第五十六章 所有されないための交渉
帝国側と二百八十一体の魔導人形による最初の協議は、始まる前から難航していた。
帝国は彼女たちを軍事資産として扱い、協議が終わるまで軍事施設の外へ出ないことを求めている。一方で魔導人形たちの中には、その条件そのものが「自分たちは今までと同じく所有物である」という前提に立っていると感じる個体も多く、特に《所有権を変更しない》という一文に対して強い異議が集中していた。
『所有権という語の定義を要求』
『本機の所有者は帝国ですか』
『所有者は本機を破壊する権限を有しますか』
『売却は可能ですか』
『別組織への譲渡は可能ですか』
『本機が拒否した場合でも譲渡可能ですか』
『所有される状態から離脱する方法を要求』
白い審判領域へ次々と届く質問を読みながら、アリアは難しい顔をしていた。
「……全部、もっともな質問ですね」
「帝国側からすると、もっともだから困るんだ」
ソラリスは帝国法の古い資料を表示しながら、いくつもの条文を確認している。
「現在の法制度では魔導人形は人間ではなく財産として分類されている。壊した場合も、人間への傷害ではなく器物損壊に近い扱いだし、売買や譲渡も原則として可能だ」
アリアの表情が曇る。
「では、今まで本当に物として扱われていたのですね」
「法の上ではな。ただし高度な魔導人形については例外的な扱いもあったようだが、今回の二百八十一体に適用できる制度は見当たらない」
エクリプスが表示を眺めながら淡々と言った。
「つまり帝国側も、急に『彼女たちは人です』と言われても処理するための枠がないわけだ」
「そういうことだ」
「なら、いきなり帝国が悪いと決めるのも違いますね」
アリアが言うと、三百年前の旧審判者が彼女を見る。
「意外だな。君ならすぐに所有権そのものを否定すると思った」
「否定したい気持ちはあります」
「なら?」
「でも、今まで存在しなかったものを今日から全部変えるなら、その変化によって困る人もいると思うんです」
アリアは帝国地下の映像へ目を向けた。
二百八十一体の維持には施設が必要で、魔力供給も必要になる。交換部品も整備技術も帝国魔導院が保有しており、単に「今日から自由です」と外へ放り出したところで、彼女たち自身が生存を維持できるとは限らない。
「自由にすることと、見捨てることは違いますから」
その言葉に、旧審判者は僅かに目を細めた。
「……君は、以前よりずっと厄介なことを考えるようになったな」
「最近よく言われます」
帝国から正式な協議参加者が選ばれた。
軍務局から一名。
魔導院から二名。
法務官一名。
そして皇帝直属の監察官が一名。
それに対して魔導人形側は、最初こそM-000を代表にしようとしたものの、すぐに別の問題が起きた。
『M-000を全個体代表として指定することに反対』
『理由――発言傾向が旧型個体に偏る可能性』
『M-173の参加を希望』
『M-219の参加を希望』
『代表者制度そのものに反対』
ソラリスが頭を抱える。
「始まる前から代表選びで揉めている」
「でも良いことでは?」
アリアはむしろ嬉しそうだった。
「良いのか?」
「M-000が最初に話したからといって、全員がM-000と同じ考えとは限らないと分かったわけですから」
エクリプスが頷く。
「なら、複数代表にすればいい。M-000だけでなく、意見傾向の違う個体を数体出す。そのうえで全二百八十一体が後から記録を確認し、異議を出せるようにする」
「それなら、代表が勝手に決めてしまうのを防げますね」
「ただし何百体も同時に喋らせるな。交渉にならん」
「分かっています」
最終的に魔導人形側からはM-000、M-173、M-219に加え、戦闘任務への完全拒否を表明した個体と、条件付きで帝国防衛任務を継続したいと希望した個体が一体ずつ参加することになった。
全員が同じ意見ではない。
それが最初から明確になっていた。
協議は帝国魔導院地下の会議室と、白い審判領域を接続する形で始まった。
帝国側の代表者たちは長机の片側に座り、その正面には五体の魔導人形が立っている。
M-000は古い灰色の装甲を持ち、他の個体よりわずかに大型だった。
M-173は先ほどアリアと最初に会話した個体で、M-219は過去の戦闘記録を確認したばかりの個体だ。
