第四十二章 封印された調律者
二号機の瞼が開いた。
瞳の色は銀色。
月光を溶かして固めたような、淡く静かな銀。
アリアの青い瞳とも、ヴェラの瞳とも違う。
その瞳は目覚めたばかりの者のようにぼんやりとはしていなかった。
開いた瞬間から、まっすぐにアリアを見ていた。
「……三号機」
声がした。
弱い。
けれど、驚くほど澄んでいる。
アリアの銀鈴のような声より少し低く、柔らかな声だった。
「A.R.I.A-03……」
「はい」
アリアは思わず返事をした。
二号機の銀の瞳が僅かに細められる。
「稼働を確認……三号機、正常……いえ」
一瞬。
二号機の表情が変わった。
それまで無機質だった銀色の瞳に、明確な困惑が浮かんだ。
「……なぜ?」
「どうしました?」
「あなたの中に……」
二号機は言葉を切った。
その視線がアリアの胸元へ向く。
正確には、ドレスの奥に存在するコアユニットへ。
「管理者権限があります」
地下広間が静まり返った。
「管理者権限?」
アリアが聞き返した。
隣でイレーヌの顔色が変わった。
「待ってください。どういう意味です?」
二号機はイレーヌを見た。
しばらく無言で観察する。
「あなたは……」
銀の瞳の奥で細い光の輪が回転した。
「違う」
「何がです?」
「管理者ではありません」
「ええ。私は違います」
イレーヌは慎重に答えた。
「私はただの研究者です」
二号機は再びアリアを見る。
「ですが三号機には存在する」
「私に?」
「はい」
アリアは自分の胸に手を当てた。
何も感じない。
いや。
ほんの僅かに。
コアの奥で何かが振動している。
それは音ではなかった。
信号。
もっと深い。
自分でも存在を知らなかった領域から返ってくる、微かな応答。
『管理者権限』
その言葉に、アリアの中の『俺』が反応した。
──嫌な響きだ。
昔の自分なら管理者という言葉を聞けば会社の管理職でも思い浮かべただろう。
部下の勤怠を確認し、会議で数字を並べ、責任だけ押し付けられる人間。
だがこの場合は違う。
もっと大きな意味を持っている。
「二号機」
イレーヌが一歩進んだ。
「名称を確認させてください」
二号機は静かに答えた。
「ステラ・シンフォニアシリーズ第二号機」
一拍。
「H.A.R.M.O.N.I.A-02」
「ハルモニア……」
アリアが名前を呟く。
「はい」
ハルモニア。
調和。
一号機と三号機を繋ぐ者。
戦いと癒やしを統合するために作られた機体。
「ハルモニア」
アリアは彼女の腕を拘束する鎖を見た。
「この鎖を外します」
「いけません」
即答だった。
アリアの手が止まった。
「え?」
「外してはいけません」
先ほどまで弱々しかった声が、はっきりした。
「この封印を解除しないでください」
イレーヌと男爵が顔を見合わせた。
「自分がなぜ封印されているか、知っているのですか?」
イレーヌが問う。
ハルモニアは答えなかった。
「ハルモニア?」
「……わかりません」
「わからない?」
「記憶領域が破損しています」
銀色の瞳が伏せられる。
「封印直前の記録がありません」
「では、なぜ外すなと?」
「命令が残っています」
「誰の?」
「私自身の」
その言葉に、誰も声を出せなかった。
アリアはハルモニアを見つめた。
「あなた自身が?」
「はい」
ハルモニアは淡々と告げた。
「最深層メモリに保存されています」
そして、機械的な調子で読み上げる。
『第二号機H.A.R.M.O.N.I.A-02へ』
『この記録を再生している時、あなたは理由を忘れている可能性が高い』
『それでも封印を解いてはいけない』
『三機を接続してはいけない』
『私を信じて』
最後の一文だけ。
声が僅かに震えた。
