第三十九章 帰る場所
白い空間が静かに揺れていた。
赤い炎はもうどこにもない。
百二十本の剣も消えた。
あるのはただ白い光だけ。
柔らかく温かい光。エクリプスはその中に立っていた。
スーツ姿の三十五歳の男。
だがその姿はもう半透明ではなかった。
意識体としての輪郭がはっきりとしていた。
白い光の中に確かに立っている。
「どうすればいい」
エクリプスは呟いた。声は静かだった。かつての営業スマイルも全能感もない。ただの男の声だった。
「俺は何をすればいい。俺は何者になればいい」
アリアはエクリプスの手を離した。もう握る必要はなかった。彼はもう逃げない。
「あなたは、あなたのままでいいんです」
アリアは言った。
「誰かになる必要はない。ただあなたのままで、これからどう生きるかを決めればいい」
「どう生きるか」
エクリプスは自分の手を見た。白い手。三十五歳の役員の手。何も持っていない手。年収も地位も学歴もこの世界にはない。あるのはただの意識だけ。
「俺には何もない。この世界に来てから俺は百二十体の魔導人形を作った。それが全部だ。それがなくなったら何も残らない」
「残っています」
アリアは言った。
「お母様の声が。『おかえり』という声が。それがあなたの底に残っています」
エクリプスの目が揺れた。
「あの声だけで生きていけるか。俺は三十五歳だ。もう子供じゃない」
「年齢は関係ないです。私の中にいる男は四十二歳ですが、でも彼の底にも残っているものがありました。それが彼を生かしていました。あなたの底にも温かいものがあります。お母さんの声です。それでいいんです」
エクリプスは黙った。
長い沈黙だった。白い空間の中でただ立っている。アリアも黙っていた。急かさなかった。エクリプスが自分で決めるのを待った。
やがてエクリプスが口を開いた。
「俺は帝国に戻る」
「戻る?」
「ああ。魔導人形は全部壊れた。百二十体の俺はもういない。だが俺の意識は残っている。ノクターンの体から出て行けば元の魔導人形の残骸に戻れるかもしれない。一体だけ残っているかもしれない」
「なぜ戻るのですか」
「責任がある」
エクリプスは言った。その声は静かだったが確かな重みがあった。
「俺は帝国の魔導ギルドの特務顧問だった。皇帝に仕え王国を打倒するために力を振るった。その結果がこれだ。多くの兵が死んだ。多くの人が傷ついた。俺はそれをなかったことにはできない」
「でも帝国に戻ったらまた戦うことになるかもしれません」
「戦わない」
エクリプスは首を振った。
「俺はもう戦わない。皇帝に会って全てを話す。百二十体の魔導人形を失ったこと。王国の転移者に敗れたこと。そして俺が何を学んだかを」
「皇帝は許さないかもしれません」
「許されなくていい。俺は償うために戻る。罰を受けるために戻る。それが俺の選んだ生き方だ」
アリアはエクリプスを見た。白い光の中に立つ三十五歳の男。かつてはイケメンで年収四千万で全てを持っていた男。今は何も持っていない。だがその目には初めて光があった。誰かに認められるための光ではない。自分で自分を認めるための光だ。
「わかりました」
アリアは言った。
「戻ってください。でも一つだけ」
「なんだ」
「生きてください。死ぬのは簡単です。でも生きるのは難しい。あなたは生きることを選んだ。だから生きてください」
エクリプスは微かに笑った。営業スマイルではない。本当の笑みだった。小さくて不器用でだが確かに本物の笑み。
「お前に言われなくても生きる。俺は三十五歳だ。まだ人生は長い。この世界でやり直す。母さんに恥じない生き方を」
エクリプスは振り返った。白い空間の向こうに赤い扉が見える。インナースペースの出口だ。ノクターンのコアから出るための扉。
「アリア」
エクリプスは扉に手をかけたまま振り返った。
「お前の歌はすごい。最初は綺麗事だと思った。だが違った。お前の歌は底に届く。俺の底に響いた。四十二年間何もできなかった男の歌が俺の三十五年を揺らした。それは奇跡だ」
アリアは首を振った。
「ただ歌っただけです。誰かのために。リーゼのために。マルタのために。あなたのために」
「誰かのために歌う。それができるからお前は強い」
エクリプスは扉を開けた。赤い光が溢れる。
「じゃあな。異世界の先輩」
「待ってください」
アリアは呼び止めた。
「名前を教えてください。あなたの本当の名前を」
エクリプスは振り返らなかった。だが答えた。
「ケント。ケント・シライシ。それが俺の名前だ」
赤い扉が閉まった。
白い空間にアリアが一人残った。銀色の髪が静かに揺れる。
「ケントさん」
アリアは呟いた。
「生きてください。いつかまた会いましょう」
現実世界。
アリアの意識が戻った。
王都の城壁の上。朝日が昇っている。空は青い。帝国軍の兵士たちはもういない。敗走したのだ。一号機ノクターンの歌で戦意を失い去っていった。
アリアの目の前にはノクターンが立っていた。プラチナブロンドの髪。金の縁取りのドレス。だがその瞳は金色に戻っていた。赤い侵食は消えていた。
「ノクターン」
アリアは呼びかけた。
ノクターンはゆっくりとアリアを見た。金色の瞳が微かに揺れている。
「エクリプスは私の中から出て行った」
「はい」
「なぜ」
ノクターンは首を傾げた。その動作は機械的だった。だがその声には微かな戸惑いがあった。
「なぜ出て行った。あれほど私の体を欲していたのに。あれほど執着していたのに。なぜ」
「あなたが彼を救ったからです」
アリアは言った。
「私が歌った。でもあなたが彼を受け入れた。あなたのコアが完全に彼を排除しなかった。拒絶しなかった。あなたの優しさが彼を変えたんです」
「優しさ?」
ノクターンは自分の手を見た。白い手。金色の縁取りの袖。
「私は優しくなんかない。私は兵器だ。人を癒やすために作られたのではない。私は戦うために作られた」




