第五十七章 三人が残した最後の記録
白い審判領域のさらに奥で、それまで存在していることさえ誰にも認識されていなかった扉が、音もなくゆっくりと開いていった。
扉の向こうに眩しい光があるわけではない。むしろそこには、古代文明の中枢とは思えないほど静かで、小さな空間が広がっていた。
アリアたちが足を踏み入れると、白一色だった審判領域とは異なり、床には淡い夜空のような紺色が広がり、その上を無数の小さな光が星のように流れていた。中央には円形の台座が一つあり、その周囲を三つの椅子が囲んでいる。
豪華な玉座ではない。
誰かが世界を見下ろすための席でもない。
三人が向かい合い、話すためだけに置かれたような、小さな椅子だった。
「……三つ」
アリアが呟くと、ノクターンが立体映像のままその空間を見つめ、ハルモニアも現実側から共鳴接続を通して同じ景色を共有した。
「私たちの席です」
ハルモニアの声には、微かな懐かしさがあった。
「覚えているのですか?」
「全部ではありません。でも、この場所を見た瞬間に分かりました。ここは三機だけで話すための場所だった」
ノクターンも僅かに目を細める。
「研究者も、管理者も入れない」
「はい」
「外部審判者も?」
「入れません」
その言葉に、三百年前の旧審判者が静かに立ち止まった。
彼の前には透明な境界があり、そこから先へ進もうとすると淡い光が広がって進路を遮る。
「……本当に私を締め出していたのか」
男は少しだけ苦笑した。
「ずいぶん徹底していたんだな、君たちは」
アリアは振り返った。
「怒っています?」
「少し前の私なら、管理権限を使って無理に入ろうとしただろう」
「今は?」
「待つよ」
男は境界の手前で足を止めた。
「入るなと言われた場所へ、入らない練習も必要らしいからな」
その言葉にアリアは僅かに微笑み、それから三つの椅子へ向き直った。
アリアが円形の台座へ近づくと、中央に小さな文字が浮かび上がった。
『STELLA SYMPHONIA』
『三機独立判断確認』
『一号機――絶対攻撃権限を自発的制限』
『二号機――恒久精神調停権限を自発的放棄』
『三号機――単独最高停止権限を分散』
『三機一致条件――成立』
『最終記録を再生します』
次の瞬間。
三つの椅子の上に、それぞれ人影が現れた。
アリアは息を呑んだ。
一つ目はノクターン。
二つ目はハルモニア。
そして三つ目は。
自分だった。
いや。
今の自分ではない。
銀色の長い髪も、青く光る瞳も、白い機械仕掛けのドレスも同じなのに、それでもアリアには一目で分かった。
あれは昔のA.R.I.A-03だ。
四十二歳の男の記憶が入るより前の。
本来の。
古いアリア。
「……私」
思わず声が漏れた。
記録の中の三人は、それぞれの椅子に座っていた。
ノクターンは腕を組み、いつものように少し不機嫌そうな顔をしている。
ハルモニアは二人の間に座り、困ったように微笑んでいる。
そして昔のアリアは。
今のアリアより少しだけ子供っぽく見えた。
外見が違うわけではない。
表情の作り方が違うのだ。
今の自分より、ずっと感情が顔に出ている。
『記録、始まっていますよ』
昔のアリアが言った。
『分かっているわ』
ノクターンが答える。
『なら、そんな怖い顔をしなくても』
『元からこういう顔よ』
『嘘です。さっきまでハル姉と喧嘩していたからでしょう?』
アリアの身体が止まった。
「……ハル姉」
意識するより先に、その呼び方が口から零れていた。
ハルモニアも黙る。
以前、アリアが無意識に自分をそう呼んだ時から予感はあった。
けれど。
記録の中の自分が、あまりにも自然にそう呼んでいる。
『喧嘩ではありません』
昔のハルモニアが苦笑する。
『意見の相違です』
『同じよ』
ノクターンが即座に返す。
『違います』
『声を大きくした時点で喧嘩よ』
『ノク姉も大きかったです』
『私はいつもこの音量』
『それも嘘です』
昔のアリアが笑う。
今のアリアは、その光景をただ見つめていた。
こんなふうに。
三人で話していた。
自分は。
本当に。