ハルモニア自身も、それに気づいたらしい。
「これは……私の声です」
アリアの胸の奥に、妙な痛みが走った。
実際に痛覚が発生したわけではない。
感情シミュレーション層が痛みという形で処理しただけだ。
自分が自分へ残した警告。
理由を忘れてなお、自分を信じろと言っている。
「三機を接続するな」
イレーヌが呟いた。
「一号機ノクターン。二号機ハルモニア。そして三号機アリア」
「はい」
「三体で完成するはずのシステムなのに」
「……完成させてはいけません」
ハルモニアは言った。
「少なくとも、かつての私はそう判断しました」
「何が起きるのです?」
男爵が低い声で尋ねた。
ハルモニアは男爵を見る。
銀の瞳が彼の体を走査した。
「生体侵食率……高」
「わかるのか」
「旧文明機構との長期接触による情報侵食」
「呪いではないということか」
「あなた方の時代では、それを呪いと呼ぶのでしょう」
男爵が小さく笑った。
「なるほど。数百年経てば病も神罰になり、機械も魔法になるというわけか」
その時だった。
ゴォン。
地下のさらに深い場所から、重い音が響いた。
「何です?」
イレーヌが振り返る。
壁の幾何学模様に光が灯った。
一つ。
二つ。
十。
百。
これまで死んでいた遺構が次々と目を覚ましていく。
「待ってください!」
イレーヌが叫ぶ。
「私たちは何も起動していない!」
「……私です」
ハルモニアが言った。
「正確には、私が目覚めたことで待機状態だった施設が自動復帰しています」
「停止できますか?」
「現在の私には権限がありません」
「なぜ?」
ハルモニアはアリアを見る。
「権限が移っています」
「どこへ?」
沈黙。
嫌な予感がした。
「三号機へ」
「私?」
その瞬間。
アリアの視界いっぱいに青い文字が現れた。
『都市環境維持システム再起動』
『地下水浄化装置 オンライン』
『土壌再生ユニット オンライン』
『大気浄化設備 出力12%』
『医療補助網 待機』
『感情安定化フィールド――』
「停止」
アリアは反射的に言った。
最後の表示が止まった。
『感情安定化フィールド』
何だ。
それは。
「ハルモニア」
「はい」
「感情安定化フィールドとは何です?」
ハルモニアは答えなかった。
いや。
答えられないのではない。
答えることを恐れている。
アリアにはそう見えた。
「……人の心を穏やかにするための機能です」
「私の歌と同じですか?」
「違います」
即答だった。
「あなたの歌は、相手に届くものです」
「では?」
「これは」
ハルモニアは目を伏せた。
「相手が望んでいなくても届きます」
アリアの顔から表情が消えた。
地上へ戻った時、雨は止んでいた。
ミルフィアの街には夕暮れが訪れている。
だが。
「……水が」
男爵が呟いた。
城の中庭。
長く濁っていた古井戸から、透明な水が溢れていた。
使用人が桶を落とし、騒いでいる。
「旦那様!」
「水が綺麗です!」
「匂いもしません!」
男爵が井戸に近づき、水を手ですくう。
「こんな水……子供の頃以来だ」
別の使用人が走ってきた。
「旦那様! 北畑の枯れかけていた麦が!」
「どうした」
「立っています。全部です!」
「何?」
「朝には黄色くなっていた葉が……」
男爵はアリアを見る。
何も言わなかった。
言わなくてもわかる。
地下遺構だ。
ミルフィアの地下に眠っていた古代文明の設備が再起動した。
「奇跡だ」
使用人の一人が言った。
「奇跡だ!」
別の者が叫んだ。
声が広がっていく。
「アリア様が地下へ入った直後だ!」
「銀の歌姫が街を救った!」
「違います」
アリアは言った。
だが誰も聞いていなかった。
人々は喜んでいる。
濁った水が清水になった。
