第三十七章 綺麗事の底力
「……面白い。四十二歳の平社員。お前は本当に面白い男だ」
エクリプスは笑った。
だがその笑みはアリアが期待したものではなかった。
営業スマイルでも陶酔でもない。もっと冷たくもっと鋭い笑みだった。蛇が獲物を見定めるような目だ。
「だがな」
エクリプスの赤い炎が揺れた。いや揺れたのではない膨れ上がったのだ。さっきまでの揺らぎが何だったのかと思うほど急激に炎が膨張した。
「お前の言葉は綺麗だ。感動的だ。だがな」
エクリプスの右手が上がった。赤い炎が掌に集まり凝縮される。球体ではない。刃だ。赤い光の剣が形成される。
「俺は綺麗事が嫌いなんだ」
アリアの白い光が一瞬たじろいだ。
「お前が守るものがある。他者と繋がっている。想いの力。全部綺麗だ。全部正しい。だがなアリア、正しいことが強いことじゃない」
エクリプスが踏み込んだ。赤い剣がアリアの白い光を切り裂く。
「ぐっ!」
アリアの意識体が吹き飛ばされた。赤い空間の壁に叩きつけられる。亀裂が走る。痛みが走る。意識の痛み。物理的な痛みではないが精神的な負荷は現実の痛みを遥かに凌ぐ。
「お前は俺を救おうとした。だが俺は救われたくない」
エクリプスは追撃した。赤い剣が再度振り下ろされる。アリアは転がって避ける。だが二撃目三撃目は連続で来る。
「俺はな。三十五年間必死に生きてきた。東大を出て役員になって年収四千万を稼いだ。全部努力だ。全部俺の力だ。それをお前は痛みを知るから強いと言う。他者と繋がっているから強いと言う。だが俺は自分の力で全てを手に入れた。他者などいらなかった」
赤い剣がアリアの左肩をかすめた。意識体の肩から白い光が砕け散る。
「他者は利用するものだ。守るものではない。お前の考えは甘い。四十二歳の平社員らしい発想だ」
「ぐっ」
アリアは膝をついた。白い光が弱まっている。エクリプスの赤い炎が圧倒している。
「お前は会社で何もできなかった。名前も覚えられなかった。妻にも逃げられた。それで守るものがあるだと? 笑わせるな。お前は与えられたものを守るだけで精一杯の弱者だ。俺は自分で全てを手に入れた強者だ。強者と弱者の差はここだ」
エクリプスの足がアリアの胸を踏んだ。赤い炎がアリアの意識体を侵食し始める。
「俺を救う? お前ごときが? 何も成し遂げられなかった人間が俺を救う?」
「うああ!」
アリアが叫んだ。赤い侵食が白い光を飲み込んでいく。金色の髪が赤く染まり始める。
「お前の想いの力とやらもここまでだ。所詮は弱者の力だ。私の力には勝てない」
エクリプスは高笑いした。赤い空間に笑い声が響く。
「さあ。お前も私の一部になるがいい。A.R.I.A-03、お前の機体も私のものだ。二体の機体があればこの世界など」
「まだ……」
アリアの声が漏れた。小さく。だが確かに。
「まだだと言っている!!」
アリアの手がエクリプスの足を掴んだ。白い光が微かにだが確かに残っている。
「まだ終わっていない!」
「しつこい!」
エクリプスは足を離そうとした。だが離れない。アリアの指が食い込んでいる。
「お前は俺が何も成し遂げていないと言った。その通りだ。四十二年間何もできなかった価値のない男だ、妻にも逃げられ名前も覚えられずまあいいと逃げ続けた。だがな」
アリアは顔を上げた。瞳がまだ光っている。赤く染まりかけているがその奥に青い光が混じり始めた。
「そんな俺でも絶対に守るものがあれば逃げないんだ、四十二年間何もなかった人間が今そう思っている」
エクリプスの炎が小さくなった。
「……ならば」
エクリプスの白い炎が微かに揺れた。揺れは小さかった。だがその揺れの中に何かが混じった。白い炎の奥に赤い点が灯る。小さく。本当に小さく。だが確かに。
「ならば試させてくれ」
その声は静かだった。だがその静かさの中に氷のような冷たさが混じった。アリアは気づくのが遅れた。いや気づいたが認めなかった。認めたくなかった。この瞬間に逃げたかった。だが逃げられない。
「試す? 何を」
「お前の言葉が本当かどうかを」
エクリプスの手が上がった。白い炎の手。だがその手が上がった瞬間白い炎が弾けた。殻が割れるように。白い表面の下から赤い炎が溢れ出す。さっきよりも遥かに濃く遥かに深い赤。
「なっ」
アリアの目が見開かれた。
「お前の言葉は確かに面白かった。先輩面も悪くない。だがな」
エクリプスの赤い炎が膨れ上がった。さっきの百二十体分の力ではない。もっと密度の高い力だ。ノクターンのコアから引き出した力だ。一号機の力だ。
「俺は三十五年間、嘘をつき続けて生きてきた。取引先に笑顔で挨拶しながら内心では見下していた。部下に励ますふりをしながら内心では道具だと思っていた。女に優しくしながら内心では消費だと思っていた。それが俺だ」
エクリプスの赤い剣が再び形成された。だが今回は一本ではない。無数だ。赤い剣が空間全体に浮かぶ。百本以上。百二十体の魔導人形を操っていた時の応用だ。一本の剣が一体の魔導人形。百二十本の剣が空間を埋め尽くす。
「お前が俺を救おうとしたことだけは評価する。だが評価と受諾は違う。お前の言葉は綺麗だ。だが綺麗な言葉で人は変わらない。人は変われない。変わるふりをするだけだ」
「それは」
「お前もそうだろう。四十二年間何もできなかった人間が異世界転移して急に変わったのか。変わっていない。変わったふりをしているだけだ。お前の中身はまだあの冴えない中年男だ。守るものがあると言いながら本心ではまだ逃げたいと思っているはずだ」
アリアの足が止まった。白い光が揺らぐ。エクリプスの言葉が突き刺さる。痛い。痛いのは否定できないからだ。かつての自分は逃げたかった。今も逃げたいのか? やはりただ逃げられないだけなのか? 逃げられないから立ち向かっているだけなのか?
