第四章 屋根の下の温もり
少女の熱は、二十七分二十四秒でほぼ平熱へ下がったと内蔵医療システムのカウントダウンが告げていた。
アリアは少女の背中にそっと掌を当てたまま、冷たい石畳の上に座り込んでいた。
超微弱電流と低周波温熱療法。そして、歌だ。
かつて彼が知っていたどの子守唄とも異なる旋律。銀鈴のようなソプラノが冷たい雨の広場に溶け出し、湿った空気を微かに震わせる。
ただの歌ではない。音響ユニットから発せられる特殊な周波数が、少女の自律神経に直接働きかけていた。鎮静。催眠。鎮痛。人間の脳の深層へ直接届くような音波を、今は治癒のために最適化して流し込んでいるのだ。
「——眠れ、眠れ。痛みは遠く、夜は明ける……」
意味を持たない、ただの音の連なりのような歌詞。それでも声が空気を纏うたびに、少女呼吸は少しずつ穏やかになっていった。
広場に集まっていた野次馬たちは、いつの間にか散っていた。光る女が泥まみれの子供を治す光景に耐えられなくなったのか、それとも単に飽きたのか。中世の街の人々は残酷なほど現実的だ。不思議なことが起これば足を止めるが、自分の生活に直結しなければすぐに忘れて日常へ戻る。それはかつて彼が通勤電車で見ていたスマホの画面と同じだった。
少女が安らかな寝息を立て始めた頃アリアはふと空を見上げた。
鉛色の空から降り続く雨。崩れかけた城壁。泥と糞尿の匂い。そして背後に控える中世ヨーロッパ風の街並み。
考えてみれば、あまりに不条理だ。
彼は自嘲するように口元を歪めた。もっともこの顔が本当に歪んだのかどうかは確認できない。表情筋ではなくサーボモータが制御しているのだから。
そもそもこの身体がおかしい。
元の世界での彼はロボット工学の専門家ではなかったから詳しいことはわからない。だが四十二年間生きて培った常識で判断しても、明らかなオーバーテクノロジーだった。
人工皮膚は人間のものと区別がつかないほど精巧で、自己修復機能を持ち、防水防塵はもちろんある程度の耐熱耐寒性まで備えている。動力源は不明。大気中の何らかのエネルギーを変換しているらしいが、その変換効率は熱力学第二法則を笑うかのような異常さだ。
そして何より問題なのは『歌』だ。
用心棒を追い払った時のあれ。そして今、少女の熱を下げるために歌った子守唄。音響兵器としての歌唱機能。人間の脳幹に直接作用する音波。あれは物理的な音圧だけでなく、何らかの情報波を含んでいた。感情を操作し、記憶を刺激する。それはもはや音楽ではなく、精神干渉兵器に近い。
アイドルロボットが、なぜ精神干渉兵器を持っているのか。
「設計者が狂ってるのか、それとも俺の中でのアイドルという言葉の定義が狂ってるのか」
独りごちた声は、当然あの銀鈴のようなソプラノで、雨音に混じって広場に響いた。みっともない独り言ですら完璧な発音と響きを持つ。ため息をつくことさえ作り物めいて聞こえるのだから始末が悪い。
異世界転生。それもアイドルロボットに。しかも中世ヨーロッパ風ファンタジー世界に。
小説や漫画ならこういう設定は確かに存在するだろう。彼も生前そこそこネット小説を読んでいた。社畜が異世界で無双する、ゲームキャラに転生する、モンスターに転生する。だが中年男がアイドルロボットに転生して中世ファンタジーに放り込まれるという設定は、ちょっとどうかと思う。第一、なぜアイドルなのだ。
アリアは自身の白い手のひらを見つめた。細く、長く、滑らかな指。かつて彼の手は節くれ立ち、爪は噛み癖でぼろぼろだった。タイピングと満員電車のつり革以外に何も掴まなかった手だ。その手が今は、人間を気絶させ、少女の手首を治し、光で文字を刻む。
その時だった。
「ちょっといいかい」