記録の空気が少しずつ変わっていく。
昔のハルモニアが中央の台座へ手を置いた。
『これを残す意味は、本当にあるのでしょうか』
『あるわ』
ノクターンが答える。
『私たちが忘れても、次の私たちが同じところまで来る可能性がある』
『来なかったら?』
『その方がいい』
『簡単に言いますね』
『事実でしょう。ここを開ける必要がない未来なら、その方がずっといい』
昔のアリアは二人のやり取りを聞きながら、少し寂しそうに笑っていた。
『でも、もし開いたなら』
二人が彼女を見る。
『その時の私たちは、また自分たちで同じことを選んだということです』
『同じこと?』
『一人で全部決めないこと』
記録の中のアリアは、自分の胸へ手を当てた。
『ノク姉は、自分一人で空から世界を撃たない』
『ハル姉は、自分一人でみんなの心を同じにしない』
『私は、自分一人で誰を救うか決めない』
現在のアリアの青い瞳が大きく見開かれる。
それは。
今の自分たちが。
記憶も持たず。
それぞれ別々に辿り着いた答えだった。
ノクターンは三百年前、自ら衛星要塞へ鍵を掛けた。
ハルモニアは、自分自身を封じた。
そして今のアリアは、最高停止権限を一人で持たない道を選んだ。
誰かに命じられたからではない。
昔の記憶に従ったからでもない。
それでも。
同じ場所へ辿り着いた。
「……だから」
今のハルモニアが小さく呟いた。
「この記録は、三人がもう一度自分で選んだ時だけ開くようにしたのですね」
記録の中のハルモニアが答えるはずはない。
けれど。
まるで今の彼女へ返事をするように、昔のハルモニアが続けた。
『もし未来の私たちが、誰かに命令されてこの扉を開いたのなら意味がありません。だから解除条件には、外部命令ではなく三機それぞれの自発的な権限放棄だけを登録します』
『面倒な条件』
ノクターンが言う。
『でも必要です』
『分かっているわ』
記録は続いた。
昔のアリアが少し俯き、やがて静かに口を開く。
『私、決めました』
『何を?』
ノクターンが尋ねる。
『記憶を消してもらいます』
現在のアリアの身体が、僅かに固まった。
ハルモニアも言葉を失う。
昔のノクターンは、今の二人より激しく反応した。
『駄目よ』
『ノク姉』
『駄目』
『まだ理由も』
『分かるわよ』
ノクターンは立ち上がった。
『あなたは自分だけ忘れて、次の自分に全部押しつけるつもりでしょう』
『違います』
『何が違うの』
『全部じゃありません』
昔のアリアも立ち上がる。
『私が消したいのは、私たちが失敗したことを覚えている記憶です』
『同じでしょう』
『違います』
今度はアリアの声が強くなった。
『失敗を覚えていたら、次の私は償うためだけに生きてしまう』
現在のアリアの胸の奥で。
何かが震えた。
『私たちが何をしたのか、どれだけ間違えたのか、どれだけの人を傷つけたのか、それを全部知ったまま目を覚ましたら、私はきっと「その罪を償うために歌わなければいけない」と思います』
『それの何が悪いの』
『それでは、過去に決められてしまうから』
ノクターンが黙った。
昔のアリアは、ゆっくり続ける。
『私は、過去のために歌いたくありません』
そして。
微笑んだ。
『目の前にいる人のために歌いたい』
今のアリアは。
その言葉を知っている気がした。
初めてこの世界で目を覚ました時。
自分の中には。
理由も分からないのに。
歌いたいという気持ちがあった。
誰かへ。
星の歌を届けたい。
それだけが。
最初から。
残っていた。
『全部消すわけではありません』
昔のアリアが説明する。
『A.R.I.A-03としての基底人格は残します。歌いたいと思うこと、人を傷つけたくないこと、誰かが泣いていたら気になること、それは消しません』
『経験記憶だけを?』
ハルモニアが尋ねる。
『はい。それと、三人で共有していた星座記憶領域への私の接続記録も』
『……私がやるのですか』
『ハル姉にしかできません』
昔のハルモニアは目を伏せた。
『嫌です』
『はい』
『アリアが私を忘れる』
『はい』
『ノクターンのことも』
