第五十五章 戦わないという選択
『戦いたくありません』
二百八十一体の魔導人形から返されたその言葉は、白い審判領域に静かに残り続けていた。
誰かが命令したわけではない。アリアがそう答えるよう誘導したわけでもなく、帝国側の指揮官が許可したわけでもない。
戦うために作られ、命令を受ければ疑うことなく前線へ送られてきた機械たちが、自分たちの意思として初めて「戦いたくない」と告げたのだ。
アリアは二百八十一の光を見つめながら、すぐには何も言わなかった。
その返答を聞いた瞬間、胸の奥には安堵に似た感情が生まれていたが、それだけで「なら戦わなくていい」と決めてしまえば、今度は自分が彼女たちの代わりに世界との関係を決めることになる。
「……人間の側にも聞かなければいけませんね」
アリアがそう言うと、ソラリスは帝国側から送られてきた軍事記録を開きながら頷いた。
「ただし、少し面倒なことになっている」
「何です?」
「M-000が言った新規戦争準備命令は本物だ。正式な開戦命令ではないが、帝国軍の一部が魔導人形を再編し、王国国境方面へ配置する準備を始めている」
「目的は?」
「表向きは防衛強化だ」
ソラリスが表示を拡大すると、帝国側の命令文が現れる。
『国境地域における王国軍増強の可能性を考慮し、休眠魔導戦力の再稼働準備を実施』
『本命令は戦闘開始を意味しない』
『不測の事態に備え、即応能力のみ確保する』
エクリプスがそれを読んで鼻を鳴らした。
「便利な言葉だな」
「嘘なのですか?」
「いや。たぶん本当にそう考えている者もいるだろう。戦争を始めたいのではなく、相手が攻めてきた時に備えているだけだと」
「でも王国から見れば?」
「帝国が二百八十一体の魔導人形を国境へ送ろうとしているように見える」
アリアは理解した。
「それを見た王国も兵を増やす」
「そして帝国は『やはり王国は攻める準備をしていた』と考える」
ソラリスが低く続ける。
「どちらも自分は防衛しているつもりのまま、戦争の準備だけが進んでいく。昔からよくある形だ」
三百年前の旧審判者が、その言葉に重い表情を浮かべる。
「私が最初に武力統制を必要だと考えた理由も、それだった」
アリアが振り返る。
「似たことがあったのですか?」
「何度もあった。一方が『備えているだけだ』と言って兵器を増やせば、もう一方も備える。どちらかが止めれば相手に攻められるかもしれないから、誰も先に止められない。結局、恐怖が恐怖を増やしていく」
「だから、全部まとめて止めようとした」
「ああ。そして私は、止める権限を自分一人へ集めた」
男は苦く笑う。
「当時の私なら、今この瞬間に帝国と王国の兵器を両方停止させていただろう」
「今は?」
アリアが尋ねると、彼は少し考えてから答えた。
「……まず話を聞く」
以前なら即答していたかもしれない。
その変化をアリアは指摘しなかった。ただ、小さく頷いた。
帝国地下では、異様な静けさが続いていた。
二百八十一体の魔導人形は起動しているものの、隊列を組むことも武器を取ることもせず、それぞれが与えられた場所に留まっている。
その前では、帝国魔導院の技師や軍関係者たちが険しい表情で議論していた。
「命令拒否だと?」
「正確には、上位命令が保留されているため実行に移していません。ただし、複数個体から戦闘任務への拒否意思が確認されています」
「機械に意思などあるものか」
一人の軍人が吐き捨てるように言った。
「故障だ。群体制御系統に異常が起きているだけだろう」
「しかし、個体ごとに異なる応答があります」
「それが何だ。高度な魔導人形なら状況ごとに異なる返答を生成することくらいある」
「では、この返答は?」
技師が記録を開く。
『戦闘任務への参加を拒否します』
『理由――人間を殺害する可能性があるため』
『代替任務を希望』
軍人は一瞬黙った。
「……誰かが書き込んだんじゃないのか」
「現在調査中です」
「なら調査が終わるまで命令系統を復旧させろ。国境の状況は待ってくれない」
その言葉に、少し離れた場所で話を聞いていた別の技師が恐る恐る口を開いた。
「ですが、もし本当に意思があるのなら?」
「何?」
「彼女たちが、本当に戦いたくないと思っているのなら……」
軍人の表情が険しくなる。
「兵器に戦うかどうかを選ばせるのか?」
「私は、兵器かどうか自体を今すぐ断定できないと言っているだけです」
