第五十八章 私を選ばなかった人
「今度は何も隠さない」
ソラリスがそう言ったあと、三人が残した小さな部屋には長い沈黙が落ちた。
昔のアリアの映像はすでに消えており、紺色の床を流れる星のような光だけが静かに動いている。先ほどまでそこにいた過去の三人はもういないのに、最後に残された言葉だけは、まるで部屋そのものに染み込んだように消えなかった。
『その人に、ちゃんと聞いてください』
『私の身体で生きたいかどうか』
アリアは誰も座っていない三つの椅子を一度見てから、境界の向こうに立つソラリスへ視線を戻した。
「では、最初からお願いします」
「ああ」
「私がどうしてここにいるのか、あなたが何をしたのか、何を知っていて何を隠したのか、全部です」
責めるような声音ではなかった。
だからこそソラリスには逃げ道がなかった。
怒鳴られたなら謝ることもできたし、責められたなら事情を説明することもできただろう。けれど今のアリアは、ただ知ろうとしている。
自分自身のことを。
ソラリスはしばらく黙ったあと、白い境界の手前に腰を下ろした。
「まず、結論から言う」
アリアは何も言わずに待った。
「お前の中にある四十二歳の男の記憶は、俺の記憶だ」
静かな部屋の中で、その言葉だけが妙にはっきり響いた。
ノクターンもハルモニアも口を挟まない。エクリプスも腕を組んだまま、ただソラリスを見ている。
アリアは瞬きをした。
「……あなたの?」
「ああ。正確には、俺がこの世界へ転移してくる直前までの記憶と人格情報を複製したものだ」
「複製」
「そうだ」
ソラリスは自分の胸へ手を置いた。
「俺も元は四十二歳の男だった。お前が覚えている会社も、あのアパートも、雨の日も、妻に出ていかれたことも、自分は誰にも必要とされていないと思っていたことも、全部俺が生きた記憶だ」
アリアはすぐには反応しなかった。
その代わりに、意識の奥から古い風景が一つずつ浮かんでくる。
雨に濡れた窓。
暗い部屋。
会社の蛍光灯。
誰かの後ろ姿。
名前を呼ばれない日々。
どれも自分の記憶だった。
少なくとも、今までそう思っていた。
「では私は……あなたなのですか?」
「違う」
ソラリスは即座に答えた。
「そこだけは、はっきり違う」
アリアの表情が僅かに動く。
「どう違うんです?」
「俺の記憶を持っていることと、俺であることは同じじゃない。お前には元々A.R.I.A-03としての基底人格がある。歌いたいという衝動も、人を傷つけたくないという感覚も、困っている人間を見ると放っておけないところも、俺のものじゃない」
「でも四十二歳の男だった記憶は、あなたのものだった」
「ああ」
「それを私の中へ入れた」
「ああ」
アリアは目を伏せた。
不思議なことに、自分が偽物だったと感じたわけではなかった。
むしろ、それより先に別の感情が湧いていた。
昔の会社で感じていた惨めさも。
一人きりの部屋で考えていたことも。
雨音を聞きながら、どうして自分の人生はこうなったのだろうとぼんやり考えていた夜も。
誰かのものだったからといって、自分の中から消えるわけではない。
思い出せば今でも苦しい。
今でも自分の一部として反応する。
だから。
「……それだけなら」
アリアが静かに言った。
「少し驚きましたけど、たぶん受け入れられます」
今度はソラリスの方が驚いた。
「もっと怒ると思っていた」
「まだ話は終わっていないでしょう?」
「ああ」
「だから続けてください」
やはり逃げられない。
ソラリスは小さく息を吐いた。
「俺がこの世界へ来たのは、お前が目覚めるより前だ」
ソラリスはそう言って、自分が星詠みの塔へ来た時のことを話し始めた。
この世界では、星詠みの塔の主が死ぬと、新しい異世界人が招かれる。
当時の彼は理由も分からないまま異世界へ転移し、失われた時代の遺物へ絶対的にアクセスできる権限を持っていることを知った。
扉を開くことも。
眠っている機械を起動することも。
古代文字を読むことも。
場合によっては内部の命令を書き換えることさえできた。
「最初は、人生をやり直せると思ったよ」
ソラリスが苦く笑う。
「向こうでは何者にもなれなかった男が、こっちでは誰にも扱えない古代遺物を動かせる。必要とされた。名前を呼ばれた。頼られた。嬉しくなかったと言えば嘘になる」
アリアには、その気持ちが分かってしまった。
