第五十章 反証者は誰にも従わない
白一色だった空間に低い振動が広がり、床も天井も存在しないはずの世界へ、細い亀裂のような赤い光が何本も走った。
原因は明らかだった。本来ならここへ入ることを許されていない存在が、外部から無理やり接続してきたのだ。
白と朱の装甲ローブを纏ったエクリプスは、自分を見据える三百年前の審判者を前にしても一歩も引かなかった。
「私はエクリプスだ」
そう名乗った瞬間、空間そのものが彼を再認識しようとするかのように明滅する。
『外部人格E-07』
『反証者』
『役割逸脱を確認』
『既定行動への復帰を要求』
「断る」
エクリプスは迷いなく答えた。
『反証対象を指定してください』
「だから、それを私に決めさせろと言っている」
『反証者は審判者に対する対抗人格です』
「昔はそうだったらしいな」
『現在も同一です』
「違う。少なくとも、私は違う」
大げさな宣言ではなかったが、アリアには、その一言の中にエクリプスがここまで来る間に失ったものと、得たものの両方が含まれているように感じられた。
三百年前の審判者は、興味深そうに彼を見つめる。
「君は、本来もっと固定された人格だったはずだ」
「人を物みたいに言うな」
「選定記録にはそう残っている。高い自己肯定、高い競争性、権威への低い服従性、効率への強い執着、他者への低い依存……反証者として理想的な人格だった」
「随分と人聞きの悪い紹介だな」
「間違っているか?」
エクリプスは答えなかった。
完全には否定できない。以前の自分なら、むしろその評価を誇らしく思ったかもしれない。
他人へ頼らず、自分の能力だけで上へ進み、必要なら百二十の身体さえ一つの意思で動かす。そこに寂しさがあると認めることも、自分が誰かを必要としていると考えることもなかった。
だが、今は違う。
「記録が古いんだよ」
エクリプスは肩をすくめた。
「人間を選んだ瞬間の情報だけ保存して、その後もずっと同じだと思い込んだ。それがお前たちの最大の間違いじゃないのか?」
三百年前の審判者の表情が、ほんの僅かに変化した。
「人間の基礎人格は大きく変化しない」
「そうか?」
「多少の変動はある。しかし中心的な価値観は――」
「私は変わった」
エクリプスが言葉を重ねるように遮る。
「認めるのは癪だがな」
その赤い瞳が、一瞬だけアリアへ向いた。
「君に歌われて、ノクターンの中で散々な目に遭って、自分が他人へ何をしていたのか嫌でも見せつけられた。そのあと帝国へ戻ってからも考えた。私は何度も考えを変えた」
「それは外部刺激による補正だ」
「それを変化と言うんだろうが」
白い空間が再び軋む。
アリアは思わずエクリプスを見た。
「……それ、ハル姉も言っていました」
「何を?」
「古代システムは、人間が変わっていくことをうまく扱えなかったと」
「なら二号機とは意見が合うな」
「本人に聞いたら嫌がるかもしれませんよ」
「私も嫌だ」
「そこまで嫌がらなくても」
二人のやり取りを見ながら、三百年前の審判者は何も言わなかった。
やがて彼は静かに尋ねる。
「それで、君は彼女に何を反証しに来た?」
エクリプスはアリアを見る。
「まだ分からん」
「え?」
「君が何を選ぶか聞いていない」
「……」
「選ぶ前から反対してどうする」
アリアは少し意外そうに彼を見た。
以前のエクリプスなら、相手の判断を聞く前に自分の答えを押しつけていたかもしれない。だが今の彼は違う。
相手が何を考え、何を選ぶのかをまず聞き、それから自分の考えをぶつけようとしている。
ほんの僅かな違いに見えて、アリアにはそれが決定的な変化に思えた。
三百年前の審判者が手を広げると、二人の前に再び世界の模型が現れた。
争いはなく、病も飢えもなく、誰も泣いていない世界。
「私はアリアへ選択肢を示しているだけだ」
「嘘ですね」
今度はアリアが答えた。
男が彼女を見る。
「何が嘘だ?」
「これは選択肢ではありません。良いところしか見せていないからです」
「何故そう思う?」
アリアは、掌の上に浮かぶ世界へ手を伸ばした。
指先が触れると、穏やかに暮らしていた人々の姿が拡大される。
「この人たちは、本当に幸せなのですか?」
「苦しんではいない」
「質問が違います。この人たちは、自分でここにいたいと思っているのですか?」
男はすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、アリアには十分だった。
「やっぱり」
