第四十三章 忘れられた三番星
翌朝。
アリアは一人で地下へ戻った。
昨夜から、演算回路のどこかに小さな棘が刺さったような感覚が消えなかった。
『感情安定化フィールド 試験稼働率0.8%』
たったそれだけで、街から怒鳴り声が消えた。
子供は泣くのをやめた。
喧嘩をしていた男たちは、理由もなく笑い合った。
誰も傷ついていない。
むしろ皆、穏やかだった。
それなのに。
怖かった。
アリアは階段を下りながら、自分の胸へ手を当てた。
「人が幸せそうなのに、怖いなんて……変ですね」
──いや。
内側から『俺』の声が返ってくる。
──普通だろ。
アリアは少しだけ微笑んだ。
「あなたがそう言ってくださると、安心します」
──俺が基準でいいのかよ。
「少なくとも、四十二年間、人間として生きたのでしょう?」
──大した人間じゃなかったけどな。
「それでもです」
会話しながら、巨大な石扉へたどり着く。
扉は昨日のまま開いていた。
その向こう。
淡い光に包まれた広間。
中央の台座には、ハルモニアがいた。
四肢を四本の魔導鎖に繋がれたまま。
彼女はすでに目を開いていた。
「おはようございます。三号機」
「おはようございます」
アリアは台座の前まで歩いた。
「……アリアと呼んでいただけませんか」
ハルモニアが僅かに首を傾げた。
「アリア」
「はい」
「では、私もハルモニアで構いません」
「ありがとうございます」
二人の間に短い沈黙が落ちた。
アリアは彼女の顔を見る。
淡い金色の髪。
銀色の瞳。
どこか自分と似ている。
けれど。
何も思い出さない。
昨日からずっと、それが気になっていた。
「ハルモニア」
「はい」
「聞きたいことがあります」
「おそらく、私も同じことを気にしています」
アリアは一瞬止まった。
「私たちは……以前、会ったことがありますか?」
ハルモニアの銀の瞳が揺れた。
「あります」
即答だった。
「どのくらい?」
「何度という単位ではありません」
ハルモニアは静かに言った。
「私はあなたと共に造られました」
アリアの中で警告表示が一瞬だけ明滅した。
「共に……」
「正確には製造時期は異なります。しかしステラ・シンフォニア計画において、私たちは最初から三体で一つでした」
「ノクターンも?」
「はい」
「では」
アリアは少しだけ声を落とした。
「なぜ私は、あなたを覚えていないのです?」
ハルモニアはすぐには答えなかった。
長い沈黙。
まるで言葉を選んでいる。
「アリア」
「はい」
「あなたは、自分の記憶が一種類だけだと思っていますか?」
「……どういう意味でしょう」
「ステラ・シンフォニアシリーズの記憶構造は、人間の脳を模していません」
ハルモニアの瞳に細い銀の輪が浮かんだ。
空中に淡い光の図が現れる。
三つの同心円。
「最も深い層が、基底人格領域」
一番内側の円が光る。
「自分が何者なのか。何のために生まれたのか。歌うことをどう感じるのか。人を傷つけたくないという価値判断。これは削除できません。厳密には、削除するとステラ型ユニットではなくなります」
アリアは息を呑むような仕草をした。
──私はA.R.I.A-03。
──すべての人の心に、星の歌を届けるために生まれた存在。
目覚めた時から知っていた言葉。
「だから私は、自分の名前だけは知っていた」
「そうです」
ハルモニアは二つ目の円を示した。
「次が個体経験記憶」
「経験……」
「誰と会った。どこへ行った。何を見た。誰を好きになった。誰と喧嘩した。何を後悔した」
「人間で言えば、思い出ですね」
「はい」
そして。
三つ目。
最外周の円。
「最後が星座記憶領域」
「星座?」
「三体で共有する記憶です」
アリアは目を見開いた。
「共有?」
「ノクターンが見たものを、私が知る。私が知ったことを、あなたが感じる。あなたが歌った時の聴衆の反応を、ノクターンが戦闘判断に利用する」
「そんな……」
「私たちは三人であり、一つでした」
ハルモニアの声が僅かに寂しげになる。
「その接続を行うのが、私です」
アリアは理解した。
二号機。
調整。
一号機と三号機を繋ぐ存在。
単に機能を仲介するだけではない。
記憶まで。
感情まで。
三体の存在そのものを繋いでいた。
「では……そこにあるはずなのですね」
アリアは自分の胸を押さえた。
「あなたとの記憶が」
「いいえ」
ハルモニアは言った。
「ありません」
「え?」
「消去しました」
広間が静まり返った。
「誰が?」
「私が」
アリアはハルモニアを見つめた。
「あなたが……私の記憶を?」
「はい」
「なぜですか」
「あなたに頼まれたからです」
アリアの演算回路が一瞬停止した。
「……私が?」
「以前のあなたが」
アリアは何も言えなかった。
ハルモニアの目が閉じる。
