第五十一章 役目を継がない者たち
「それでも、一人の人間を世界の部品にしてはいけません」
アリアの言葉が白い空間に静かに響き、三百年前の審判者は何も言わないまま彼女を見つめていた。
怒りも反論もなかった。
ただ、長いあいだ当然だと信じ続けてきたものを初めて疑わされた人間の顔をしていた。
『回答を解析中』
『世界存続に必要な役割の自発的離脱を許可した場合、管理機能の空白が発生』
『管理機能の空白は大規模生命損失へ繋がる可能性』
『代替管理者の選定を推奨』
新たな文字が浮かび上がる。
ソラリスがそれを見て眉を寄せた。
「結局そこへ戻るのか」
「何がです?」
「一人が辞めるなら、次の一人を用意する。役職だけ永久に残す発想だ」
エクリプスも呆れたように鼻を鳴らした。
「人間を交換部品としか見ていない。前任者が壊れれば新品を入れる。実に機械らしい」
『訂正』
『人格交換ではありません』
『最適適性者への役割継承です』
「言い方を変えただけだろ」
エクリプスが即座に切り返すと、システムは返答しなかった。
その時、三百年前の審判者が低い声で尋ねた。
「では、どうする?」
アリアが彼を見る。
「私が降りるなら、誰がこの世界を守る?」
その問いには先ほどまでの確信がなかった。
「私は三百年前、何度も同じ問いを自分にした。やめたいと思った夜もあった。だが、その瞬間にも戦争は続いていたし、病人は死んでいた。私は休めても、世界は休んではくれなかった」
彼は自分の両手を見下ろした。
「だから続けた。最初は一日だけ、次は一月だけ、その次は次の危機が終わるまで……そうして気づけば、やめる理由より続ける理由の方が多くなっていた」
ソラリスの表情が僅かに曇る。
その言葉が他人事ではないのだろう。
「その気持ちは分かる」
「君なら分かるはずだ」
三百年前の審判者がソラリスを見る。
「管理者とはそういうものだ。自分が休めば何かが止まり、自分が判断を放棄すれば誰かが困る。それを知ってしまった人間は、簡単には降りられない」
「だからこそ」
アリアが静かに割って入った。
「一人に任せてはいけないのではないですか?」
男が顔を上げる。
「一人だから休めない。一人だから手放せない。一人だから、自分が間違っていても止まれなくなる」
「では全員で世界を管理するのか?」
「いいえ」
アリアは首を振った。
「世界を管理すること自体を、やめます」
その言葉に、三人が黙った。
エクリプスが最初に笑う。
「大きく出たな」
「そうでしょうか」
「三百年前の文明全体が解けなかった問題に対して、管理をやめると言い切ったんだ。十分大きい」
「でも、何もしないとは言っていません」
アリアは空中に浮かぶ世界を見た。
「助ける仕組みは残す。危険を知らせる仕組みも、緊急時に止める仕組みも残します。でも、それを使うかどうかまで世界の外側から決めない」
ソラリスが目を細める。
「支援と支配を分けるのか」
「はい」
「理屈としては分かる。だが、具体的にはどうする?」
アリアは少し考え、やがてハルモニアが先ほど言った言葉を思い出した。
「繋ぐんです」
「誰を?」
「その場にいる人たちを」
アリアは指先で世界の模型へ触れた。
「戦争が起きたなら、戦っている側だけではなく、そこに住む人、巻き込まれる人、止めたい人、続けたい人、その全員の声が届くようにする。病気なら本人と家族と医師が話せるようにする。古代兵器が動いたなら、その地域の人たちへ危険を知らせる」
「でも最後に決める者は必要だ」
三百年前の審判者が言う。
「決められないまま時間切れになることもある」
「その時だけ、暫定的に誰かが止めます」
アリアはエクリプスを見る。
「期限付きで」
「私の案を採用したか」
「良い案でしたので」
「二度目だな。今度こそ使用料を取る」
「あとでカレンさんに相談してください」
「なぜあの女が会計担当なんだ」
「一番厳しそうなので」
僅かな笑いが生まれたが、すぐにアリアは真剣な表情へ戻った。
「ただし、止めた人がそのまま支配者になることはできない。権限は自動的に消えて、その判断は記録され、あとから関係者が検証できるようにします」
ソラリスが頷く。
「それなら非常時の速度と、恒久支配をある程度切り離せる」
「ある程度?」
「完全には無理だ。一時的でも権限を持つ者は間違える」
「はい」
「悪用もするかもしれない」
「はい」
「なら不完全だ」
アリアは微笑んだ。
「それでいいんです」
三百年前の審判者が眉をひそめる。
「不完全でいい?」
「完全な仕組みにしようとしたから、人間まで仕組みに合わせようとしたのでしょう?」
男が黙る。