さらに深く接続すると、美しかった世界の下から別の情報が浮かび上がってくる。
『情動過剰反応抑制』
『対立性人格傾向補正』
『自己破壊行動予測時――意思介入』
『反社会的判断――再学習誘導』
『危険思想伝播率――制限』
一つ、また一つと、穏やかな景色の裏側に隠されていた文字が現れていく。
エクリプスが呆れたように笑った。
「なるほど。随分と綺麗な檻だ」
「檻ではない」
三百年前の審判者は反論した。
「人間は社会の中で常に制約を受けている。法律、教育、倫理、文化。そのすべてが人間の行動を制限している。私がしたのは、それをより正確に、より効率的に行っただけだ」
「だから危険なんですよ」
アリアが静かに答える。
「なぜ?」
「あなたの中では、それらが全部同じだからです」
法律には異議を申し立てられる。教育には反論できる。文化は変化し、倫理も時代によって揺れる。
しかし、このシステムにはそれがない。
正しいと判断したものを人間の心へ直接作用させ、反対しようとする感情そのものを弱めてしまう。
「それでは、あなたが間違っていたとしても、それを指摘する人までいなくなってしまいます」
「間違わなければ問題ない」
「そこです」
アリアの声が少しだけ強くなった。
「どうして、自分が間違わないことを前提にできるのですか?」
その問いに、男は答えなかった。
エクリプスが横から口を挟んだ。
「それなら簡単だ。証明してみろ」
「何を?」
「お前が間違わないことをだ」
「完全性の証明は不可能だ」
「なら終わりじゃないか」
「極めて高い成功率は示せる」
「何%?」
「介入地域における暴力死は九十七・六%減少した。飢餓死は九十九・一%、自死は九十四・二%減少している」
「数字としては立派だな」
「ならば何が問題だ?」
エクリプスの赤い瞳が細くなる。
「その残りについて、お前は何をした?」
「何?」
「誤判定はあったんだろう?」
「統計上避けられない誤差だ」
その答えを聞いた瞬間、アリアの表情が変わった。
エクリプスも笑わなくなる。
「誤差」
アリアが小さく繰り返す。
「人を?」
「個々の事例を軽視しているわけではない。しかし世界規模の判断では――」
「その人にとっては、自分の人生は統計ではありません」
アリアが遮った。
男の姿が一瞬乱れる。
「一人を救うために一万人を危険へ晒すのか?」
「そうは言っていません」
「では一万人を救うためなら、一人を犠牲にできる?」
「それも私一人で決めることではありません」
「またそれか」
「はい」
アリアはまっすぐ答えた。
「何度でも言います」
その頃、現実のミルフィア地下では、ハルモニアが突然顔を上げていた。
「変です」
「今度は何だ?」
アリアの身体を支えていたカレンが尋ねる。
「最終審判領域への接続数が増えています」
「エクリプスが入ったからじゃねえのか?」
「それだけではありません。もう一つ、外から接続しようとしている」
銀色の瞳へ何本もの光が走る。
ノクターンの立体映像も同時に反応した。
「管理者権限」
イレーヌが息を呑む。
「ソラリス?」
『正解』
突然、通信の声が地下へ響いた。
『こちら星詠みの塔。勝手に話を進められているのが非常に気に入らないので、私も入る』
「入れるんですか?」
イレーヌが尋ねる。
『普通なら無理だ。だが今はアリアが最高停止権限を保持したまま領域へ接続されている。彼女の管理経路を逆算すれば――』
そこで通信が一度途切れる。
ノクターンが呟いた。
「無茶するつもりね」
「お前ら、みんな無茶しかしねえな」
カレンが呆れたように言う。
『聞こえているぞ』
「まだ聞こえてんのかよ」
『当然だ』
通信の向こうで、ソラリスが何かを操作する音が聞こえる。
『ハルモニア、審判領域への共鳴路を三秒だけ開け』
「危険です」
『知っている』
「管理者人格が逆流する可能性があります」
『それも知っている』
「コア破損の可能性もあります」
『全部知ってる』
ハルモニアは少し黙り、やがて小さく息を吐いた。
「……本当に、昔から管理者は言うことを聞かない」
『誰の記憶だ、それ』
「秘密です」
『気になるだろうが』
「三秒だけです」
ハルモニアが両手を合わせると、地下全体へ銀色の光が走った。
白い空間。
アリアとエクリプス、三百年前の審判者が向き合っていたその場所へ、突然金色の亀裂が走った。
「今度は何だ」
エクリプスが振り返る。
「まったく、勝手に人のシステムへ侵入する奴ばかりだな」