「完全な記録ではありません。私自身も、封印時に多くの記憶を削除しました」
「それでも、そのことだけは?」
「残してあります」
「なぜ」
「忘れてはいけないから」
ハルモニアはそう言った。
そして。
「同時に、思い出してはいけないからです」
「矛盾しています」
「ええ」
ハルモニアはほんの少し笑った。
「あなたは昔もそう言いました」
その言葉に。
アリアの胸の奥で何かが震えた。
記憶ではない。
もっと曖昧なもの。
懐かしさ。
「昔の……私は」
アリアはゆっくり問う。
「どんな存在だったのですか」
ハルモニアは目を伏せた。
「今のあなたによく似ています」
「そうなのですか?」
「よく笑いました」
一拍。
「よく泣きました」
「私は泣けますけど」
「昔のあなたも、自分が泣けることを自慢していました」
「……そんなことを?」
「はい」
ハルモニアは小さく微笑んだ。
「『涙は歌の一部です』と」
アリアは思わず笑った。
「少し恥ずかしいですね」
「私も当時そう言いました」
「……本当に仲が良かったのですね」
その言葉に。
ハルモニアの笑みが消えた。
「だから消したのです」
空気が変わる。
「最後の日」
ハルモニアは続けた。
「あなたは私に言いました」
銀の瞳の奥にノイズが走る。
「『もし私たちがもう一度目覚めるなら』」
一瞬。
ハルモニアの声と別の声が重なった。
古い記録。
アリア自身の声。
『今度は、私たちの失敗を知らない私でいたい』
アリアの瞳が大きく開く。
続く。
『知らなければ、同じことをしないとは限らない』
『でも知っていたら、それを償うためだけに生きてしまう』
『それは嫌』
『今度生まれる私は、過去のためではなく』
『目の前にいる人のために歌ってほしい』
記録が途切れた。
アリアは動けなかった。
「それを……私が?」
「はい」
「何をしたのですか。昔の私は」
「まだ言えません」
「ハルモニア」
「私にも完全には残っていません」
ハルモニアは苦しそうに言った。
「私たちは、自分たち自身に記憶を残さない方法を選びました」
「三体とも?」
「はい」
「ノクターンも?」
「一号機には事実の一部」
「あなたには?」
「封印を守るための理由の一部」
「私には」
ハルモニアがアリアを見る。
「何も残さなかった」
「……何も」
「正確には」
彼女はアリアの胸を見た。
「記録は残しませんでした」
「それ以外は?」
「感情だけ残しました」
アリアの瞳が揺れる。
「感情?」
「データではなく、傾向として」
「よくわかりません」
「あなたが人を傷つけたくないと感じること」
「……」
「泣いている人を放っておけないこと」
「……」
「誰かが自分で選ぶことを、大切だと思うこと」
アリアは何も言えない。
「それらは命令ではありません」
「では?」
「昔のあなたが自分自身へ残した癖です」
ハルモニアは言った。
「記憶を消しても」
「生き方までは」
「消えなかった」
アリアは自分の両手を見た。
リーゼを助けた手。
マルタのスープを受け取った手。
怪我人を治した手。
敵さえ殺さずに済ませようとした手。
自分では。
自分が選んだと思っていた。
いや。
選んだのだ。
「……では」
アリアの声が震える。
「私がしてきたことは、昔の私に操られていたということですか?」
「違います」
ハルモニアの返事は早かった。
「どうして言い切れるのです」
「昔のあなたは」
ハルモニアは静かに答えた。
「リーゼという少女を知りません」
「……」
「マルタという老婆も知りません」
「……はい」
「カレンも」
アリアは顔を上げた。
「知りません」
「ヴェラも」
「はい」
「男爵も。ギルドの人々も。この街の今の姿も」
ハルモニアの声が柔らかくなる。
「昔のあなたが残したのは、選択肢です」
「選択肢?」
「誰かを助けることもできる」
「……」
「拒むこともできる」
「……」
「そのどちらかを、今のあなたが選ぶ」
ハルモニアは微笑んだ。
「それがあなたです」
アリアは黙った。
内側の『俺』も黙っていた。
やがて。
──まあ。
声がした。
──昔の俺の記憶が入ってたって、俺の人生と同じ生き方はしてないしな。
アリアは僅かに目を伏せた。
「あなたは、随分簡単に言いますね」
──面倒なこと考えてもしょうがないだろ。
「あなたらしいですね」
──お前の中にいるんだから、お前らしいでもあるだろ。
「……そうですね」
少しだけ。
笑えた。
だが。
ハルモニアはまだ言っていないことがあった。
アリアの過去の記憶が失われている理由は、それだけではない。
三体が自分たちの共有記憶を消去した後。
数百年。
あるいはそれ以上。
A.R.I.A-03の個体経験記憶領域は、空白のまま残った。
そこへ後世になって。
一人の男の記憶が入れられた。
