第五十九章 後継者にしないという選択
アリアは三つの椅子が並ぶ小さな部屋の中央で、ソラリスと向かい合うように座り直した。
少し前までなら、ソラリスの方が古代遺物について圧倒的に多くのことを知り、アリアは分からないことを尋ねる側だった。けれど今は、その関係さえ以前とは少し違って見える。
原本人格と複製人格を分けていた優先権限は解除された。
少なくとも古代システムの上では、二人は完全に独立した人格として並んでいる。
だからこそアリアは遠慮しなかった。
「私を後継者にするつもりだった、という話からお願いします」
ソラリスは逃げるように視線を逸らしかけたものの、途中で思い直したようにアリアへ向き直った。
「分かった。ただ、最初から明確に『アリアを次の塔主にする』と決めていたわけじゃない」
「では、いつからですか?」
「A.R.I.A-03を発見した時点では候補の一つだった。それが起動試験を重ねるうちに、かなり現実的な選択肢になった」
ソラリスが指を動かすと、二人の間に古い記録が浮かび上がった。
『A.R.I.A-03』
『外部人格統合適合率――97.8%』
『古代遺物共鳴適性――高』
『外部判断媒体候補』
『次期管理権限保持体――適合可能性あり』
アリアは最後の一文をじっと見た。
「次期管理権限保持体」
「ああ」
「ずいぶん、後継者らしい言葉ですね」
「……そうだな」
「私が目覚める前から、ここまで調べていたのですか?」
「調べた」
「私に相談する前に?」
「起動前のお前には相談できない」
そこでソラリスは言葉を止め、自分自身で表情を曇らせた。
「いや、違うな。また同じ言い方をした」
アリアは何も言わずに続きを待つ。
「正確には、相談できる状態まで起こしたあとで話すことはできた。それなのに俺は、起こすことと後継候補にすることをほとんど一続きの計画として扱っていた」
「なぜです?」
「時間がなかったからだと思っていた」
「思っていた?」
「当時の俺は、自分の判断をそう説明していた」
ソラリスの視線が自分の手へ落ちる。
「人間の身体が壊れ始めていた。E.O.S-01への移植が成功する保証もなかった。星詠みの塔には俺しか扱えない権限が多すぎて、もし俺が突然死ねば、その瞬間に封印が解ける施設もあれば、逆に永遠に停止する施設もあった」
「だから次を用意したかった」
「そうだ」
ソラリスは苦く笑う。
「当時は、それを責任感だと思っていた。自分が死ぬ前に後継者を用意しなければいけない、それが管理者として当然だと」
「今は違う?」
「責任感だった部分もある。でも、それだけじゃなかった」
アリアは黙って待つ。
「怖かったんだよ」
「何が?」
「俺がいなくなったあと、全部が無駄になることが」
その言葉だけは、アリアにも妙によく分かった。
四十二歳だった頃、自分の人生には何も残らなかったと思っていた記憶がある。誰かに名前を覚えられるでもなく、家族を残すでもなく、誇れる仕事を成し遂げるでもなく、ただ消えていくのだと思っていた。
ソラリスも同じ記憶を持っている。
当然だった。
同じ四十二年間から始まった二人なのだから。
「俺が管理してきたものを誰かが引き継げば、少なくとも俺がやってきたことには続きができると思った」
「その誰かとして、私を選んだ」
「ああ」
「私が望むかどうかを確認する前に」
「……ああ」
今度は言い訳をしなかった。
* * *
「もし私が起きたあとで、『嫌です』と言っていたらどうするつもりだったんですか?」
アリアが尋ねると、ソラリスはしばらく答えなかった。
「正直に言う」
「はい」
「説得したと思う」
「やっぱり」
「無理やり権限を渡すつもりはなかった。ただ、お前が必要だという理由を並べて、どうにか受けてもらおうとしただろうな」
「それはかなり嫌ですね」
「今なら分かる」
「今だから言えますけど、たぶん昔の私だったら押し切られていたと思います」
「どうして?」
「必要とされることに弱かったので」
ソラリスの表情が止まる。
二人とも同じ記憶を持っている以上、その理由まで説明する必要はなかった。
誰にも必要とされなかったと思い込んでいた人間に、「世界のためにあなたが必要です」と言えばどうなるか。
断れるだろうか。