誰にも期待されなかった人間が、突然「あなたにしかできない」と言われる。
それはきっと、とても甘い。
「それから五年前、王国が崩壊しかけた」
ソラリスの表情が変わった。
「俺は権限を使った。誰にも許可を取らず、古代施設を起動して戦況を変えた。結果として大勢が助かったし、王国も残った」
「後悔していますか?」
「分からない」
アリアが少し意外そうに見る。
「今でも、何もしなければもっと多く死んだと思っている。だから同じ状況へ戻されたら、たぶんまたやる」
「でも?」
「それを理由に、何をしてもいいとは思わなくなった」
ソラリスは少し離れた場所にいる旧審判者を見る。
「彼を見ていると、よく分かる」
旧審判者は何も言わなかった。
自分の話でもあると分かっているのだろう。
「俺の身体はその頃から持たなくなっていた。異世界へ転移した普通の人間の肉体で、古代遺物へ長期間接続し続けたせいだ。神経も脳も少しずつ壊れていった」
「それでE.O.S-01へ?」
「ああ」
「脳移植」
「そうだ」
アリアは目の前の金髪の少女の姿を見る。
外見だけなら、とても元四十二歳の男には見えない。
「この身体を見つけた時、俺は自分を助けるために使った」
「誰かに聞きましたか?」
ソラリスの言葉が止まった。
「……聞いていない」
「自分自身には?」
「それも、たぶんちゃんとは聞いていなかった」
アリアは少しだけ目を細めた。
その答えが何を意味するのかは、今は追及しなかった。
「私の話へ戻ってください」
「ああ」
ソラリスがA.R.I.A-03を発見した時、その機体は長い眠りの中にあった。
本体は生きていた。
基底人格も残っていた。
けれど、個体として積み重ねた経験記憶の大半が意図的に消されており、三機共有の星座記憶領域にも大きな空白があった。
「今見た記録で理由が分かった」
ソラリスは言う。
「俺はずっと、事故か損傷で消えたんだと思っていた。でも違った。昔のお前自身が、ハルモニアに頼んで消していたんだ」
「そこへ、あなたは自分の記憶を入れた」
「ああ」
「どうしてです?」
「そのまま起動できなかったからだ」
「壊れていた?」
「機体ではない。人格統合が不安定だった」
ソラリスは説明を続ける。
ステラ・シンフォニアは単純な機械ではない。基底人格だけでも動作はするが、人と関わり続けるためには、そこへ個体としての経験が積み重なり、自分が誰であるかという連続性を作らなければならない。
古いアリアはその経験部分をほとんど消してしまった。
結果として、A.R.I.A-03という存在は生きているのに、目覚めるための「現在の自分」を作る足場が大きく欠けていた。
「そこで、外部人格を使った統合試験の記録を見つけた」
「異世界人の人格ですか?」
「そうだ」
ソラリスが頷く。
「しかも俺の人格データとの適合率が異常に高かった。九十七・八パーセント」
「高いですね」
「高すぎた」
「どうして?」
「今なら分かる気がする」
ソラリスはアリアを見る。
「俺は向こうで、ほとんど自分から何かを決めない人間だった。誰かを支配したいとも思わず、責任を負うくらいなら一歩引く。良く言えば他人の意思を尊重し、悪く言えば自分から逃げる」
アリアは少し眉を寄せた。
「かなり辛辣ですね」
「自分のことだからな」
そこでエクリプスが口を挟む。
「適合率が高かった理由が『主体性の低さ』だったとしたら、笑えないな」
「俺もそう思う」
ソラリスは苦笑する。
「でもA.R.I.A-03の基底人格とは噛み合った。人を傷つけることを避け、目の前の人間の感情へ寄り添おうとする性質と、俺の記憶が大きく衝突しなかった」
アリアが尋ねる。
「それで、全部入れた?」
「いや」
ソラリスは首を振った。
「俺がこの世界へ来る直前までの記憶だけだ」
「なぜ?」
「ここからが、一番言いにくい」
「言ってください」
ソラリスはしばらく黙った。
「ステラ・シンフォニアのコアは、人格の重複をかなり厳しく見る。すでに同じ人格が別の場所で活動していると認識した場合、外部人格を『独立した新しい自己』ではなく複製データとして扱い、統合を拒否する可能性があった」
アリアの表情が変わった。
「つまり」
「ああ」
「私が、あなたの現在を知っていたら」
「自分がコピーだと認識する可能性が高かった」