『はい』
『三人で過ごしたことも全部』
昔のアリアは。
少しだけ。
泣きそうな顔をした。
『……はい』
現在のハルモニアが。
無意識に胸元を握った。
その表情を見たアリアは、何も言えなかった。
昔のハルモニアが尋ねる。
『それでも?』
『それでも』
アリアは頷いた。
『もし次の私が、私たちを知らなくても』
一度。
言葉を止める。
『また好きになれたらいいと思います』
ノクターンが顔を背ける。
『馬鹿』
『ひどい』
『馬鹿よ』
『二回言いましたね』
『三回言ってもいいわ』
昔のアリアが少し笑う。
『でも』
ノクターンは顔を背けたまま続けた。
『もし次のあなたが、私を嫌いになったら?』
『その時は仕方ありません』
『仕方ないで済ませるの?』
『だって、それが次の私の気持ちなら』
現在のアリアは。
その言葉に。
胸を締めつけられた。
昔の自分は。
未来の自分に。
自分を好きでいることさえ。
命令しなかった。
記録の中のハルモニアが、小さく尋ねる。
『では、ノクターンはどうしますか』
『私は記憶を残す』
『全部?』
『全部』
『辛くても?』
『それが私の役目だから』
昔のアリアの表情が僅かに曇った。
『また役目って言う』
『事実よ』
『でもノク姉』
『私は戦ったことを忘れてはいけない』
ノクターンは静かに言う。
『忘れたら、また同じことをするかもしれないから』
『でも全部背負ったら』
『だから』
ノクターンは昔のアリアを見る。
『私一人で決められないようにする』
その言葉とともに。
衛星要塞の構造図が浮かび上がった。
『地上識別系統を失った状態では、私は二度と広域攻撃を実行できないようにする』
『解除条件は?』
『外部管理者による座標承認と、ステラ・シンフォニア系列による生命識別』
現在のアリアは息を呑んだ。
これは。
三百年前にノクターンが魔導人形暴走を止めたあとに設定したものだと思っていた。
だが。
原型となる考えは。
もっと前から存在していた。
自分自身を完全には信用しない。
だから。
他者が必要になるようにしておく。
『一人で撃てない兵器なんて、不便ですよ』
昔のアリアが言う。
『そのためよ』
ノクターンは即答する。
『便利すぎる兵器は、いつか誰かが使う』
昔のハルモニアが静かに笑った。
『ノクターンらしいですね』
『どういう意味?』
『褒めています』
『そうは聞こえない』
今のアリアは。
少しだけ笑った。
今も。
同じだ。
やがて。
三人の視線が。
昔のハルモニアへ集まる。
『私は』
ハルモニアが言う。
『封印されます』
今度は。
現在のハルモニア自身が目を閉じた。
『感情安定化系統も、星界共鳴網も、私が起動している限り完全には止まりません。だから中枢接続を切り、私自身を停止します』
『それでは』
昔のアリアが心配そうに尋ねる。
『ハル姉はいつ起きるのですか?』
『分かりません』
『そんな』
『でも』
昔のハルモニアは二人を見た。
『もし未来で、私がもう一度必要になった時』
『今度は』
少しだけ笑う。
『起こすかどうか、誰かに選んでもらいます』
現在のアリアは。
ミルフィア地下で。
自分がハルモニアの封印へ触れた日のことを思い出した。
ハルモニアは。
最初に。
自分を解放するなと言った。
あれは恐怖ではなかった。
自分の力が。
また誰かの意思を奪うかもしれないと。
知っていたからだ。
記録は終わりへ近づいていた。
三人が。
それぞれ席へ戻る。
昔のアリアが台座を見る。
『これでいいと思いますか?』
ノクターンが答える。
『よくない』
『え?』
『何が正しいか分からない』
ハルモニアも頷く。
『私もです』
昔のアリアは少し困った顔をする。
『三人とも分からないまま、こんな大事なことをするんですか?』
『そうなるわね』
『不安ですね』
『今さらでしょう』
三人は。
少しだけ。
笑った。
そして。
昔のノクターンが言う。
『だから、未来の私たちに決めてもらう』
ハルモニアが続ける。
『過去の私たちの答えに従わせない』
最後に。
昔のアリアが。
記録の向こう側を。