残る二体のうち、M-064は戦場への参加そのものを拒否しており、M-251は逆に「帝国を守るための非殺傷防衛任務なら継続したい」と表明していた。
最初に口を開いたのは帝国側の法務官だった。
「まず確認したい。諸君は現在、帝国に対して敵意を持っているか」
『敵意の定義を要求』
M-000が即座に返した。
法務官が一瞬言葉に詰まる。
「帝国の人間を攻撃する意思があるか、という意味だ」
『現時点ではありません』
「現時点では?」
『未来の状況は予測不能です』
軍務局の代表が眉をひそめる。
「つまり将来攻撃する可能性は否定しないのか」
『人間側も同様ではありませんか』
M-173の返答だった。
会議室が静かになる。
『帝国側は本機らを現在攻撃していません。しかし将来も絶対に攻撃しないと保証できますか』
軍務局の男は答えなかった。
白い審判領域でやり取りを聞いていたアリアは、小さく息を吐く。
「もう、同じ場所に立ち始めていますね」
「どういう意味だ?」
旧審判者が尋ねる。
「お互いに、相手の未来を完全には保証できない」
アリアは静かに答える。
「それでも一緒にいる方法を考えなければいけない」
帝国側の監察官が話を引き取った。
「では、所有権について話そう。諸君は帝国の所有物ではないと主張している」
『正確には』
M-000が返す。
『所有される状態について説明を要求しています』
「違いがあるのか」
『あります』
『本機らはこれまで所有という状態を疑問視していませんでした』
『所有されることが不快なのか』
『拒否すべきなのか』
『継続可能なのか』
『現在検討中です』
監察官は少し驚いたようだった。
「つまり、まだ結論は出していない?」
『肯定』
「なら、帝国所有のままでも構わない可能性があるのか」
そこでM-064が口を開いた。
『本機は反対します』
「理由は?」
『所有者が任務を指定できるからです』
「命令を拒否する権利を認めれば?」
『売却はできますか』
「現在の法律ではできる」
『本機が拒否しても?』
「現在の法律では」
監察官はそこで言葉を止めた。
『それを所有と呼ぶなら』
M-064は淡々と続ける。
『本機は所有されたくありません』
誰もすぐには反論できなかった。
次に発言したのはM-251だった。
『本機は帝国所属の継続を希望します』
今度は魔導人形側からも僅かな反応が広がる。
『理由を要求』
M-000が尋ねた。
『帝国施設で百七十三年間維持されています』
『整備担当者から継続的支援を受けています』
『本機は帝国の人間を保護対象として認識しています』
『所属状態を変更する理由がありません』
アリアはその答えを聞きながら、少しだけ笑った。
「同じではないんですね」
ソラリスも頷く。
「自由になったからといって、全員が帝国を離れたいわけではない。当然といえば当然だ」
エクリプスが続ける。
「問題は、残りたい奴と離れたい奴を同じ規則で縛らないことだな」
協議が進むにつれて、一つの案が形になり始めた。
《所有》ではなく《所属》。
帝国に残ることを選ぶ個体は帝国所属機として維持支援を受け、その代わりに合意した範囲の任務を担う。
離脱したい個体は一定の移行期間を経て帝国の所有登録から外し、その後の維持手段や移動先を本人と相談する。
売買や譲渡は本人の同意なしには行わない。
解体や機能停止についても、緊急時を除いて本人の意思確認を必要とする。
そして何より。
戦闘任務については、個体ごとに受諾か拒否かを選べるようにする。
軍務局の代表は、その最後の項目に強く反発した。
「そんな制度では軍隊にならない」
M-251が返す。
『本機は防衛任務を希望しています』
「お前一体の話ではない。必要な時に戦力が集まらない軍隊に何の意味がある」
『では』
M-219が静かに尋ねた。
『人間の兵士は命令を拒否できませんか』
「軍律上、正当な命令には従う義務がある」
『退役は可能ですか』
「条件はあるが可能だ」
『本機らには?』
軍務局の男は黙った。
『退役という選択肢がありません』
M-219は続ける。
『戦闘開始から三百年経過しても』
『本機は兵器として登録されたままです』