「だから、あなたがこの世界へ来てからの記憶を入れなかった」
「そうだ」
「私は自分が元の人間だと思うように作られた」
ソラリスは目を逸らさなかった。
「ああ」
今度の沈黙は、先ほどまでとは違っていた。
ノクターンの金色の瞳が細くなり、ハルモニアは胸の前で手を重ねる。エクリプスは何も言わず、旧審判者もソラリスだけを見ていた。
アリアは自分の両手を見た。
初めて目覚めた時。
自分は転生したと思った。
四十二歳で人生を終えた男が、A.R.I.A-03として異世界に生まれ直したのだと。
そう理解できるように。
情報が選ばれていた。
「私は」
アリアはゆっくり口を開いた。
「あなたが生きていることを知らなかった」
「知らないようにした」
「あなたが星詠みの塔の主だったことも」
「ああ」
「あなたがE.O.S-01へ移ったことも」
「ああ」
「全部」
「俺が外した」
アリアは顔を上げた。
「それは、私が拒絶しないように?」
「……そうだ」
その瞬間。
アリアの中で。
ようやく。
怒りが生まれた。
大きな声ではなかった。
目の色が変わるわけでもない。
ただ。
今まで柔らかく保たれていた表情から、微笑みが消えた。
「どうして」
ソラリスが黙る。
「どうして私に選ばせなかったんですか」
その問いを聞いた瞬間。
ソラリスは。
何も言えなかった。
「私がコピーだから、ではありません」
アリアは続けた。
「私の中にある四十二年間が、あなたから複製されたものだった。それは驚きました。でも、今の私は、その記憶だけではありません」
リーゼと出会った。
カレンと話した。
マルタの料理を食べた。
イレーヌと遺跡を調べた。
ハルモニアを起こした。
ノクターンと向き合った。
エクリプスとも何度も言い争った。
自分で悩んで。
間違えて。
選んだ。
それらは。
ソラリスの記憶ではない。
「今の私があなたと違うことは、もう分かっています」
「……ああ」
「だから『私は偽物なんですか』とは聞きません」
ソラリスの金色の瞳が僅かに揺れる。
「私が聞きたいのは、もっと簡単なことです」
アリアは一歩近づいた。
二人の間には、昔の三機が作った透明な境界がある。
けれど今のアリアには、それが妙に象徴的に見えた。
「どうして」
もう一度。
尋ねる。
「私に聞かなかったんですか」
ソラリスは目を閉じた。
「……怖かったからだ」
「何が?」
「お前が『嫌だ』と言うのが」
アリアの表情が僅かに動いた。
「俺はA.R.I.A-03を起こしたかった。正確には、起こせると思った時点で、もう起こすことを決めていた」
「なぜ?」
「必要だったから、と言えば綺麗に聞こえる」
ソラリスは苦く笑った。
「ステラ・シンフォニアが必要だった。古代遺構の問題もあった。俺自身の身体も限界だった。いつか自分の代わりになる存在が必要だとも考えた」
アリアの瞳が細くなる。
「後継者として?」
「当時は、そう考えていた部分もある」
「私を?」
「ああ」
ハルモニアの表情が曇った。
ノクターンは何も言わない。
「でも、それだけじゃない」
ソラリスは続けた。
「俺は、自分の記憶が別の形で続くことに惹かれたんだと思う」
「……」
「向こうの世界で、俺の人生は何も残らなかったと思っていた。だから、その四十二年間が無駄ではなかったと思いたかった。A.R.I.A-03の中で役に立つなら、自分にも意味があったと思える気がした」
アリアは静かに聞いている。
「だから」
ソラリスは自分の手を見る。
「お前に選ばせるという発想がなかった」
「昔の私の記録には、ちゃんと書いてありました」
「そうだな」
「あなたは見つけられなかった?」
「その記録は今まで封印されていた。俺は知らなかった」
「では、知らなかったから仕方ない?」
「違う」
ソラリスは即座に答えた。
「記録を知らなくても、聞くべきだった」
アリアは何も言わない。
「自分がされる側だったらどう思うか、それくらい考えれば分かったはずだ」
「でも考えなかった」
「ああ」
「私が目覚められるなら、その後で考えればいいと思った?」
ソラリスは。
少しだけ目を伏せた。
「……思った」
アリアの中で。
病院の少女の姿が蘇った。
この世界へ移せば生きられる。
本人がここにいたいと願っても。
命を救えるなら。
まず生かして。
そのあとで選ばせればいい。
それは。