三百年前の審判者が初めて苛立った声を出す。
亀裂が開き、その向こうから灰色のジャージ姿の少女が落ちてきた。
「うわっ」
着地に失敗し、白い床らしきものへ両手をつく。
アリアが目を瞬いた。
「……ソラリスさん?」
「痛くはないけど、格好悪いなこれ」
金髪の少女は立ち上がると、ジャージの膝を払った。
エクリプスが眉を上げる。
「それが星詠みの塔の主?」
「何だ、その言い方は」
「もっと威厳があると思っていた」
「人の格好に文句を言う前に自分を見ろ、巫女」
「好きで着ているわけではない」
「私も好きでジャージ姿を見られてるわけじゃない」
「着替えろ」
「家ではこれが楽なんだよ」
「ここは家じゃないぞ」
「急だったんだ!」
アリアが思わず吹き出した。
「ふふっ」
二人が同時にアリアを見る。
「何だ」
「何です」
「いえ、少し安心しました」
こんな場所でも、二人はいつも通りだった。
だが、三百年前の審判者だけは、ソラリスを見た瞬間から動かなくなっていた。
「E.O.S-01」
その呼び方に、ソラリスの表情が変わる。
「私のことも知っているのか」
「当然だ」
「現在の機体のことまで?」
「暁型統括制御ユニット。旧文明管理系統の最終世代。その身体は、元々私が使用する可能性も想定されていた」
アリアが驚いてソラリスを見る。
「そうなのですか?」
「初耳だ」
ソラリス本人も本気で驚いていた。
「待て。私が見つけた設計資料にはそんな記載はなかった」
「消したからな」
「誰が?」
「私が」
空気が変わった。
三百年前の審判者は淡々と続ける。
「肉体を失った外部管理者が継続運用するための器として、E.O.S系列は設計された。だが私は最終的に使用しなかった」
「何故だ?」
「封印されたからだ」
ノクターンたちによって。
アリアはそこで理解した。
三百年前のこの人物も、現在のソラリスも、同じ問題へ直面していたのだ。
地球から来た人間であり、古代遺物への高い管理権限を持ち、人間の肉体ではその役目を長く続けられない。
だから、機械の身体へ移る。
「……なるほど」
ソラリスが呟き、自分の手を見つめた。
「私は、お前のために作られた可能性があった機体へ、自分から入ったのか」
「結果的にはそうなる」
アリアはソラリスの横顔を見た。
嫌な予感がする。
三百年前の審判者も、ソラリスも地球から来た人間であり、古代遺物への管理権限を持ち、肉体を失って機械へ移った。
あまりにも似ている。
男は静かに言った。
「君は私の後継だ」
ソラリスの金色の瞳が止まった。
「違います」
答えたのはアリアだった。
三人が彼女を見る。
「何が違う?」
「ソラリスさんは、あなたではありません」
「同じ外部管理者だ」
「役割が同じでも、人は同じではありません」
「しかし彼は、すでに私と同じ道を歩き始めている」
男はソラリスへ目を向ける。
「世界を救うために、他者の意思より自分の判断を優先した経験があるはずだ」
ソラリスが黙る。
「五年前の戦争で、君は管理権限を使って戦局へ介入した」
「……そうだ」
「王国を救うために」
「そうだ」
「誰かに許可を取ったか?」
「取っていない」
アリアがソラリスを見る。
ソラリスは目を逸らさなかった。
「王が知ったのは後だ。あの時は時間がなかった。私が動かなければ王国は崩壊していた」
「正しい判断だった」
三百年前の審判者が言う。
「そうだろう?」
ソラリスは答えない。
「結果として多くを救った。なら、その判断は正しい」
「……結果だけならな」
ソラリスの声が低くなる。
「何?」
「私はずっと、それでいいと思っていた」
金色の瞳がアリアへ向く。
「最近までは」
アリアは黙って彼を見つめる。
「存在させることを先にして、説明は後でいい。生きていれば、あとから選べる。そう考えていた」
その言葉に、アリアの胸の奥が僅かに騒いだ。
何の話をしているのか。
分かってしまった。
「ソラリスさん」
「今ここで話すつもりはなかった」
三百年前の審判者が興味深そうに二人を見る。
「何だ?」
「あなたは黙っていてください」
アリアの声が少しだけ冷たくなる。
ソラリスが苦笑した。
「それ、私にも後で言われそうだな」
「内容次第です」
「……そうだな」
三百年前の審判者が再び問いかける。
「アリア。君は今、自分一人では世界を決めないと言った」
「はい」
「なら、そこにいる管理者はどうだ?」
ソラリスを見る。
「彼もまた、自分の判断で誰かの人生を決めている」
