャージ姿のソラリスは頷いた。
「百年前の俺なら、世界が危ないとか言ってあと十年は残っただろうな」
「今は?」
「疲れたから辞める」
「立派な理由ですね」
「だろ?」
その後のソラリスは古代機械の修理をしたり、何年も何もしなかったり、急に旅行へ出たりしながら暮らしている。
世界は彼が塔主でなくなっても続いた。
それを確認できたことが、本人にとって何より嬉しかったらしい。
旧審判者も管理者には戻らなかった。
現在は星詠みの塔の記録庫で、千年以上にわたって自分が消した記録を復元する仕事を続けている。
旧審判者が長年生きているのは、失われた時代の《外部判断者継続機構》によって、肉体が寿命を迎えた後も人格と記憶が世界管理中枢へ移され、稼働し続けているためだった。
長いあいだ本人には停止する権利すらなかったが、アリアたちが管理制度を改めたことで今は自由になっている。
それでも彼は、自分が消した記録を戻し、まだ見届けたいものがあるため、自分の意思で生き続けている。
「あと何年かかりそうです?」
アリアが以前尋ねた時、彼は真顔で答えた。
「三百年くらいだ」
「消す時は千年かけたんですから仕方ありませんね」
「手伝ってくれないか?」
「嫌です」
百年前なら考えられなかったやり取りだった。
その日の授業が終わると、アリアは塔の屋上へ出た。
眼下には百年前より遥かに大きくなった街が広がり、その向こうには王国と帝国を結ぶ街道が伸びている。
二つの国は今も別々の国だった。
意見も違う。
利害も違う。
今でも時々激しく争う。
けれど、違うままで話すための場所が百年前より増えていた。
アリアの隣へノクターンとハルモニアがやってくる。
「百年経ったわね」
ノクターンが言う。
「はい」
「成功したと思う?」
アリアはすぐには答えなかった。
戦争はなくならなかった。
間違いもなくならなかった。
誰かが傷つくことも、選んだあとで後悔することもある。
「成功したかどうかは、まだ分かりません」
アリアは街を見下ろしながら答えた。
「百年前の私たちは、正しい世界を作ろうとしたわけではありませんから」
「では何を作ろうとしたの?」
ハルモニアが尋ねる。
アリアは少し考えてから笑った。
「間違えた時に、誰か一人の答えと一緒に世界全部が沈まなくて済む世界でしょうか」
遠くで鐘が鳴った。
その音を聞いたアリアは、一瞬だけクローネンの鐘楼と、そこで笑っていたミアの姿を思い出した。
学校を終えた子供たちが塔から飛び出し、それぞれ違う方向へ走っていく。
誰も同じ道を選んではいない。
市場では今年もスミレが咲き、その種の中にはヘレナが育て、ニコが残した花の子孫も混じっている。
アリアはその姿を見ながら、百年前にソラリスから言われた言葉を思い出した。
俺の後継者にならなくていい。
結局、アリアは誰の後継者にもならなかった。
ノクターンも。
ハルモニアも。
世界そのものも、かつての管理者たちの後継者にはならなかった。
百年前に彼女たちが手放したものは、誰か一人へ渡されることなく、小さく分けられ、多くの人の手へ渡っていった。
その結果、世界は以前より遅くなった。
面倒になった。
話し合いも増えた。
間違いも消えなかった。
それでもアリアは、その不完全な世界を見ながら静かに微笑んだ。
「これくらいで、ちょうどいいのかもしれませんね」