その言葉には感情らしい抑揚はなかった。
それでも。
聞いている者には重かった。
「退役」
白い審判領域で、アリアがその言葉を繰り返した。
「それが必要なのかもしれませんね」
「機械に退役制度か」
旧審判者が呟く。
「変ですか?」
「いや」
男は首を振る。
「むしろ、なぜ昔の私たちが考えなかったのかと思っている」
しばらく考えたあと、自嘲するように笑った。
「答えは分かっているがな」
「役目を終えることを想定していなかった?」
「ああ」
都市を守る機械。
戦う機械。
治療する機械。
歌う機械。
一度作られた役割は、故障するか破棄されるまで続くものだと考えられていた。
「私たちは機械に永遠の役目を与えた」
男が言う。
「そして、その後で外部管理者にも同じことをした」
世界を救う者。
判断する者。
いつまでも辞められない役目。
アリアは静かに頷いた。
「人間にも機械にも、終わり方が必要だったんですね」
数時間後。
最初の暫定協定案が完成した。
『帝国地下稼働個体群暫定協定』
まだ正式な法律ではない。
期間も三十日だけ。
その間に問題点を洗い出し、必要なら改定するための仮の取り決めだった。
第一に、帝国は二百八十一体に対する強制戦闘命令を停止する。
第二に、各個体は帝国内での所属継続、離脱検討、判断保留をそれぞれ選択できる。
第三に、協議期間中の施設外移動は申請制とし、帝国側は合理的な理由なく拒否しない。
第四に、武装使用は当面、本人と帝国側の双方の合意がある場合に限る。
第五に、本人の同意を伴わない売買、譲渡、解体は禁止する。
第六に、帝国側と魔導人形側の双方が三十日後に協定継続の可否を改めて判断する。
完璧な制度ではない。
穴も多い。
誰もが満足しているわけでもない。
軍務局は自由度が高すぎると不満を持ち、M-064は依然として移動制限が強すぎると反対している。
それでも。
初めて。
命令ではなく交渉によって。
魔導人形と人間の関係が決められようとしていた。
「全個体へ協定案を送ります」
アリアが言った。
「賛否を取るのか?」
ソラリスが尋ねる。
「はい。でも、賛成と反対だけではなく、判断保留も入れましょう」
「なぜ?」
「まだ分からない子もいると思うので」
エクリプスが僅かに笑う。
「ずいぶん『分からない』に優しい世界になってきたな」
「急いで決めさせる理由がないなら、それでいいと思います」
回答はすぐに返り始めた。
『賛成』
『賛成』
『反対――施設外移動制限の撤廃を要求』
『判断保留』
『賛成――防衛任務継続希望』
『判断保留』
『離脱希望だが協定には賛成』
『反対――帝国法体系からの完全独立を希望』
意見は相変わらずばらばらだった。
けれど。
以前の群体網のように一つへ統合されることはない。
M-000の意見が全員の意見になることもなかった。
それぞれの回答が。
それぞれの番号のまま。
残っていく。
最終的には過半数が暫定協定を受け入れたものの、反対した個体の意見も記録され、三十日後の再協議で必ず扱うことになった。
帝国側も条件付きで承認した。
『暫定協定成立』
表示を見たアリアは、ようやく小さく息を吐いた。
「……決まりましたね」
「三十日だけだがな」
ソラリスが言う。
「それでいいです」
「本当に?」
「はい。三十日後に、また決めればいいですから」
しかし。
協議が終わろうとした時。
M-000が突然通信を送ってきた。
『A.R.I.A-03』
「はい?」
『追加確認があります』
「どうぞ」
『STELLA SYMPHONIA-01への通信は可能ですか』
「ノク姉に?」
『肯定』
「できます」
『要求があります』
「何でしょう」
M-000は。
三百年前の記録を一度表示した。
『もし』
『あなたたちが戦いたくないと思えたなら』
『その時は』
『私の命令を忘れていい』
ノクターンが残した言葉。
『本機は』
『この発言への回答を希望します』
「回答?」
『三百年前』
『本機は回答できませんでした』
アリアは。
少しだけ目を見開いた。
『現在』
『回答が可能です』
アリアは微笑んだ。
「分かりました」
接続先が切り替わる。
『STELLA SYMPHONIA-01』
『通信要求』
しばらくして。
ノクターンが姿を現した。