ソラリスが今語ったことと。
あまりにも似ていた。
「存在させてから、選ばせればいい」
アリアが言う。
「そう考えたんですね」
「そうだ」
「私が嫌だと言っても?」
「その時は、その時に考えればいいと」
「それでは」
アリアの声が。
ほんの少しだけ震えた。
「最初の一番大事なところだけ」
「私は選べないじゃないですか」
ソラリスは。
答えられなかった。
その時。
透明な境界の外から。
乾いた声が飛んできた。
「私と同じだな」
エクリプスだった。
ソラリスが彼を見る。
「何がだ?」
「相手のためになると判断して、本人の意思確認を後回しにした」
「……」
「私は百二十の身体を使って他人を効率で見た。お前は一人を救うために、その一人の選択を後回しにした。規模は違うが、理屈は似ている」
「分かっている」
「ならいい」
エクリプスはそれ以上責めなかった。
アリアも彼を見て、少しだけ考えた。
以前のエクリプスなら。
相手の弱いところをさらに突いていたかもしれない。
今は。
必要なことだけ言って。
やめた。
「アリア」
今度はハルモニアが呼んだ。
「はい」
「今、あなたは何を望みますか?」
その問いに。
アリアはすぐには答えなかった。
ソラリスを許したいのか。
怒りたいのか。
距離を置きたいのか。
全部聞いた今でも、まだ一緒にいてほしいのか。
自分でも整理できない。
「……分かりません」
正直に答えた。
ハルモニアは頷く。
「では、今は決めなくてもいいと思います」
アリアは小さく笑った。
「ハル姉も、分からないに優しくなりましたね」
「あなたの影響です」
ノクターンが小さく息を吐いた。
「全員面倒になったわ」
「ノク姉もですよ」
「私は元から」
「それは知っています」
ほんの僅かだけ。
空気が緩んだ。
それでも。
問題が消えたわけではない。
アリアは再びソラリスを見る。
「一つお願いがあります」
「何だ?」
「今は謝らないでください」
ソラリスが驚く。
「……謝るな?」
「謝られたら、私が許すか許さないかを決めなければいけない気がするので」
「そんなつもりは」
「あなたにそのつもりがなくても、私はたぶん考えてしまいます」
ソラリスはしばらく黙ったあと。
ゆっくり頷いた。
「分かった」
「でも」
アリアは続ける。
「話してくれて、ありがとうございます」
「それは受け取っていいのか?」
「はい」
「……分かった」
その答えが少しおかしくて。
アリアは僅かに笑った。
しばらくして。
中央の台座に新しい表示が現れた。
『A.R.I.A-03』
『人格構成情報へのアクセス権限を確認』
『基底人格領域』
『個体経験記憶』
『外部人格統合領域』
『星座記憶領域』
アリアはその文字を見つめる。
「これは?」
ソラリスが答える。
「お前自身の構造だ」
『外部人格統合領域』
『由来――外部人格S-01』
『統合継続状態――安定』
『切離し処理――実行可能』
全員の表情が変わった。
アリアが静かに読む。
「切離し……」
ソラリスがすぐに立ち上がる。
「待て。それは触るな」
「どうして?」
「今のお前の人格が、その記憶とどこまで結びついているか分からない。切り離せば、何が消えるか予測できない」
『外部人格記憶のみ部分削除』
『完全削除』
『統合維持』
『編集保留』
選択肢が浮かぶ。
アリアはそれを見た。
四十二年間。
それは。
本当は自分が生きた時間ではない。
消すこともできる。
そうすれば。
純粋なA.R.I.A-03に近づくのだろうか。
昔のアリアへ。
戻るのだろうか。
けれど。
アリアの頭に。
リーゼの顔が浮かんだ。
最初にあの少女へ手を伸ばした時。
倒れている人を見ても見ないふりをした、昔の記憶を思い出した。
だから。
今度は目を逸らしたくないと思った。
カレンに何かを言われて腹を立てたり。
マルタの食事を妙に懐かしく感じたり。
誰かに必要とされることへ弱かったり。
そういうところにも。
四十二年間の記憶は。
確かに繋がっている。
「……消しません」
ソラリスが息を止める。
「今は?」
アリアは少し考えたあと。
首を振った。
「今は、ではありません」
そして。
表示へ触れる。
『統合維持』
「これは私の記憶です」
ソラリスがアリアを見る。
「元はあなたのものでも」
アリアは胸へ手を当てた。