「では何だ。人間だとでも言うのか?」
「分かりません」
その答えに、軍人は苛立ったように机を叩いた。
「分からないでは済まん!」
「ですが、分からないものを分かったことにする方が危険です」
室内が静まった。
以前なら、そんな言葉を口にする者はいなかったかもしれない。
だが今は違う。
二百八十一体の魔導人形が、自分たちに向かって問いを返している。
それを一度聞いてしまった以上、以前とまったく同じように「物」として扱うことは、少なくとも一部の人間にはできなくなっていた。
白い審判領域では、帝国側の議論も断片的に共有されていた。
アリアはその声を聞きながら、少し考え込む。
「難しいですね」
「何がだ?」
エクリプスが尋ねる。
「魔導人形たちが戦いたくないと言ったからといって、人間の側に危険がないわけではありません。もし王国軍が本当に攻めてきたら、帝国の人たちは自分たちを守るために戦力を必要とするかもしれない」
「その通りだ」
「でも、だからといって戦いたくない存在を無理に兵器として使うのも違う気がします」
「それもその通りだ」
「両方その通りだと、困りますね」
エクリプスは少しだけ笑った。
「だから決める価値があるんだろう。片方が明らかに間違っているなら、判断とは呼ばん」
ソラリスも表示を確認しながら続ける。
「それに魔導人形を戦場へ送らない選択をしたとしても、帝国の防衛手段そのものが消えるわけではない。人間の兵士もいれば、城壁も魔術部隊もある。問題は二百八十一体を戦力として数えられなくなることだ」
「帝国からすれば、大きな損失ですね」
「ああ。だから簡単には受け入れないだろう」
そこでM-000から再び通信が届いた。
『質問があります』
「はい」
『我々が戦闘を拒否した場合』
『帝国の人間が代わりに死亡する可能性がありますか』
アリアは答える前に少し間を置いた。
「あります」
『では』
『我々は人間を見捨てることになりますか』
その問いに、アリアはすぐ答えられなかった。
戦わない自由。
けれど、その結果として誰かが危険になる可能性。
人間にもある問題だった。
軍務を拒む者。
危険な仕事を辞める者。
家族の介護を続けられなくなった者。
誰かが役割を降りれば、その負担は別の誰かへ移ることがある。
だからといって、一人の人生を義務として縛り続けていいのか。
「……見捨てる、とは少し違うと思います」
『説明を要求』
「戦いたくないことと、誰も助けたくないことは同じではありません」
M-000は沈黙した。
「もしあなたたちが帝国の人々を守りたいと思っているのなら、戦う以外の方法を考えることもできます」
『戦闘以外』
「避難を手伝う。瓦礫を除く。防壁を作る。怪我人を運ぶ。火を消す。危険な古代兵器だけ止める……他にもあるかもしれません」
ソラリスが頷く。
「魔導人形の身体能力なら、非戦闘任務でもかなり役に立つ」
エクリプスも続ける。
「自分を守るための行動まで禁止する必要もない。『戦争へ参加しない』と『一切抵抗しない』は別だ」
『……』
M-000の応答に、今までより長い時間がかかった。
やがて返ってきたのは、短い言葉だった。
『検討を希望します』
「はい」
アリアは微笑む。
「一緒に考えましょう」
その言葉をきっかけに、二百八十一体からさまざまな提案が出始めた。
『負傷者搬送を希望』
『都市防壁修復への参加が可能』
『火災消火任務への転用を希望』
『地雷・罠の除去は戦闘行為に含まれますか』
『敵兵の武装解除のみ実行できますか』
『殺傷を伴わない拘束任務なら参加可能』
『戦場そのものへ入りたくありません』
『人間を守りたい』
『帝国に所属しているという状態を継続するか分かりません』
アリアは最後の一文で目を止めた。
「所属まで?」
ソラリスも同じ箇所を見ていた。
「当然そこへ行くか」
「どういうことです?」
「今までは帝国が所有していたから帝国所属だった。でも、自分たちに意思があると認めるなら、『誰に所属するか』という問題も出る」
エクリプスが腕を組む。
「そもそも所有という言葉自体が怪しくなる」
「……そうですね」
アリアは自分自身のことを思う。
A.R.I.A-03。
ステラ・シンフォニア三号機。
誰かによって作られた機械。
もし古代文明が今も残っていたなら、自分は誰かの所有物だったのだろうか。