「間違ったら直す。うまくいかなければ話し合う。もっと良い方法が見つかったら変える。それができる余地を残しておく方が、最初から絶対に正しいものを作るより安全だと思います」
エクリプスが小さく笑った。
「珍しく機械らしくない結論だな」
「私は歌う機械ですから」
「関係あるのか?」
「たぶん」
その瞬間、白い空間を赤い警告が走った。
『緊急事象』
『ミルフィア地下共鳴網出力上昇』
『情動安定化領域――0.8%から1.4%へ拡大』
アリアの笑みが消える。
「ハル姉のフィールドが?」
ソラリスが即座に情報を読み取った。
「違う。ハルモニア本人が上げているんじゃない。古代システムが自動的に出力を増やしている」
「なぜ?」
『最終審判者不在の可能性を検出』
『社会不安定化予測上昇』
『暫定平和維持措置を開始』
エクリプスの表情が険しくなる。
「随分と分かりやすい脅迫だな」
「脅迫ではない」
三百年前の審判者が反射的に答えた。
「これは安全装置だ」
言った直後。
彼自身が黙った。
アリアが彼を見る。
「今、あなたも気づきましたね」
「……」
「誰も命令していないのに、世界を安定させるために勝手に人の心へ触れている」
男は答えない。
『情動安定化領域――1.6%』
数字がさらに上がる。
現実のミルフィア地下。
カレンは、突然胸の奥から怒りが薄れていくのを感じていた。
「……気持ち悪ぃ」
「カレンさん?」
イレーヌが振り返る。
「今までムカついてたはずなのに、どうでもよくなってきやがった」
声そのものは落ち着いている。
だからこそ不気味だった。
いつもなら荒っぽく吐き捨てるはずの言葉に、力が入らない。
イレーヌも自分の胸へ手を当てる。
「私もです。恐怖反応が低下している……頭では危険だと理解しているのに、焦れない」
ハルモニアが青ざめた。
「出力が上がっています」
「止めろ!」
「私は止めています!」
珍しくハルモニアが強い声を出す。
「でも中央系統が私の権限を迂回している。これは昔の自動安全機構です」
カレンはアリアの身体を支えながら歯を食いしばった。
「自動だろうが何だろうが、勝手に頭ん中いじられてたまるかよ」
「カレンさん」
「何だ」
「今、怒れますか?」
「……」
カレンは答えようとして。
一瞬。
言葉を失った。
怒っているはずなのに。
怒りの熱がない。
「……クソ」
ようやく絞り出す。
「これ、マジで気持ち悪ぃな」
白い審判領域にも、その情報は流れ込んでいた。
『情動安定化領域――1.8%』
『暴力衝動低下』
『不安反応低下』
『社会安定度上昇』
三百年前の審判者は、その数字を見つめていた。
「……効果は出ている」
「そうですね」
アリアは否定しなかった。
「喧嘩は減ります。恐怖も薄れます。苦しい人は少し楽になるかもしれません」
「なら」
「でも」
アリアが続ける。
「嫌だと思う心も薄くなる」
男の表情が止まる。
「今、カレンさんは怒れなくなり始めています」
「怒りは苦痛の原因でもある」
「同時に、自分が何かを嫌だと思っていることを教えてくれる感情でもあります」
ソラリスも画面を睨みながら言う。
「不安も同じだ。過剰なら人を壊すが、危険を避けるためにも必要だ」
エクリプスが肩をすくめた。
「全部弱めれば確かに静かにはなる。死体も静かだがな」
「例えが悪いです」
「分かりやすいだろう」
「カレンさんみたいなことを言いますね」
「やめろ」
『情動安定化領域――2.0%』
数字が上がるたびに、三百年前の審判者の顔から確信が失われていく。
「私は……これを望んだ」
小さな声だった。
「最初は」
誰も口を挟まない。
「戦争で子供が泣いていた。家族を失った人間が復讐を叫び、その復讐でまた別の家族が死んだ。怒りを消せれば、連鎖は止まると思った」
彼は自分の手を見る。
「実際、止まった」
「はい」
アリアは答える。
「だから間違いに気づきにくかった」
男が顔を上げる。
「あなたは、悪い結果を望んだわけではありません」
「慰めるな」
「慰めていません」
アリアは穏やかに続ける。
「良い結果を望んで、良い結果も出た。でも、その代わりに失ったものがあった。それを認めるのは、全部が間違いだったと認めることとは違います」
三百年前の審判者は、長いあいだアリアを見つめていた。
「……君は」
「はい」
「昔のアリアより、面倒だな」
アリアは目を瞬く。
「褒められています?」
「分からない」
「では褒め言葉として受け取ります」
エクリプスが吹き出した。
しかし時間はなかった。
『情動安定化領域――2.3%』
『ミルフィア市街へ到達』
アリアの表情が変わる。
「市街へ?」
ソラリスが即座に接続先を切り替える。
