第四十九章(続き) 権限を手放す者
そこは白い空間だった。
床と天井の区別さえなく、どこまで続いているのかも分からない。
その中央に、一人の人物が立っていた。
男のようにも見える。
しかし次の瞬間には女にも見え、若者だった姿が老人へ変わり、白衣、軍服、礼服、そして見慣れない現代風の衣服が幾重にも重なって揺らめいている。
「……あなたは?」
アリアが問いかけると、人影は微笑んだ。
「やっと会えた」
その声には聞き覚えがあった。
先ほど封印領域の奥から響いた声。
『今度の審判者は何を選ぶ?』
あの声だ。
「三百年前の外部管理者?」
「そう呼ばれていた時期もある」
「地球から来た人?」
「そうだった時期もある」
妙な答えだった。
アリアは警戒を解かずに尋ねる。
「名前は?」
「必要か?」
「ないと呼びにくいです」
「相変わらずだな」
その一言で、アリアの演算回路が一瞬停止した。
「……相変わらず?」
人影は懐かしいものを見るように微笑んだ。
「昔のお前も、最初に同じことを聞いた」
「私を知っているのですか?」
「正確には、お前ではない」
人影は静かに首を振る。
「アリアを知っている」
アリアの胸の奥で何かが軋んだ。
「昔の……私を?」
「知っている」
「ノク姉も?」
「知っている」
「ハル姉もですか?」
「もちろん。三人ともよく知っている」
声には僅かな懐かしさすら混じっていた。
「そして三人とも、私の計画を壊した」
アリアの目が細くなる。
「あなたが世界を管理しようとした人ですか?」
「管理?」
人影は少しだけ笑った。
「そんなつもりはなかった」
「では、何を?」
「救おうとした」
その答えに、アリアはすぐには言葉を返せなかった。
「私は三百年前にこの世界へ来た。君たちと同じように、本来なら死ぬはずだった人間として」
その言葉に、アリアの中に残る『俺』の記憶が反応する。
「日本人だったのですか?」
「そうだ」
「何歳でした?」
「三十九」
「死因は?」
「交通事故だ」
「仕事は?」
「医師だった」
そこで、アリアは少し驚いた。
「医師……」
「人を救う仕事だ。少なくとも、私はそう考えていた」
白い空間へ映像が浮かび上がる。
病院。
手術室。
血。
泣き崩れる家族。
救われた患者と、救えなかった患者。
「人は正しい判断ができない。恐怖や怒り、無知や欲望によって、何度でも自分自身を傷つける」
アリアは黙って聞いていた。
「治療を拒む患者もいた。薬を飲まない者もいた。手術を怖がり、助かる可能性があるにもかかわらず自分でそれを捨てようとする者もいた。私はずっと疑問に思っていたんだ。医者が正しい治療を知っているのなら、本人の意思より命を優先するべきではないのか、と」
アリアの青い瞳が僅かに揺れる。
「そしてこの世界へ来た私は、それを実行できる力を与えられた」
「最初は、本当に多くの人を救ったんだ」
白い空間に、いくつもの光景が映し出される。
戦争。
疫病。
飢餓。
魔導人形。
古代兵器。
「争いが起きれば武器を止めた。病人が治療を拒めば強制的に治療した。飢えが広がれば食料を再配分し、反乱が起これば感情を鎮めた。自ら命を絶とうとする者には意思抑制さえ行った」
アリアの表情から、少しずつ色が消えていく。
「それは、本当に助けたと言えるのですか?」
「生きた」
男は迷いなく答えた。
「多くの人間が死なずに済んだ」
「でも、その人たちは選べなかった」
「選択より命の方が重要だ」
「それをあなたが決めた」
「そうだ」
三百年前から、その考えは変わっていない。
「私は、君より多くの人間を救った」
アリアは何も言わなかった。
すると男は続ける。
「あの病院の少女も、私なら転移させた」
その言葉で、アリアの瞳が鋭くなる。
「母親とは離れることになっただろう。それでも、生きることはできた。だが君は本人の選択を尊重し、その結果として少女を死なせた」
白い空間が静まり返る。
その言葉は、アリアの中へ深く刺さった。
少女が死んだことは事実だった。
自分が「ここに残る」という選択を認めた結果、少女は母親の腕の中で死んだ。
「どうだ?」
男が静かに問いかける。
「それでもまだ、本人に選ばせるべきだと言えるのか?」
アリアはゆっくり目を閉じた。
母親に抱かれた少女。
『ここにいる』
そう答えた声。
そして最期に浮かべた、ほんの僅かな笑顔。
アリアは再び目を開いた。
「……はい。言えます」
男の表情が止まる。
「何故だ?」
「私には、あの子の死が正しかったとは言えないからです」
「矛盾している。ならば救うべきだった」