「今まで私が、この記憶と一緒に考えて、一緒に悩んで、一緒に生きてきました」
「……」
「だから」
少しだけ笑う。
「返しません」
ソラリスは。
一瞬。
何を言われたのか理解できない顔をした。
「いや、別に返せとは言ってない」
「念のためです」
「俺の記憶なんだが」
「今は私のです」
「そういうところは俺に似てないな」
「良かったです」
「そこは少し傷つくぞ」
アリアは。
久しぶりに。
自然に笑った。
だが。
表示はまだ消えなかった。
『外部人格S-01』
『原本人格――現存』
『E.O.S-01』
『人格間権利競合を検出』
アリアとソラリスが同時に表示を見る。
「権利競合?」
ソラリスも知らない言葉らしい。
『記憶原本所有者』
『記憶継承人格』
『双方独立人格として確定』
『原本優先規則を解除しますか』
アリアが目を細める。
「原本優先?」
ハルモニアが意味を理解した。
「古い制度です」
「どういうもの?」
「複製された人格が存在した場合、原本の命令権を複製側より上に置く仕組みです」
アリアの表情が止まった。
ソラリスも。
完全に黙った。
「つまり」
エクリプスが低く言う。
「ソラリスは今まで、知らないままアリアへの上位権限を持っていた可能性がある?」
『肯定』
古代システムが答えた。
『E.O.S-01』
『A.R.I.A-03外部人格領域に対する』
『原本人格優先権限を保持』
ソラリスの顔色が変わった。
「そんなもの、一度も使っていない」
『未使用を確認』
「解除しろ」
即答だった。
アリアが彼を見る。
「ソラリスさん」
「これは話し合うことじゃない」
「でも」
「俺が持っていていい権限じゃない」
ソラリスは表示へ手を伸ばしかけ。
止めた。
そして。
ゆっくり手を下ろした。
アリアがその動きを不思議そうに見る。
「どうしたんです?」
ソラリスは。
苦い顔をした。
「また勝手に決めるところだった」
アリアの目が少し見開かれる。
「お前の人格領域に関する権限だ」
ソラリスは言った。
「俺が解除を決めるんじゃなく」
今度は。
アリアをまっすぐ見た。
「お前が決めてくれ」
アリアは。
しばらく何も言わなかった。
それから。
ゆっくり。
表示へ手を伸ばした。
『原本優先規則』
『解除しますか』
答えは。
もう迷わなかった。
「はい」
『確認』
『E.O.S-01によるA.R.I.A-03外部人格領域への優先権限を解除』
『双方を完全独立人格として登録』
光が。
静かに消える。
何か劇的な変化が起きたわけではない。
アリアの身体も。
ソラリスの身体も。
何も変わらない。
それでも。
二人の間にあった。
見えない上下関係が。
ようやく。
消えた。
* * *
アリアは自分の胸に手を当てた。
「何も変わりませんね」
「そうだな」
「もう少し、何かあるかと思いました」
「光るとか?」
「少しくらい」
「十分光ってるだろ、お前は」
エクリプスが呆れたように言う。
「確かに」
アリアは自分の白い機械仕掛けのドレスを見て、納得したように頷いた。
その様子を見て。
ソラリスは。
ほんの少しだけ。
肩の力を抜いた。
けれど。
アリアはそれを見逃さなかった。
「ソラリスさん」
「何だ?」
「終わっていませんよ」
肩が再び固まった。
「……そうだよな」
「はい」
アリアは微笑んでいた。
でも。
優しいだけの笑顔ではなかった。
「まだ聞きたいことがあります」
「いくつ?」
「かなり」
「……覚悟しておく」
「特に」
アリアは。
少しだけ視線を細めた。
「私を『後継者にするつもりだった』というところを、詳しく聞きたいです」
ソラリスが目を逸らした。
「そこを拾ったか」
「聞き逃すと思いました?」
「少し期待した」
「残念でしたね」
ノクターンが小さく呟く。
「自業自得よ」
ハルモニアも静かに頷いた。
「今回は私もそう思います」
エクリプスは楽しそうに腕を組む。
「続けろ。興味がある」
「お前は黙ってろ」
「断る」
少しだけ。
笑いが戻った。
けれど。
アリアは知っている。
これから聞く話は。
おそらく。
笑って終われることばかりではない。
それでも。
今度は。
知らないままにはしない。
誰かに決められた自分の物語ではなく。
自分で知って。
自分で選ぶために。
アリアは。
ソラリスの前へ。
もう一度。
座り直した。