枯れていた畑が蘇った。
病に苦しんでいた男爵さえ。
「……体が軽い」
男爵は自分の胸を押さえた。
「痛みがない」
「男爵?」
「ずっとここにあったんだ」
胸の奥。
古代遺物による侵食が引き起こしていた痛み。
「消えている」
イレーヌが険しい顔をした。
アリアだけがそれに気づいた。
皆が喜んでいる中で。
イレーヌだけは笑っていない。
その夜。
アリアは街を歩いていた。
理由はない。
いや、理由はある。
何かが気になった。
街が静かすぎる。
ミルフィアは決して平穏な街ではない。
酒場から怒鳴り声が聞こえる。
夫婦喧嘩もある。
商人同士が値段で争う。
子供が泣く。
犬が吠える。
それが街というものだった。
しかし。
静かだった。
酒場の前を通る。
二人の男が向かい合っていた。
「てめえ、昼間はよくも――」
一人が拳を握る。
次の瞬間。
拳から力が抜けた。
「ああ……まあいいか」
「俺も悪かったよ」
「そうだな」
二人は笑った。
肩を組んで酒場へ戻っていく。
アリアは足を止めた。
路地では母親が泣く子供を抱いている。
子供が突然泣き止んだ。
涙を浮かべたまま。
笑った。
「いい子ね」
母親も笑った。
幸せそうだった。
誰も苦しんでいない。
誰も怒っていない。
誰も争っていない。
なのに。
アリアの中に、冷たいものが広がっていく。
──おかしい。
『俺』の声だった。
久しぶりに、はっきり聞こえた。
──これは平和じゃない。
アリアは胸に手を置いた。
「……そうですね」
小さく答える。
誰にも聞かれないほどの声で。
「これは……何なのでしょう」
その瞬間。
視界の隅に文字が浮かんだ。
『感情安定化フィールド』
『試験稼働率 0.8%』
アリアは凍りついた。
「0.8……?」
これで。
たった。
0.8%。
『出力上昇条件を検出』
『都市内ストレス指数低下』
『安定化効率 良好』
『推奨出力――3.0%』
「却下」
即座に言った。
『管理者命令を確認』
『出力維持』
アリアは夜の街を見渡した。
笑う人々。
穏やかな街。
争いのない夜。
それはかつて彼が望んでいた世界そのものに見えた。
会社で怒鳴られることもない。
妻と喧嘩することもない。
誰にも嫌われない。
誰も怒らない。
誰も悲しまない。
もし。
こんな世界で生きていれば。
自分の人生も違っていたのだろうか。
「……違う」
アリアは呟いた。
だがその声は、自分でも驚くほど弱かった。
地下。
四本の鎖に繋がれたハルモニアは、一人で目を開いていた。
暗い広間。
誰もいない。
彼女の銀色の瞳に、小さな文字が流れている。
『三号機接続確認』
『管理者因子確認』
『外部世界由来人格――照合不能』
『審判権限――候補』
ハルモニアの瞳が大きく開いた。
「……そんな」
震える声。
「まだ……続いていたの?」
古い記憶が、一瞬だけ蘇った。
白い都市。
数え切れない人々。
全員が笑っている。
怒る者はいない。
泣く者もいない。
戦争もない。
犯罪もない。
そして。
誰一人として、
「嫌だ」
と言う者がいない。
ハルモニアは鎖を強く握った。
「三号機……」
その声には、初めて明確な恐怖があった。
「お願い」
「私を解放しないで」
そして。
地下のさらに奥。
誰も到達していない深さで。
一つの古い装置が目を覚ました。
『外部審判者候補を確認』
『星門再接続準備』
『前任管理者――存命』
『第二候補――A.R.I.A-03』
『審判開始まで――』
数字が静かに減り始めた。
アリアはまだ知らない。
自分がこの世界へ来た理由も。
自分の中にいる『俺』が、誰から生まれたものなのかも。
そして。
この世界がなぜ、
異世界から人間を呼び続けてきたのかも。