「それも私には言えません」
「何故?」
アリアは真っ直ぐに男を見つめた。
「それを決めるのは、あなたでも私でもないからです」
男は初めて笑みを消した。
「……昔のアリアも、似たようなことを言った」
「昔の私は、あなたを止めたのですか?」
「ああ」
「どうやって?」
男は僅かに目を細めた。
「三人で、私から世界を奪った」
「世界を?」
「世界そのものではない。管理権をだ」
ノクターン。
ハルモニア。
アリア。
「一号機は兵器網を封じ、二号機は共鳴網を切断し、三号機は人々の心を私から取り戻した」
男は目の前のアリアを見つめる。
その視線には、怒りだけではなく、長い年月を経た奇妙な感情が混ざっていた。
「だから、あなたは三百年間ここにいた?」
「封印されていた」
「誰に?」
男は静かに笑った。
「君たちにだ」
そして少し間を置き、さらに続けた。
「正確には、君自身に」
アリアの青い瞳が大きく見開かれた。
現実のミルフィア地下では、アリアの身体が立ったまま動きを止めていた。
「アリア!」
カレンが駆け寄って肩を掴む。
「おい、聞こえてんのか!」
「意識反応がありません」
イレーヌが焦った声を上げる。
「いいえ、意識そのものはあります」
ハルモニアがアリアの胸へ手を当てた。
「ただ、ここではない場所へ接続されている」
「どこだ?」
「……最終試験の内部です」
その直後、ノクターンの立体映像が大きく乱れた。
「まずい」
「何がです?」
「アリアが……彼と会っている」
「彼?」
カレンが問い返すと、ノクターンの表情には珍しく明確な恐怖が浮かんでいた。
「三百年前に、私たちが最初に封印した審判者よ」
一方、帝国地下。
エクリプスが宿る巫女型魔導人形にも、同じ瞬間に警告が表示されていた。
『旧審判者接続を確認』
『E-07へ反証要求』
「……なるほど」
エクリプスはゆっくりと立ち上がった。
朱色の腰部装甲が静かに重なり、巫女装束の長袖を思わせる白い腕部装甲がその動きに合わせて揺れる。
『対象――A.R.I.A-03』
『対象――旧審判者』
『どちらを反証しますか』
エクリプスは赤い瞳を細めた。
「両方だ」
『意味不明』
「アリアが間違えればアリアを否定する。三百年前の男が間違えているなら、そいつも否定する」
『一方を選択してください』
「断る」
『反証者として不適合』
「知るか」
白磁のように端正な顔に、僅かな笑みが浮かぶ。
「私はもう、お前たちに反対する相手まで決めてもらうつもりはない」
額の乳白色の宝珠が強く輝いた。
『巫女型』
『独立接続要求』
『接続先――最終審判領域』
『警告』
『許可されていません』
「なら――」
エクリプスは笑う。
「侵入する」
かつてノクターンへ行ったのと同じことだった。
ただし、今度は奪うためではない。
「借りを返しに行こうか」
次の瞬間、赤と白の巫女型魔導人形の姿が光へ溶けるように消えていった。
白い空間。
三百年前の審判者とアリアが、互いに向き合っていた。
男が静かに手を差し出す。
「アリア。今度こそ、間違えないようにしよう」
その掌の上に、小さな世界が浮かび上がった。
争いがある。
病がある。
涙があり、死がある。
しかし男が指を動かすたび、それらは一つずつ消えていった。
「私と君なら救える。ノクターンの力、ハルモニアの接続、君の歌、ソラリスの管理権限。そのすべてを統合すれば、誰も苦しまない世界を作れる」
アリアは、その光景を見つめた。
本当に美しい世界だった。
誰も泣いていない。
誰も争っていない。
リーゼはもう悪夢を見ず、カレンが戦いで傷つくこともなく、マルタも大切な誰かを失わない。
もう誰も苦しまない。
「どうだ?」
男が尋ねる。
「欲しくないか?」
アリアが答えようとした、その瞬間だった。
白一色だった空間を、鋭い赤い線が切り裂いた。
「話が長い」
聞き覚えのある声。
アリアが目を見開く。
白と朱で構成された巫女装束のような装甲ローブ。その上には白磁のような静かな顔と、深く透き通った赤い瞳がある。
「……エクリプス?」
「邪魔するぞ」
「どうしてここに?」
「侵入した」
「簡単に言いますね」
「得意分野だからな」
三百年前の審判者が、初めてエクリプスへ目を向けた。
「E-07」
「その呼び方はやめろ」
「反証者」
「それもだ」
エクリプスは男を正面から睨み返す。
「私はエクリプスだ」
その瞬間、白い空間そのものが僅かに軋み、
まるで長い間固定されていた何かが、
初めて予定外の形へ動き始めたかのような低い振動が響いた。