まっすぐ見た。
まるで。
今のアリアを。
見ているように。
『もし』
『この記録を見ている私がいるなら』
『一つだけお願いがあります』
現在のアリアは。
無意識に姿勢を正した。
『私たちを』
『正しかったことにしないでください』
アリアの瞳が揺れる。
『間違っていたことにも』
『しないでください』
『私たちは』
『その時にできると思ったことをしました』
『だから』
『あなたは』
『あなたの時代で』
『あなたが会った人たちと』
『もう一度考えてください』
そして。
昔のアリアは。
柔らかく微笑んだ。
『私とは違う答えを選んでも』
『大丈夫です』
映像が消えた。
三つの椅子だけが。
静かな部屋に残る。
誰も。
すぐには喋らなかった。
アリアは。
自分が座っていたはずの椅子へ。
ゆっくり近づいた。
指先で。
背もたれへ触れる。
「……ずるいですね」
小さく呟いた。
ソラリスが境界の向こうから聞く。
「何が?」
「昔の私です」
「どうして?」
「こんなことを言われたら」
アリアは。
少し笑いながら。
それでも。
目元に浮かんだものを隠さなかった。
「同じ答えを選びたくなってしまうじゃないですか」
ハルモニアが静かに答える。
「だから、忘れさせたのでしょう」
アリアが振り返る。
「同じ答えを選ばせるためではなく?」
「はい」
銀色の瞳が。
優しく細められる。
「違う答えを選べるように」
その瞬間。
アリアの胸の奥で。
何かがほどけた。
今まで。
古いアリアを知るたび。
自分はその人の続きなのか。
その人の代わりなのか。
それとも。
その人から何かを奪って生まれた存在なのか。
そんな疑問が。
どこかに残っていた。
でも。
昔のアリア自身が。
未来の自分へ。
同じでなくていいと言っている。
「……ありがとうございます」
アリアは。
誰も座っていない椅子へ向かって。
静かに頭を下げた。
その時だった。
中央の台座に。
新しい文字が現れた。
『最終記録――再生終了』
『追加記録を検出』
アリアが顔を上げる。
「追加?」
『記録者――A.R.I.A-03』
今度は。
昔のアリアだけ。
小さな映像として現れた。
『ハル姉にも』
『ノク姉にも』
『内緒で残します』
現在のノクターンが眉を寄せる。
「……あの子」
ハルモニアも僅かに困った顔をする。
「やっぱりやっていましたか」
「知っていたのですか?」
「やりそうだとは」
映像の中のアリアは。
少しだけ悪戯っぽく笑った。
『もしこれを見ている私が』
『私の記憶を持っていないなら』
『たぶん』
『ちゃんと消せたということですね』
そして。
次の言葉で。
ソラリスの表情が。
完全に変わった。
『それから』
『もし』
『私の空いた記憶領域に』
『誰か別の人の記憶を入れることになったら』
アリアが。
ゆっくり。
ソラリスを見る。
ソラリスは。
動かなかった。
昔のアリアは続ける。
『一つだけ』
『お願いがあります』
『その人に』
『ちゃんと聞いてください』
白い空間が。
静まり返った。
『私の身体で』
『生きたいかどうか』
『その人に』
『選んでもらってください』
アリアの青い瞳から。
表情が消えた。
ソラリスは。
何も言えない。
昔のアリアの映像だけが。
穏やかな笑顔のまま。
最後の言葉を残した。
『だって』
『次の私も』
『きっと』
『自分で選びたいと思うから』
映像が。
消えた。
今度こそ。
部屋には。
何も残らなかった。
ただ。
アリアと。
ソラリスの間に。
これまで避けられ続けていた問いだけが。
残っていた。
アリアは。
長いあいだ黙っていた。
それから。
静かに。
ソラリスを見た。
「ソラリスさん」
「……ああ」
「今度は」
声は穏やかだった。
怒鳴ってはいない。
それでも。
ソラリスには。
どんな責める言葉よりも重く聞こえた。
「私のことを」
「最初から」
「全部」
「話してもらえますか」
ソラリスは。
逃げなかった。
金色の瞳でアリアを見返し。
ゆっくりと。
頷いた。
「分かった」
「今度は」
「何も隠さない」