少なくとも、目覚めたばかりのアリアには難しかったかもしれない。
「……そこまで考えていなかった」
「でしょうね」
「怒っているか?」
「怒っています」
「そうか」
「でも、少しだけ自分にも腹が立っています」
ソラリスが怪訝そうな顔をする。
「なぜだ?」
「今の話を聞いていて、たぶん私も昔なら『必要ならやります』って言ったと思ったからです」
「それはお前の責任じゃない」
「責任の話ではありません」
アリアは穏やかに首を振った。
「選ばされやすいところが自分にあった、という話です。それを知っておいた方が、次に同じことをされそうになった時に気づけますから」
エクリプスが少し離れた場所から言った。
「自分の弱点を知ったなら、それはもう以前と同じ弱点ではない」
「珍しく良いことを言いますね」
「珍しくは余計だ」
ソラリスは次の記録を開いた。
そこにはE.O.S系列についての古い設計情報が並んでいた。
『E.O.S-01』
『暁型統括制御ユニット』
『外部管理人格収容対応』
『肉体限界を超えた長期管理を目的とする』
アリアの表情が変わる。
「これ……」
「ああ」
「E.O.S-01は、最初から異世界人を入れるための身体だったのですか?」
「今まで俺も確証はなかった」
旧審判者が境界の向こうから静かに答えた。
「その設計思想には、私が関わっている」
アリアが彼を見る。
「あなたが?」
「正確には、一千年以上前に設計計画が存在していた。外部管理者が普通の人間の身体のままでは長期間管理を続けられないことが問題になっていたからだ」
「だから機械の身体へ移す」
「そうだ」
男は自嘲気味に笑った。
「世界を管理する役目を終わらせるのではなく、管理者の方を長持ちさせようとした」
ソラリスが記録へ視線を向ける。
「俺はその身体を使った」
「設計目的通りに」
「ああ」
「偶然ではなかったのですね」
「たぶん俺がE.O.S-01を見つけられたこと自体、古代システムが誘導していた可能性がある」
アリアは少し考え込んだ。
「では、あなたも選ばれていた?」
「そういうことになる」
「自分で選んだつもりでも?」
「そこが厄介なんだ」
ソラリスは苦く笑った。
「この世界に来てから俺は、ずっと自分で判断しているつもりだった。塔主になったことも、古代遺物を使ったことも、E.O.S-01へ移ったことも、お前を起こしたことも」
「でも、その前に選択肢を並べていたのは古代システムだったかもしれない」
「そうだ」
エクリプスが腕を組む。
「選択肢の中から自由に選ばせているように見せて、そもそも選択肢そのものを誰かが設計している。今まで散々見てきた構造だな」
アリアは白い空間に浮かぶ《YES / NO》の表示を思い出した。
受け入れるか。
拒否するか。
だが本当は。
書き換えるという第三の選択肢もあった。
「自由に選べることと、自由な選択肢があることは違うんですね」
「そういうことだ」
ハルモニアが静かに口を開いた。
「では、ソラリスはアリアを後継者にするために起こしたのですか?」
「最初は、それも目的の一つだった」
「今は?」
ソラリスは答える前にアリアを見た。
「今は、しない」
「私が望んでも?」
その質問に、今度はソラリスが少し迷った。
「望むなら止めはしない。ただし、俺の後継者という形にはしたくない」
「どう違うんです?」
「俺の仕事をそのまま引き継がせることと、お前が自分で何かを選ぶことは別だからだ」
アリアはその言葉をじっと聞いた。
「俺が作った椅子へお前を座らせるんじゃなくて、お前が必要だと思うなら自分の椅子を作ればいい」
そこでノクターンが小さく言った。
「そもそも椅子を作らないという選択肢もあるわ」
「そうだな」
「燃やしてしまってもいい」
「ノク姉は極端です」
「管理者用の椅子でしょう?」
「比喩ですから本当に燃やさないでください」
少しだけ空気が和らいだ。
だがアリアは、すぐに本題へ戻った。
「では、星詠みの塔はどうします?」
「それを今から決めなければいけない」
「塔主の制度も?」
「ああ」
ソラリスは頷いた。
「俺が死んだら次の異世界人を呼ぶ仕組みも、このまま残すべきじゃない」
アリアの表情が僅かに固くなる。
病室の少女を思い出したのだろう。
