第四十九章 権限を手放す者
『審判権限は不可逆です』
青白い文字が地下空間を埋め尽くした。それは警告というより、すでに決定された事実を告げる宣告のようだった。
アリアの内部には、世界各地に存在する兵器群へと繋がる膨大な経路がすでに流れ込んでいた。地下深くで眠り続ける古代兵器、都市防衛用の自律機械、帝国に残された魔導人形、王国側さえ存在を把握していない封鎖施設、そして遥か上空の静止衛星軌道を巡り続ける衛星要塞。
今のアリアなら、そのすべてに対して停止命令を送ることができる。
恐ろしいほど簡単に。
「これが……最高停止権限」
自分の右手を見つめながら、アリアは呟いた。
見た目には何も変わっていない。細い指も白い人工皮膚も、歌うために作られた手であることも変わらない。それなのに今、この指一本で世界中の兵器を沈黙させることができる。
「気分はどうだ?」
隣からカレンが尋ねた。
「最悪です」
「そりゃ結構」
「結構なのですか?」
「気分がいいなんて言い出したら、その場で殴ってたところだ」
「それは怖いですね」
「今のお前の方がよっぽど怖えよ」
冗談めかした言葉だったが、カレンの目は笑っていなかった。その視線を受けてアリアは僅かに笑うと、再び空中に浮かぶ表示へ向き直った。
「ソラリスさん。書き換えられそうですか?」
『聞こえている。今調べているところだ』
通信の向こうでは、おそらく何十枚もの演算画面を同時に展開しているのだろう。僅かな間を置いて、ソラリスが続けた。
『権限そのものには触れられない。所有者を指定している部分は完全に封鎖されている』
「では、無理なのですか?」
『いや。権限の所有者は固定されているが、その権限を行使するための条件までは固定されていない』
その言葉に、アリアの青い瞳が僅かに明るくなった。
「条件?」
『たとえば今のお前は、自分一人の判断だけで世界中の兵器を停止できる。その部分を書き換える』
イレーヌがすぐに反応した。
「多重承認制ですか?」
『それに近い。ただし単純に複数人の鍵を用意するだけでは意味がない。三人の管理者が結託すれば、結局は少数者による支配になる』
「なら、どうすんだ?」
カレンの問いに、ソラリスはすぐには答えなかった。
代わりに口を開いたのはハルモニアだった。
「分散させるの」
全員の視線が彼女へ集まる。
「権限を人に分けるのではなく、判断そのものを分けるのです」
「どういうことです?」
アリアが尋ねると、ハルモニアは少し考えてから答えた。
「誰か一人が『止める』と決めるのではなく、その兵器に関係する人たちの意思を集める。使う人、使われる人、守られる人、巻き込まれる人……それぞれの意思を繋いで、その上でシステムへ命令ではなく選択肢を返すのです」
アリアは黙ってその言葉を受け止めた。
それは、自分たちがずっと探し続けていたものに近い。
誰か一人がすべてを決めるのではない。しかし、誰も何も決めないわけでもない。
「集合意思決定モデル……」
イレーヌが呟いた。
先ほど古代システムが表示していた言葉が、アリアの脳裏にも蘇る。
『集合意思決定モデル』
『禁則領域解除準備』
「昔、本当に存在していたのですね」
アリアが尋ねると、ハルモニアは静かに頷いた。
「はい。でも、封印されました」
「なぜです?」
「遅かったからです」
「遅い?」
「人の意見を聞くから」