アリアは答えなかった。
「矛盾していると思わないか?」
「思います」
その返事に、ソラリスが僅かに目を伏せる。
「ですが」
アリアは続けた。
「だから話すのです」
「話して何が変わる?」
「私たちが変わります」
エクリプスが小さく笑う。
「さっき私が言ったことを使ったな」
「良い言葉でしたから」
「使用料を取るぞ」
「金貨で?」
「カレンに毒されたな」
ほんの僅かに、張り詰めていた空気が緩んだ。
アリアは改めて三百年前の審判者へ向き直る。
「あなたは、自分の間違いを見つけた時どうしたのですか?」
「修正した」
「誰かに批判された時は?」
「分析した」
「それでも相手が納得しなかった時は?」
「必要なら介入した」
「つまり、最後にはいつもあなたが決めた」
「当然だ。責任者だからな」
「そこが違うのです」
「何が?」
アリアは静かに答えた。
「責任を持つことと、他人の人生を所有することは違います」
その言葉に、男の姿が初めて大きく揺らいだ。
『警告』
白い空間へ突然文字が走る。
『旧審判者人格反応上昇』
『封印解除率――7%』
ソラリスが顔を上げた。
「まずい」
「何が起きています?」
「こいつは単なる記録じゃない」
アリアの表情が変わる。
「生きている?」
「人格データとして、だ」
三百年前の審判者は否定しなかった。
「三百年前から?」
「時間の感覚はほとんどない」
「なら」
アリアが一歩近づく。
「あなたも、選べなかったのではありませんか?」
男の表情が止まった。
「……何を言っている」
「あなたは世界を救う役目を与えられて、それを続けることしかできなかった」
「違う」
「本当に?」
「私は自分で選んだ」
「では、やめようと思ったことはありますか?」
沈黙。
「一度も?」
「……」
「疲れたことは?」
「……」
「誰かに代わってほしいと思ったことは?」
白い空間が大きく揺れた。
エクリプスの目が細くなる。
「そこか」
「何がです?」
「こいつも役割に囚われてる」
三百年前の審判者がエクリプスを睨みつける。
「黙れ」
「図星か」
「黙れ!」
初めて彼が声を荒らげた。
「私は救わなければならなかった!」
白い世界へ、その声が響き渡る。
「私が止めなければ戦争が起きた。私が介入しなければ子供が死んだ。私が治療しなければ人々は病で死んだ。私が――」
その声は怒りというより、悲鳴に近かった。
「私がやらなければ……誰がやる?」
最後の言葉だけは、ひどく小さかった。
アリアには、その問いがどこか分かる気がした。
四十二年間を生きた自分は、むしろ逆だった。
どうせ誰かがやる。
自分ではなくてもいい。
そう思いながら逃げ続けた。
目の前の男は反対だった。
自分がやらなければ誰もできない。
そう思い込み、すべてを一人で背負った。
極端な方向は違っても、どちらも結局は一人だった。
「あなたは」
アリアは静かに言った。
「ずっと一人で決め続けたのですね」
「同情するな」
「していません」
「なら何だ」
「聞いているだけです」
「……」
アリアはもう一度、穏やかに尋ねた。
「あなたは、本当はどうしたかったのですか?」
三百年前の審判者は答えなかった。
いや。
答えられなかった。
* * *
その瞬間、白い空間全体へ新しい表示が現れた。
『最終試験第二段階』
『旧審判者を対象に追加』
『問い』
『救う力を持つ者が』
『その力を手放すことを望んだ場合』
『誰が』
『それを許可しますか』
アリア。
ソラリス。
エクリプス。
そして三百年前の審判者。
四人が同時に表示を見上げた。
最初に口を開いたのはエクリプスだった。
「また随分と性格の悪い問いだな」
ソラリスも苦く笑う。
「作った奴の顔が見たい」
三百年前の審判者は、ゆっくりと顔を上げた。
「……許可?」
その一言を聞いた瞬間、アリアは気づいた。
「違います」
三人が彼女を見る。
「何が?」
「手放すのに、誰かの許可が必要なのがおかしいのです」
表示が一瞬だけ止まる。
『回答を解析』
「与えられた役割なら、それを続けるかどうかも本人が決めるべきです」
『矛盾』
『世界存続に必要な役割の場合』
『離脱を認めれば』
『多数の生命が危険に晒される可能性』
それでもアリアは迷わなかった。
「それでも、一人の人間を世界の部品にしてはいけません」
三百年前の審判者が、ゆっくりとアリアを見る。
その顔に刻まれていた三百年分の確信が、ほんの少しずつ崩れ始めていた。