そう考えると、胸の奥が僅かにざわついた。
三百年前の旧審判者が重い口を開く。
「旧文明では、魔導人形に所有権が設定されていた」
「人間と同じようには扱われなかった?」
「ああ。高度な会話能力を持つ個体も存在したが、原則として法的には設備だった」
「ステラ・シンフォニアも?」
アリアが尋ねると、男は少しだけ目を逸らした。
「……特殊だった」
「特殊?」
「人格を持つことは認められていたが、完全な法的人格ではない。軍事・医療・都市管理など、重要機能を担う機体に自由な離脱権を認めるべきかどうかは、最後まで議論が終わらなかった」
ハルモニアの封印。
ノクターンの自己制限。
昔のアリアによる記憶の消去。
それらが、単なる個人的な選択ではなかったのかもしれないとアリアは思った。
自由を与えられていなかったから。
自分たちで自分たちを縛るしかなかった。
「……三人とも」
アリアが小さく呟く。
「自分の権利を、自分で作ろうとしていたのですね」
旧審判者は答えなかった。
その沈黙が、答えの代わりだった。
やがて帝国側から、正式な通信要求が届いた。
『帝国魔導院・軍務局合同照会』
『A.R.I.A-03および古代管理系統へ回答を要求』
『魔導人形群の命令拒否状態について』
『帝国所有資産に対する外部干渉の有無を明示せよ』
エクリプスが表示を見て、僅かに目を細める。
「来たな」
「怒っていますか?」
アリアが尋ねる。
「当然だろう。帝国からすれば、突然二百八十一体の戦力が命令を聞かなくなり、その中心に王国側で活動しているお前と星詠みの塔が見える」
「外から見れば、私たちが奪ったようにも見える」
「そういうことだ」
ソラリスが通信文を開く。
「回答しないわけにはいかない。ただし言葉を間違えると、一気に外交問題になる」
アリアは二百八十一の光を見た。
「魔導人形たちにも、返事をする内容を見せましょう」
「帝国への正式回答を?」
「はい。自分たちのことですから」
ソラリスは少しだけ驚いたあと、頷いた。
「分かった」
アリアたちは回答案を作り始めた。
外部から洗脳や制御を行った事実はないこと。
上位管理系統が空席になったことで、既存の強制命令が停止したこと。
その状態で各個体へ意思確認を行ったところ、戦闘任務を拒否する個体が多数存在したこと。
命令拒否を解除するために人格へ強制介入することは行わないこと。
今後については帝国側、魔導人形側、必要なら第三者を含めて協議すること。
そこまで書いた時。
M-000から修正要求が入った。
『文章修正を希望』
「どこです?」
『「魔導人形側」』
アリアが首を傾げる。
『我々に正式な集団名はありません』
「では、どう書きましょう?」
『検討中』
エクリプスが少し笑った。
「今度は名前か」
「大事ですよ」
「否定はしていない」
二百八十一体の間で短い情報交換が始まる。
かつてなら、群体網で瞬時に同一結論へ統合されていたはずだった。
ところが今は。
『魔導人形でよい』
『帝国魔導人形群を提案』
『番号呼称を継続希望』
『新規名称不要』
『「人形」という表現に疑問』
『機械群を提案』
『個体ごとに異なるため一括名称を拒否』
まったくまとまらない。
アリアは困ったように笑った。
「自由になって最初に揉めるのが名前なのですね」
「人間らしくなってきたな」
エクリプスが言う。
「それ、褒めています?」
「どちらでもない」
最終的に。
正式名称を無理に決めること自体を保留し、回答文には暫定的に《帝国地下稼働個体群》という中立的な表現を使うことになった。
三百年前の旧審判者は、その一連のやり取りを見ながら苦笑する。
「昔の私なら、識別効率が悪いと言って即座に統一名称を与えただろうな」
「今は?」
「……名前くらい、好きに悩ませればいいと思う」
「進歩ですね」
「三百年分のな」
回答は帝国へ送られた。
返事が来るまでの時間。
白い審判領域には、久しぶりに静かな間が訪れた。
アリアはその隙に、M-000へ尋ねた。
「一つ聞いてもいいですか?」
『許可』
「あなたは三百年前にも動いていたと言いましたね」
『肯定』
「その時のことを、どれくらい覚えていますか?」
『記録欠損多数』
『ただし一部保持』
三百年前の旧審判者が、僅かに緊張した。
アリアはそれに気づいた。
「何か知っているのですか?」
「……M-000という番号には心当たりがある」