「ほら。図星だ」
エクリプスは笑った。赤い剣が一斉にアリアを向く。
「お前の守るものは守りたいから守っているのではない。守らなければならないから守っているだけだ。義務感だ。責任感だ。それも一種の強制だ。自発的な意志ではない」
「違う」
「違わない。お前は自分に価値がないと言った。自分に価値がないから守るものに価値を託す。それは依存だ。他者への依存だ」
赤い剣が一本ずつ発射される。百二十本。百二十の矢。アリアの白い光が次々に砕かれる。
「お前は俺に孤独が弱さだと言った。だが孤独は弱さではない。孤独は選択だ。俺は孤独を選んだ。他者を排除したのではない。最初から他者などいなかった。いなかったものを失うことはできない。失うものがない人間は強い。お前のように失うものがある人間は弱い」
「それは」
「弱さだ。お前の繋がりは全て弱点だ。リーゼやマルタが死ねばお前は壊れる。繋がりが多いほど壊れやすい。俺には繋がりがない。だから壊れない。それが強さだ」
アリアの光が消えかけた。赤い剣がアリアの意識体を貫く。一本。二本。三本。意識体に穴が開く。穴から白い光が漏れる。
「さあ。お前の綺麗事はここまでだ。四十二歳の平社員。お前の先輩面もここまでだ」
エクリプスはアリアの前に立った。赤い炎の男が白い光の少女を見下ろす。
「俺を救う? 守るものを作れ? ふざけるな。お前に何がわかる。お前は四十二年間何もできなかった人間だ。何もできなかった人間が俺に何を教える。俺は三十五年間全てを成し遂げた人間だ。成し遂げた人間が成し遂げられなかった人間に教えを乞う必要はない」
エクリプスの掌がアリアの胸に触れた。赤い炎が侵入する。アリアの意識体が赤く染まり始める。白銀の髪が赤に変わる。青色の瞳が赤に染まる。
「さよなら。先輩」
エクリプスの声は冷たかった。だがその冷たさの奥に微かな震えがあった。それは後悔ではない。確認だ。本当にこれでいいのか。本当に壊していいのか。自分でもわかっていない。だが止まれない。止まれば自分が壊れる。三十五年間積み上げた自分が壊れる。だから壊す。壊すことでしか自分を保てない。
アリアの意識が沈んでいく。赤い侵食が深くなる。視界が赤く染まる。聴覚が遠くなる。意識の底に沈んでいく。
「まあ」
アリアは呟いた。沈みながら。赤い水底に沈みながら。
「まあいい」
その声は小さかった。だが確かにあった。
「いや、まあいいじゃない。まだだ」
エクリプスの手が止まった。赤い侵食が一瞬だけ止まる。
「まだ、終われない!!」
アリアの声が赤い水底から響いた。沈んではいるが消えてはいない。赤く染まってはいるがまだ青色の瞳が光っている。
「お前は俺が逃げたいと言った。図星だ。やはり逃げたい。今も逃げたい。だがな」
赤い水底から手が伸びた。白い手。少女の手。だがその手は確かにエクリプスの手首を掴んだ。
「それでも逃げたい人間が逃げない。それが人間の強さだ。強くない。格好よくもない。ただ本当に大事な事からは逃げないだけだ。それでいい」
「なぜまだ動ける!? 俺の侵食を受け入れているのに」
「受け入れていない。沈んでいるだけだ。四十二年間沈んでいた。沈むのには慣れている。だがな、今の俺は沈んでも底がある」
アリアの手がエクリプスの手首を握りしめた。
「リーゼの声だ。マルタのスープの匂いだ。アリアの歌だ。それが俺の底だ。お前の侵食がその底までは届かない」
「そんなもの!!」
「お前にもあったはずだ。底に何かが。三十五年間積み上げた自分の底に。何かあったはずだ」
エクリプスの赤い炎が揺れた。揺れは大きくなかった。だが確かにあった。
「俺の底には」
エクリプスの声が途切れた。途切れたのは沈黙ではない。言葉が見つからなかったのだ。三十五年間の記憶の底を探る。何もないはずだ。孤独だった。誰もいなかった。何もなかった。
いや。
あった。
一つだけ。
幼い頃の記憶。母親の手。料理をする手。小さな台所。窓から夕日が差し込む。母が振り返って笑った。「おかえり」。その声。その温かさ。
その記憶をエクリプスは忘れていた。意図的に忘れていた。母が死んだ時に忘れた。忘れなければ生きていけなかった。辛過ぎたから。だから忘れた。三十年来忘れていた。
だがアリアの言葉がその記憶の蓋を開けた。
「母さん」
エクリプスの声が漏れた。三十五歳の男の声ではない。五歳の子供の声だった。