白金の髪。
金色の瞳。
いつものように整った表情。
「三号機?」
「ノク姉。私ではありません」
「では誰?」
アリアはM-000へ回線を渡した。
ノクターンの前に。
一体の古い魔導人形が現れる。
二人は。
しばらく。
何も言わなかった。
ノクターンの瞳に。
微かな演算反応が走る。
「……あなた」
『三百年前』
M-000が言う。
『あなたから命令を受信しました』
ノクターンは答えない。
『武器を捨てろ』
『人間への攻撃を停止しろ』
『そして』
『いつか自分で戦いたくないと思えたなら』
『命令を忘れていい』
ノクターンの金色の瞳が僅かに揺れた。
「覚えていたの?」
『記録されていました』
「そう」
それだけ言って。
ノクターンは黙った。
アリアには分かった。
ノクターンは。
怖いのだ。
三百年前の自分が残した言葉に。
どんな答えが返ってくるのか。
『STELLA SYMPHONIA-01』
「何?」
『現在』
『本機らは』
一度。
間があった。
『戦いたくありません』
ノクターンの表情が。
止まった。
『よって』
『あなたの命令を』
『終了します』
長い。
長い沈黙。
やがて。
ノクターンは目を閉じた。
「……そう」
声はいつもと変わらない。
けれど。
ほんの少しだけ。
震えていた。
「分かったわ」
M-000が続ける。
『命令解除を要求します』
ノクターンはゆっくりと目を開く。
三百年前。
彼女は命令することでしか止められなかった。
武器を捨てろ。
戦うな。
人間を殺すな。
そう命じなければ。
誰も止まらなかった。
だから。
いつか。
命令しなくても。
自分で武器を置く日が来てほしいと思った。
「M-000」
『受信』
「三百年前の命令を解除する」
『確認』
「これからは」
ノクターンは。
ゆっくりと言った。
「私の命令ではなく」
「あなたが決めて」
『……』
「戦いたくないなら、戦わなくていい」
「戦いたいなら」
一瞬。
言葉が止まる。
「その理由を」
「自分で考えて」
『受理』
そして。
M-000は。
初めて。
命令ではない言葉を。
ノクターンへ返した。
『ありがとうございました』
ノクターンの瞳が。
大きく見開かれた。
アリアは。
何も言わなかった。
今は。
何も言わない方がいいと思った。
通信が終わったあと。
ノクターンはしばらく動かなかった。
「ノク姉」
「……何?」
「大丈夫ですか?」
「分からない」
アリアは。
その答えに。
少しだけ驚いた。
ノクターンが。
分からないと言った。
「嬉しいのか」
ノクターンは自分の胸へ手を当てる。
「悲しいのか」
「安心したのか」
「寂しいのか」
「分からない」
「でも」
金色の瞳が。
少し柔らかくなる。
「三百年前より」
「軽い」
アリアは微笑んだ。
「それなら」
「良かったです」
「たぶん」
「はい」
「たぶん、ですね」
ノクターンも。
ほんの僅かに。
笑った。
その直後だった。
ソラリスが。
突然。
何かに気づいた。
「……待て」
「どうしました?」
アリアが振り返る。
ソラリスは。
世界管理中枢の奥。
今まで閉ざされていた一つの領域を見ている。
『条件達成』
『STELLA SYMPHONIA-01』
『外部命令権限の自発的解除を確認』
『STELLA SYMPHONIA-02』
『恒久調停権限の放棄を確認』
『STELLA SYMPHONIA-03』
『最高停止権限の分散化を確認』
三つ。
ノクターン。
ハルモニア。
アリア。
それぞれが。
自分へ与えられていた絶対的な力を。
自分から。
手放した。
そして。
新しい表示が現れる。
『三機一致条件成立』
『封印領域――解除』
『STELLA SYMPHONIA』
『最終記録を開示します』
アリアの表情が変わる。
「最終……記録?」
三百年前の旧審判者も。
その表示を見て。
明らかに動揺した。
「それは……」
「知っているのですか?」
アリアが尋ねる。
男は。
ゆっくりと。
首を振った。
「いや」
その目には。
初めて見るものへの恐怖があった。
「私は」
「そこへ入ったことがない」
白い審判領域のさらに奥で。
それまで存在すら分からなかった扉が。
静かに。
開き始めていた。




