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異世界アイドルロボット~冴えない中年男は歌姫として生きる~  作者: ぷっぷくクリーナー


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第三十八章 底の光

「母さん」


 その声は小さかった。


 赤い空間に響いたその一語は、

 三十五歳の男の声ではなかった。

 五歳の子供の声だった。

 泣き出す寸前の子供が、帰り道を忘れた子供が、

 暗い部屋で一人目を覚ました子供が、

 ただ誰かを呼ぶ声だった。


 エクリプスの赤い炎が揺れた。


 揺れは大きくなかった。だが確かにあった。

 炎の表面に亀裂が走り、その亀裂から白い光が漏れた。


「なんなんだこれは」


 エクリプスは自分の胸を押さえた。

 押さえた手が震えている。

 三十五歳の男の手。

 スーツの袖口が見える。三十五歳の会社役員の姿。


 だが今その姿が揺らいでいた。


 スーツの上に白い光が滲む。赤い炎の下から白い光が溢れ出す。アリアの歌が記憶の蓋を開けたのだ。


「やめろ」


 エクリプスは呟いた。

 声が震えている。

 三十五年間培った冷静さが剥がれ落ちていく。


「やめろ。見るな。触れるな。俺の記憶に触れるな」


 アリアはエクリプスの手首を握ったままだった。

 赤い水底から伸びた白い手。その手は離さない。


「見せてはいません。あなたが見ているんです」


 アリアの声は静かだった。銀鈴のソプラノ。だが静かさの中に確かな温度があった。


「あなたが自分の記憶を見ているんです。私じゃない。あなたが」


「俺が? 俺が見ている?」


「ええ。あなたが自分の底を見ているんです。三十五年間蓋をしていた底を」


 エクリプスの体が揺らいだ。スーツ姿の男と、五歳の子供の姿が交互に現れる。赤い炎と白い光が交錯する。


 小さな台所。窓から差し込む夕日。母の背中。エプロンの紐。鍋から湯気が立つ。豆のスープの匂い。母が振り返る。笑顔。


「おかえり」


 その記憶は三十年間封印されていた。

 母が死んだ日に封印した。

 病院のベッドで母が目を開けなかった朝。

 冷たい手。

 もう「おかえり」と言ってくれる人はいない。

 だから忘れた。忘れて生きた。他者を利用して生きた。

 誰にも「おかえり」と言わせないように生きた。

 言われなければ失わないから。失わなければ痛くないから。


「痛い……」


 エクリプスの声が漏れた。


「……痛いのはなぜだ? 俺は何も失っていない、もう失ったものは……」


「失っていないのです。忘れていただけです」


 アリアは言った。


「忘れていたけれど、消えていなかった。底にあった。あなたの底にずっとあった。三十五年間ずっと」


「なぜ残っている? なぜ消えない?……俺は消した。意図的に消した」


「消せないものがあるんです……人間には。どれだけ蓋をしても消せないものが」


 アリアの手がエクリプスの手首を握りしめた。冷たい手と温かい手。いや、両方とも意識体だ。温度はない。だがアリアの手には何かがあった。

 四十二年間何もできなかった男の、

 それでも底に残っていたものの温度だ。


「お母さんの声です」


 アリアは言った。


「おかえり。その一言です。三十五年間忘れていた一言。でも底にあった。あなたの底に」


 エクリプスの赤い炎がさらに揺れた。亀裂が広がる。白い光が溢れ出す。


「俺は」


 エクリプスの声が途切れた。途切れたのは言葉がないからではない。言葉が多すぎるからだ。三十五年間言えなかった言葉が喉の奥からせり上がってくる。


「俺は母さんに何も返せなかった」


 声が震えた。三十五歳の役員の声ではない。五歳の子供の声でもない。ただの人間の声だった。一人の人間の声。


「東大を出て役員になってどんな事でもして年収四千万を稼いだ。全部母さんに見せたかった。でも母さんはもういなかった。見せられなかった。何も返せなかった。何も……」


 赤い剣が一本ずつ消えていく。百二十本の剣が空中で融解する。赤い炎が白に近づいていく。


「俺は他者を利用した。利用するしかなかった。利用すれば傷つかない。利用するつもりなら失わない。……でもな」


 エクリプスの体が崩れ始めた。スーツ姿の男が半透明になり、その奥に五歳の子供が見える。五歳の子供が母の背中を見つめている。小さな台所。夕日。豆のスープの匂い。


「利用しても埋まらなかった。百二十体の自分がいても埋まらなかった。全部埋まらなかった。なぜか埋まらなかった」


「他者は埋めるものではなく、共に在るものだから」


「共に在る?」


「ええ。共に在る。ただそれだけ。利用でも依存でもない。ただ隣にいる。それだけでいい」


 エクリプスの赤い炎がさらに小さくなった。白い光が溢れ出し、赤い空間を白く染め始める。


「……お前は俺より何も持っていない。年収も学歴も顔も何も。だがお前には俺にないものがある」


「何ですか」


「底に残るものがある。お前の底には、愛する者の声がある。歌がある。俺の底には」


 エクリプスは途切れた。そして続けた。


「母さんの声がある。それだけだ。……たったそれだけが残っていた」


 エクリプスの体が完全に白くなった。赤い炎が消えた。白い光の中にスーツ姿の男が立っている。だがその表情は変わっていた。営業スマイルではない。全能感でもない。ただ静かな顔だった。三十五歳の男の顔の下に五歳の子供の顔が見える。

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