横で聞いていたカレンが、なるほどという顔で眉を寄せる。
「そりゃまあ、そうなるわな」
「特に緊急時には致命的でした。一秒で決めなければならないことを十人、百人、千人へ確認していたら間に合わない。だから当時の研究者たちは、もっと簡単な答えを選んだのです」
ハルモニアは一度目を伏せた。
「正しい者が、代わりに決めた方が早い、と」
その言葉だけが、地下空間へ重く残った。
「また……そこへ戻るのですね」
アリアが呟く。
「ええ。効率と自由の問題です」
イレーヌも静かに答えた。
* * *
『実にくだらない』
突然、エクリプスの通信窓から乾いた笑いが聞こえた。
「何がです?」
『二択にするからだ。一人に決めさせるか、全員に聞くか、その二つしか方法がないと思っている』
エクリプスは巫女型魔導人形の白い頬へ指を添え、どこか退屈そうな表情で続けた。
「では、あなたならどうします?」
『条件を分ける』
今度はソラリスが反応した。
『説明しろ』
『通常時は分散させる。ただし緊急時だけ、暫定的な権限を認めればいい』
「暫定的?」
『期限付きという意味だ。誰かが一時的に兵器を止めることは認める。ただし、その権限は一定時間が経過すれば自動的に失効する。そして後から、その判断が本当に必要だったのか必ず検証する』
カレンが腕を組みながら言った。
「つまり火事が起きたら、まず水をぶっかける。でも後になってから、本当にそれでよかったのか皆で話すってことか」
『かなり雑だが、おおむねそういうことだ』
「誰が雑だ」
『説明が』
「てめえ」
二人のやり取りに、アリアは思わず小さく笑った。しかしエクリプスの提案そのものは、冗談で済ませられる内容ではない。
「つまり、永続的な支配権を持つ人はいない」
『そうだ』
「それでも緊急時には、誰かが即座に動ける」
『ただし、その者は後から必ず責任を負う』
そこまで言ったところで、エクリプス自身が僅かに黙った。
アリアはその変化を見逃さなかった。
彼は帝国へ戻った。自分が何をしたのかを話し、その結果を引き受けるために。
以前の彼なら、こんな言葉を口にしなかったかもしれない。
「変わりましたね」
『その台詞、さっきソラリスにも言っていただろう』
「皆さん変わっていくので」
『君は変わらないのか?』
アリアは少し考えてから答える。
「私も変わっていると思います」
『自覚がないのが一番厄介だな』
「失礼ですね」
『褒めている』
「そうは聞こえません」
* * *
そこへ、ソラリスが再び口を挟んだ。
『理論構造は組める』
「本当ですか?」
『ただし、ひとつ問題がある。最初の書き換えだけは、お前自身の最高停止権限を使わなければならない』
アリアの表情が引き締まる。
『つまり今この瞬間だけは、世界中の兵器を支配する権利がお前一人にある。そして、お前が望むなら、そのまま保持し続けることもできる』
誰もすぐには言葉を発しなかった。
アリアは目を閉じる。
もし、自分が「やはりこの力は持っていた方がいい」と思ったら、誰にも止められない。
ノクターンも、ハルモニアも、ソラリスも、エクリプスも、カレンも、リーゼも。
誰一人として、自分へ命令することはできない。
この力があれば世界中の戦争を止められる。王国も帝国も関係ない。人間が再び間違えたとしても、そのたびに自分が止めればいい。
――俺ならどうした?