「まずい。地下だけじゃない。地上へ漏れ始めている」
アリアの脳裏に、真っ先に一人の少女が浮かんだ。
「リーゼ」
ミルフィア。
マルタの家。
リーゼは窓際に座っていた。
外では子供たちが遊んでいる。
いつもなら誰かが転べば笑い声が上がり、喧嘩が始まれば誰かが泣き、マルタが大声で叱る。
だが今日は。
妙に静かだった。
「……変」
リーゼは呟く。
胸の中が軽い。
あの頃のことを思い出しても、いつものように苦しくならない。
暗い部屋。
鎖。
怖い声。
逃げられない日々。
それを思い出しても。
痛くない。
「……」
本来なら。
楽なはずだった。
何度も。
こんな記憶が消えればいいと思った。
夜中に目を覚まして震えることもなくなる。
夢の中で昔へ戻ることもなくなる。
でも。
リーゼは胸を押さえた。
何かが。
おかしい。
あの記憶の中には。
もう一つ。
大切なものがある。
暗闇の中へ差し込んだ光。
自分へ伸ばされた白い手。
『大丈夫です』
『もう一人ではありません』
アリアの声。
その時。
自分がどれほど怖かったか。
どれほど嬉しかったか。
それまで薄くなり始めている。
「嫌」
リーゼは立ち上がった。
マルタが振り返る。
「どうしたんだい?」
「嫌」
「リーゼ?」
「これ、嫌」
理由は分からない。
でも。
嫌だ。
その感情だけを。
必死に握りしめる。
「忘れたくない」
白い空間。
アリアの耳に。
小さな声が届いた。
『忘れたくない』
「……リーゼ」
誰も聞こえていないはずの声。
だが。
アリアには届いた。
歌で繋がった。
小さな心の声。
「リーゼが」
「何だ?」
ソラリスが振り返る。
「嫌だと言っています」
三百年前の審判者が僅かに目を見開く。
「安定化処理に?」
「はい」
アリアは目を閉じる。
リーゼの記憶。
怖かった過去。
苦しい夜。
消せるなら。
消してあげたいと思ったことはある。
今でも。
そう思う自分はいる。
だが。
『忘れたくない』
その言葉が。
答えだった。
「あなたが言っていたこと」
アリアは三百年前の審判者を見る。
「少しだけ分かります」
「何が?」
「苦しいものを取ってあげたくなる気持ちです」
「なら――」
「でも」
アリアは微笑んだ。
「取っていいかどうかは、本人に聞かなければいけない」
そして。
青い瞳が強く輝く。
「リーゼは嫌だと言っています」
『情動安定化領域――2.5%』
『拡大継続』
アリアは空中に浮かぶ最高停止権限へ手を伸ばした。
「ソラリスさん」
「聞いている」
「書き換えを始めます」
「まだ構造が完成していない」
「完全になるまで待っていたら、もっと広がります」
「それはそうだが」
「暫定でいいんです」
ソラリスが一瞬黙り。
やがて笑った。
「……なるほど」
「何です?」
「さっき自分で言ったことを、もう実践するのか」
「はい」
「不完全な状態で?」
「あとから直します」
エクリプスが笑う。
「ようやく話が早くなってきた」
三百年前の審判者は。
そんな三人を見ていた。
「失敗するかもしれない」
「しますよ」
アリアはあっさり答える。
「するのか」
「たぶん」
「それで世界を変えるつもりか?」
「だから」
アリアは彼へ手を差し出した。
「一緒に直してください」
男の瞳が止まった。
「……私が?」
「あなたは三百年間、このシステムを一番よく知っているのでしょう?」
「私は失敗した」
「だからです」
「意味が分からない」
「失敗した人しか知っていないこともあります」
アリアの手は。
差し出されたままだった。
「でも」
続ける。
「決めるのは一人ではありません」
三百年前の審判者は。
長いあいだ。
その手を見つめていた。
世界を支配する権限ではない。
世界を救う義務でもない。
ただ。
一緒に考えてほしい。
それだけの手。
「……私は」
男が呟く。
「審判者ではなくてもいいのか?」
「はい」
「管理者でなくても?」
「はい」
「世界を救わなくても?」
アリアは少し考えた。
「救いたい時は、手伝ってください」
男の顔が。
僅かに歪んだ。
笑ったのか。
泣いたのか。
本人にも分からなかったのかもしれない。
やがて。
三百年前の審判者は。
ゆっくりと。
アリアの手を取った。
その瞬間。
古代システム全体に。
今まで一度も記録されたことのない文字が浮かび上がった。
『旧審判者』
『役割離脱を自己申請』
『後継審判者――指定なし』
『世界管理中枢』
『恒久空席化を検討』
ソラリスが目を見開く。
エクリプスは笑った。
「ようやくか」
そしてアリアは。
差し出した手を握り返しながら。
静かに言った。
「では」
「審判者のいない世界を」
「始めましょう」