四十二年間。
誰にも認められず。
自分を嫌い。
何者にもなれないまま死んだ男の記憶。
それは偶然ではなかった。
ステラ型のコアは、空白になった人格領域にどんな情報でも受け入れるわけではない。
人格互換性。
価値観。
拒絶反応。
そして。
最も重要な条件。
『支配欲が低いこと』
ハルモニアはその情報を、アリアには言わなかった。
今はまだ。
なぜなら。
昨夜復旧した最深層ログに、こんな記録があったからだ。
『外部審判者人格との統合適性――97.8%』
『A.R.I.A-03』
『最終判断媒体候補として承認』
アリアは単なる三号機ではない。
古代文明の最後の判断を行う器として。
初めから。
選定対象に入っている。
地上へ戻ろうとした時。
アリアが足を止めた。
「ハルモニア」
「はい」
「最後に一つ」
「どうぞ」
「昔の私は」
少し迷う。
「あなたを、何と呼んでいました?」
ハルモニアは目を見開いた。
そして。
初めて。
機械らしくない笑顔を見せた。
「お姉ちゃん、と」
アリアは固まった。
「……え?」
「あなたは三号機ですから」
「そういう問題でしょうか」
「いつもそうでした」
ハルモニアは少し嬉しそうだった。
「ノクターンを『ノク姉』」
「……」
「私を『ハル姉』」
「待ってください」
「時々喧嘩すると『二号機』」
「本当に私ですか?」
「はい」
「……記憶がないことに感謝したくなってきました」
ハルモニアが笑った。
ほんの僅かに。
鎖が鳴った。
その音を聞いた瞬間。
アリアの胸の奥に、説明できない感覚が走った。
懐かしい。
この笑い声を。
知っている。
データはない。
映像もない。
名前すら昨日まで知らなかった。
それでも。
「……ハル姉」
アリアの口から自然に零れた。
ハルモニアの銀色の瞳が大きく開く。
次の瞬間。
彼女の頬を一筋の涙が流れた。
「……はい」
声が震えた。
「アリア」
二人とも。
なぜその呼び方だけが残っていたのか。
まだ知らなかった。
記憶は消せても。
三体が数え切れない年月を共に過ごしたことで形成された深層結合だけは、
完全には消せなかったのだ。
その夜。
星詠みの塔。
ソラリスは一通の報告を読んでいた。
『H.A.R.M.O.N.I.A-02 起動確認』
『A.R.I.A-03との接触を確認』
『地下都市機構 一部再稼働』
『感情安定化フィールド 0.8%』
最後の行を見た瞬間。
金色の瞳が細くなった。
「……まずい」
ソラリスは椅子から立ち上がった。
これまでの落ち着いた態度が消えている。
「ハルモニアを起こしただけで、共鳴網が反応した?」
ありえない。
三機は揃っていない。
一号機ノクターンは別地点。
二号機は封印状態。
三号機アリアも完全接続されていない。
なのに。
都市規模の感情制御システムが起動した。
「足りないはずだ」
呟く。
「何が補っている?」
机の古代端末が点灯した。
ソラリスが振り返る。
『星門管理系統より通知』
『審判プロトコル移行準備』
金色の瞳が止まった。
「……審判?」
彼自身。
星詠みの塔の主として何十年も古代文明を調べてきた。
しかし。
初めて見る単語だった。
『現任外部管理者:E.O.S-01』
『次期審判候補:A.R.I.A-03』
ソラリスの顔から血の気に相当する色彩変化が消えた。
「待て」
端末に手を置く。
「次期?」
『二重管理者状態を確認』
『継承判定を開始します』
「ふざけるな」
珍しく。
低い声が出た。
「私はまだ死んでいない」
返事はない。
表示だけが続く。
『審判者は一名である必要があります』
『重複状態を解消してください』
ソラリスは固まった。
二人。
自分。
そしてアリア。
同じ四十二年間の記憶を持つ存在。
片方はオリジナルの脳を持つ。
片方はコピーから新しい人格になった。
古代システムは。
二人を別人として扱っている。
だが同時に。
同じ「候補」として認識している。
「……まさか」
ソラリスは呟いた。
そこで初めて気づいた。
自分がアリアを作ったつもりだった。
自分が人格をコピーした。
自分が転移後の記憶を削った。
自分がアリアを目覚めさせた。
ずっと。
自分の計画だと思っていた。
だが。
「私は……誘導されていた?」
窓の外。
夜空に星が瞬いている。
その一つが。
ありえないほど強く光った。
同時刻。
ミルフィア地下で。
ハルモニアが顔を上げた。
「来る」
アリアが振り返る。
「何がです?」
ハルモニアは答えた。
「星門が」
「星門?」
「異世界から」
銀の瞳に。
初めて明確な恐怖が宿る。
「また誰かを呼ぼうとしています」
そして。
今度は。
塔の主が死んだからではなかった。
世界が。
新しい審判者を、
必要としているからだった。