「本人の同意なしで連れてくる制度ですからね」
「本人選択権を組み込んだことで、以前の方式ではもう動かない。ただ、それで終わりにはしたくない」
「どうするのです?」
「まず、外部審判者を必要とする前提そのものを消す」
三百年前の旧審判者が反応する。
「本当に外部者を一人も置かないつもりか?」
「一人に世界の最終判断を任せる仕組みは終わらせる」
「では、異世界人を呼ぶ必要もなくなる」
「少なくとも管理者としてはな」
男はしばらく黙った。
「……そうか」
その声には、寂しさに似たものがあった。
自分の存在理由を否定されたからではない。
一千年以上、自分が必要だと信じてきた役目が、ようやく不要になるかもしれないと知った者の声だった。
アリアは旧審判者を見る。
「嫌ですか?」
「分からない」
男は正直に答えた。
「私がしてきたことの多くは間違っていた。それでも、世界を救わなければならないという役目は、ずっと私の中心にあった」
「それがなくなると?」
「自分が何なのか分からなくなる」
その言葉に、アリアは何も急いで返さなかった。
以前の自分なら「あなたはあなたです」と言ったかもしれない。
それは間違ってはいない。
でも。
役目を失った直後の人間に、そんな言葉だけを渡しても足りないことを今のアリアは知っている。
「では」
少し考えてから言う。
「分からないままで、しばらくいてもいいのでは?」
男が顔を上げる。
「何もしなくても?」
「はい」
「役に立たなくても?」
「はい」
「私は一千年以上も、世界を管理しようとしていた人間だぞ」
「だからこそ、少しくらい休んでもいいでしょう」
「……」
「世界を救わない日があっても」
旧審判者は何も答えなかった。
ただ。
その表情から。
ほんの少しだけ力が抜けた。
その時、白い空間に警告が表示された。
『世界管理中枢』
『恒久審判者――空席』
『外部管理者継承機構――待機』
『星詠みの塔』
『次期召喚候補選定処理――停止中』
『制度再定義を要求』
ソラリスが表示を見上げる。
「ちょうどいい。ここも変える」
「今ですか?」
「今だからだ」
アリアも立ち上がった。
以前なら。
この表示を見た瞬間。
誰を次の塔主にするか。
誰へ権限を渡すか。
そんな話をしていた。
今は違う。
「塔主を一人にしない?」
「それもありだ」
「古代遺物への権限も分ける?」
「ああ。ただし全部を単純に多数決へすればいいわけじゃない」
ハルモニアが続ける。
「危険度によって必要な同意範囲を変えるべきです。井戸の制御と、衛星要塞の攻撃権限を同じ仕組みにしてはいけません」
「地域だけで決めるものと、複数地域に影響するものも分ける必要がありますね」
アリアが言う。
エクリプスも加わる。
「それから、専門知識が必要な判断へ素人の多数決を直接入れるな。専門家は必要だ。ただし専門家だけで価値判断まで決めさせるな」
「難しいですね」
「だから一晩で完璧な制度を作ろうとするな」
「三十日?」
「魔導人形の協定と同じか?」
「試して、直して、また試せばいいと思います」
ソラリスが笑う。
「お前、本当に変わったな」
「良い方向に?」
「少なくとも昔の俺よりは」
「それは基準が低い気がします」
「否定できない」
制度を書き換える前に。
アリアは一つだけ確認した。
「ソラリスさん」
「何だ?」
「あなたは星詠みの塔の主を辞めたいですか?」
ソラリスが固まった。
誰も口を挟まない。
これは。
今まで一度も聞かれていなかった問いだった。
「……分からない」
「では、辞めたくない?」
「それも分からない」
「続けたい?」
「分からない」
アリアは笑った。
「全部分からないですね」
「悪いか」
「いいえ」
少し前までのソラリスなら。
答えを出しただろう。
世界のために必要なら続ける。
そう言って。
自分自身の気持ちは後回しにしただろう。
「では、塔主制度だけ先に変えましょう」
「俺の進退は?」
「保留です」
「そんな適当でいいのか?」
「今すぐ決める必要があります?」
ソラリスは考え。
「……ないな」
「なら、後でいいです」
エクリプスが小さく笑った。
「後回しにすることを覚えたな」
「何でも先送りすればいいわけではありませんよ」