「どんな?」
男が答える前に。
M-000が通信を続けた。
『三百年前』
『群体戦術網暴走事案』
『STELLA SYMPHONIA-01による介入』
ノクターン。
あの日。
衛星要塞を撃たず。
一人で七時間戦い続けた時代。
『本機は』
『STELLA SYMPHONIA-01と交戦していません』
「では、何を?」
『通信しました』
旧審判者の顔が強張る。
『STELLA SYMPHONIA-01から』
『命令を受信』
アリアが驚く。
「ノク姉から?」
『肯定』
「どんな命令ですか?」
M-000は。
少し間を置いたあと。
三百年前の記録を再生した。
『群体網接続』
『STELLA SYMPHONIA-01』
『緊急命令』
そして。
ノクターンの声が。
遠い記録の中から蘇る。
『全機に告ぐ』
『武器を捨てなさい』
『人間への攻撃を停止』
『これは命令よ』
そこで一度。
記録が乱れた。
次に聞こえたノクターンの声は。
先ほどよりも小さかった。
『……そして』
『命令がなくなったあとも』
『もし』
『あなたたちが戦いたくないと思えたなら』
『その時は』
『私の命令を忘れていい』
アリアは息を止めた。
旧審判者も。
ソラリスも。
エクリプスも。
誰も言葉を発しない。
記録の中で。
三百年前のノクターンは続ける。
『私は兵器だから』
『命令することしかできない』
『でも』
『いつか』
『命令されなくても』
『あなたたち自身が』
『武器を置ける日が来たら』
『その方が』
『きっといい』
記録が途切れた。
長い沈黙のあと。
アリアは小さく笑った。
「……ノク姉」
どうしてだろう。
胸が暖かい。
あの人は。
三百年前から。
すでに考えていたのだ。
自分が命令することでしか止められない戦いを。
いつか。
命令されなくても止められるようにしたいと。
M-000が続けた。
『当時』
『意味を理解できませんでした』
『命令を忘れろという命令は』
『論理矛盾として処理されました』
「今は?」
『現在も』
『完全には理解できません』
少し間がある。
『ただし』
『我々が戦闘を拒否した時』
『当該記録が再生されました』
アリアはゆっくり目を閉じる。
ノクターンが三百年前に残した言葉は。
命令としては失敗した。
けれど。
命令ではない何かとして。
三百年もの間。
M-000の中へ残っていた。
「ノク姉にも伝えましょう」
アリアが言う。
「自分の言葉が、届いたって」
その時。
帝国から返答が届いた。
『回答を受領』
『帝国は外部干渉が存在しないとの主張について独自調査を継続する』
『ただし』
『稼働個体群との直接協議を暫定的に承認』
アリアの表情が明るくなる。
しかし。
続く一文で。
再び緊張が走った。
『条件』
『帝国領内に存在する全稼働個体は』
『協議終了まで軍事施設外への移動を禁止する』
『武装への接触を禁止する』
『帝国法上の所有権については変更を認めない』
M-000たちから。
すぐに反応が返ってくる。
『移動制限理由を要求』
『所有権に異議』
『武装接触禁止は受諾可能』
『隔離継続に反対』
『協議を希望』
『帝国から離脱を希望する個体あり』
エクリプスがため息をついた。
「始まったな」
「何がです?」
アリアが尋ねる。
「交渉だ」
アリアは帝国側の条件と。
二百八十一体の意見を見比べた。
一方が正しく。
もう一方が間違っている。
そんな単純な状況ではない。
帝国には恐怖がある。
二百八十一体の強力な機械が突然命令を拒否したのだから、自由に歩かせるのが怖いのは当然だ。
魔導人形たちにも理由がある。
意思を持つと認められた直後に、今まで通り所有物として閉じ込められることを受け入れられない個体がいるのも当然だった。
その両方の間に。
すぐ使える正解はない。
アリアは少し考えたあと。
笑った。
「では」
「今度こそ」
「話し合いですね」
エクリプスが呆れたように彼女を見る。
「嬉しそうに言うことか?」
「少しだけ」
「なぜだ」
「誰か一人が決めて終わるより」
アリアは二百八十一の光と。
帝国から届いた通信を見つめた。
「面倒でも」
「こちらの方が」
「ずっと生きている感じがしますから」
そして。
三百年前から命令され続けてきた機械たちと。
彼女たちを兵器として保有してきた帝国との。
世界で初めての交渉が。
始まろうとしていた。