胸の奥で、四十二年間を生きた男の記憶が静かに問いかけてくる。
もし昔の自分が、こんな力を与えられていたら。
おそらく、持っていたかもしれない。
誰かを傷つけたいからではない。
善意からだ。
少なくとも自分なら悪いことには使わない、自分が持っている方が安全だ。そんな理屈を並べながら、いつの間にか手放せなくなっていたかもしれない。
「……怖いですね」
アリアが呟くと、カレンが横を向いた。
「何がだ?」
「正しいことができそうな力ほど、手放したくなくなることがです」
カレンはあっさりと頷いた。
「そりゃそうだろ」
「否定しないのですか?」
「何で否定するんだよ。私だって金貨百枚持ってりゃ手放したくねえよ」
「比較対象が金貨なのですね」
「分かりやすいだろ」
「はい」
「だったらよ」
カレンは少しだけ真面目な顔になる。
「手放したくねえからこそ、手放すんじゃねえのか?」
アリアが振り返った。
「欲しくもねえものを捨てたって、大した意味はねえだろ」
あまりにも単純な言葉だった。
けれど、その単純さがアリアの胸へ真っ直ぐ届いた。
* * *
「ソラリスさん」
『何だ』
「書き換えます」
『……了解した』
「ノク姉」
「衛星要塞を含む兵器ネットワークの接続を維持するわ」
「ハル姉」
「各地域の意思接続経路を開きます」
「イレーヌさん」
「私は?」
「記録してください」
「記録?」
「はい。私たちが今から何をしたのかを、あとで都合よく書き換えられないように」
その言葉に、イレーヌの表情が変わった。
研究者として、そしてかつてステラ・シンフォニアの開発側にいた者の記憶を持つ存在として、その意味を誰よりよく理解したのだろう。
「……承知しました。すべて残します」
アリアは次にカレンを見た。
「カレンさん」
「おう」
「見ていてください」
「それだけか?」
「はい」
「ずいぶん楽な役だな」
「一番大事です」
カレンは一瞬だけ黙り、それから小さく息を吐いた。
「……分かったよ。ちゃんと見ててやる」
最後にアリアは、帝国地下から接続しているエクリプスへ目を向けた。
「エクリプス」
『何だ』
「もし私が、この権限を手放さなかったら」
『私に止めてほしいのか?』
「はい」
エクリプスは間髪を入れずに答えた。
『喜んで』
「即答ですね」
『反証者だからな』
「その役割は拒否したのでは?」
『義務として誰かへ反対することをやめただけだ。自分の意思で君に反対する自由まで捨てた覚えはない』
赤い瞳が鋭く細められる。
アリアは満足そうに頷いた。
「それなら、お願いします」
『権限構造変更要求』
『要求者――A.R.I.A-03』
『最高停止権限所有者』
『変更内容を提示』
アリアは一つずつ、自分の考えを言葉にしていった。
「第一。恒久的な単独最高権限を廃止します」
『拒否』
「第二。兵器停止権限を、対象地域ごとの分散承認制へ移行します」
『拒否』
「第三。生命に対する即時の危険が発生した場合に限り、一時的な緊急停止を許可します」
『条件を提示』
「有効期限を設定し、期限終了後は自動的に失効させます」
今度は返答がなかった。
「第四。緊急停止を行った者は、その判断理由を必ず記録し、関係者へ開示します。第五。停止された側にも異議を申し立てる権利を認めます。そして第六」
アリアは一度息を整えるように間を置いた。
「すべての意思決定に、本人選択権を優先項目として組み込みます」
『矛盾』
古代システムが即座に反応した。
『本人意思を優先した場合、救命効率低下』
『戦争抑止成功率低下』
『集団存続率低下の可能性』
「分かっています」
『それでも実行しますか』
「はい」
『理由を提示』
アリアはすぐには答えなかった。
病院で母親の手を握りながら、最後までこの世界に残ることを選んだ少女。
リーゼ。
カレン。
マルタ。
イレーヌ。
ミア。
ヘレナとニコ親子。
ノクターン。
ハルモニア。
ソラリス。
エクリプス。
そして自分自身。
誰もが違う。
違うからこそ、生きている。
「世界は、正しい答えだけを出すために存在しているわけではありません」
『説明不足』
「間違えることもあります。あとになって選び直すことも、後悔することも、誰かと話して意見を変えることもある。それでも自分で選びながら生きていく、それ自体に意味があると思います」
ハルモニアの銀色の瞳が僅かに揺れた。
「それらを全部なくして、生存する確率だけを最大にした世界を、本当に生きている世界と呼べるのでしょうか」
長い沈黙が流れた。
『回答を解析中』
突然、アリアの視界が暗転した。
「アリア!」
遠くでカレンの声が聞こえる。
意識はある。
だが、身体から急速に引き離されていく。
そして次の瞬間、アリアは見知らぬ場所に立っていた。