「元四十二歳会社員として、その辺りはよく知っているだろう」
「それは言わないでください」
星詠みの塔の新しい暫定規則が組み上がっていく。
単独の永久塔主制度を停止する。
異世界人を自動的に招く仕組みを停止する。
外部人格を必要とする場合でも、本人の明確な同意を必須とする。
古代遺物への権限は危険度ごとに分割し、高危険度の機能ほど複数者の承認を必要とする。
緊急時には一時的な権限集中を認めるが、必ず時間制限を設け、理由を記録し、終了後に検証する。
そして。
誰かが役目を降りたいと申し出た時。
後継者が見つかるまで辞めてはいけない、という規則を置かない。
『後継者不在での役割終了を許可』
その一文が表示された時。
三百年前の旧審判者が。
目を閉じた。
ソラリスも。
しばらく。
何も言わなかった。
アリアには。
その文章が。
とても小さく。
それなのに。
この世界の古い仕組みを根本から変える言葉に見えた。
『制度更新準備完了』
『現外部管理者E.O.S-01の承認が必要です』
表示がソラリスの前へ移動する。
彼は手を伸ばした。
だが。
すぐには触れなかった。
アリアが尋ねる。
「どうしました?」
「これを承認すれば」
「はい」
「俺は、自分の後継者を用意しなくてもよくなる」
「そうですね」
「俺がいなくなったあとも、世界は俺の続きを必要としない」
「はい」
「お前も」
ソラリスはアリアを見る。
「俺の続きを生きなくていい」
アリアは。
しばらく黙ったあと。
柔らかく答えた。
「最初から、そのつもりです」
「そうだったな」
ソラリスは笑った。
そして。
承認へ触れた。
『E.O.S-01承認』
『星詠みの塔――永久継承制度停止』
『自動外部人格召喚――停止』
『単独管理者制――終了準備』
光が広がる。
けれど。
そこで。
予想外の表示が現れた。
『警告』
『単独管理者制終了に伴い』
『E.O.S-01に付与された特権の一部が失効します』
『対象権限』
『失われた時代の全遺物に対する絶対アクセス権』
『全世界管理中枢への無条件接続権』
『緊急命令の優先実行権』
ソラリスが表示を見る。
アリアも。
黙って彼を見る。
『確認』
『これらの権限を放棄しますか』
今度は。
誰もソラリスの代わりに答えられない。
世界を救うために使ってきた力。
五年前。
王国を救った力。
A.R.I.A-03を起こすことにも使った力。
何より。
この世界へ来てから初めて。
自分には価値があると思わせてくれた力。
ソラリスの手は。
すぐには動かなかった。
アリアは急かさない。
「怖いですか?」
ソラリスは。
しばらくして。
苦笑した。
「ものすごく」
「手放したくない?」
「……ああ」
アリアは少しだけ驚いた。
でも。
ソラリスは誤魔化さなかった。
「正しいことに使えると思ってしまう」
「はい」
「俺が持っていれば、また大きな危機が起きた時に助けられるかもしれない」
「はい」
「手放したあとで、これがあれば救えた命が失われたらと思うと」
ソラリスは手を握った。
「怖い」
すると。
少し離れた場所から。
カレンの声が届いた。
現実側の共鳴接続を通して。
「だったら」
皆がそちらを見る。
「手放したくねえからこそ、手放すんじゃねえのか?」
ソラリスの表情が止まる。
「欲しくもねえ力を捨てるだけなら、そりゃ簡単だろ。持ってたら便利だし、誰かを助けられるし、自分なら上手く使えるって思う。だから危ねえんじゃねえのか」
「カレン……」
「知らねえけどな。あたしはそんなすげえ力持ったことねえし」
最後だけ急に無責任だった。
アリアは。
思わず笑った。
ソラリスも。
少しだけ。
笑った。
「そうだな」
そして。
今度こそ。
手を伸ばした。
『絶対アクセス権』
『無条件接続権』
『緊急命令優先権』
『放棄しますか』
ソラリスは。
ゆっくり。
しかし自分の意思で。
答えた。
「放棄する」
『確認』
『E.O.S-01』
『世界管理者特権――解除』
白い光が。
ソラリスの身体から。
静かに離れていった。
金色の瞳から光が消えたわけではない。
身体が壊れたわけでもない。
けれど。
千年以上まえから誰かが持ち続けてきた
世界へ命令するための鍵が
ついに、誰の手からも離れ始めていた。