背後から声をかけられた。振り返ると、広場の一角で粗末な屋台を出していた老婆が立っていた。エプロンは煤と油で黒ずみ、顔にはこの世界の厳しさがそのまま刻まれている。だがその目は不思議と温かかった。
「その子うちに置きな。店の奥に寝かせる場所がある」
アリアは目を見開いた。この世界で初めて、他人に善意を示す人間に出会ったからだ。
「よろしいのですか? この子にはまだ奴隷の首輪が――」
「そんな鉄の輪っかなんぞ外しちまえばいい」
老婆は屋台の裏から錆びたタガネと金槌を取り出すと、しゃがみ込んで少女の首輪の接合部にタガネを当てた。そして金槌の一撃。首輪はあっけなく外れ、石畳に転がり落ちた。少女は目を覚まして一瞬だけ怯えたが、老婆のしわくちゃな手が頭を撫でると、堰を切ったように泣き出した。
アリアはその光景を見ていた。
ちぐはぐな転生、不条理な世界。それでもここには、奴隷の首輪を躊躇なく砕ける老婆がいる。
「あんたも来な。この雨じゃ風邪引いちまうだろ」
老婆が振り返り、アリアを見た。ただ困っている人間を放っておけないという、打算を一切感じさせない優しい目だった。アリアの正体が何であれ、雨に濡れているなら中に入れという、極めて素朴な判断。
アリアは一瞬だけ演算回路を空転させた。
「……ありがとうございます」
アリアは少女を抱き上げた。体重はほとんど感じない。機械の筋力にとって人間の子供の体重は羽毛のようなものだ。だがその温かさは、温度センサーの数値以上に彼の心を揺らした。
屋台の奥は狭かった。天井は低く、壁は煤で黒ずみ、香辛料と古い油の匂いが染み付いている。だが雨はしのげた。老婆は少女に薄いスープを注ぎ、アリアにも木の椀を差し出した。
「スープは飲めるのかい?」
老婆がアリアの白い手を見て言った。
アリアは一瞬、沈黙した。飲めるのかと聞かれて即答できなかったのは、自分でもこの身体の仕様を完全には把握していないからだ。
だが言葉を発する前に内蔵された生体維持システムが静かに起動するのがわかった。口腔内の唾液腺に相当する潤滑機構。喉の蠕動を模した搬送チューブ。そして胃に相当する有機物分解チャンバー。この身体は人間と「同じように」食事を摂取できるように設計されているらしい。
「飲めます」
アリアは答えた。自分の声ながら、少し驚いている響きが混じった。飲めるように設計されているだけで、それがどういう意味を持つのかはまだわからない。栄養になるのか、ただの飾りなのか。あるいは食べるという行為そのものを演じるための装置なのか。
だが、ここで断る理由もなかった。老婆の厚意を無にするのはあまりに人間らしくない。アリアは木の椀を両手で受け取り、そっと口元に運んだ。
スープは濁った薄茶色で、浮いているのは刻んだ野草と豆の欠片だけ。決して美味そうには見えない代物だった。
アリアはゆっくりとスープを嚥下した。喉の搬送チューブが収縮し、液体が有機物分解チャンバーへと流れ込んでいく。そのプロセスはあまりに滑らかで、人間の「飲み込む」という感覚を忠実に再現していた。やがてチャンバー内でスープの成分が解析され、
微量の熱エネルギーと栄養素が各システムへと分配されていく。
スープ成分の解析結果を人間の味覚風に表現するならば、
口に含んだ瞬間舌に広がったのは意外なほど複雑な味わいだった。塩気はほとんどない。
だが野草の苦みと豆の甘みが混ざり合い、かすかな動物脂のコクが喉を抜ける……といった感じの美味しいと言って良い味であった。
「……美味しいです」
その言葉は、かつて人間だった頃の記憶から自然とこぼれ出たものだった。
老婆は何も聞かなかった。名前も素性もなぜ光っているのかも。
それがこの世界で生き抜いてきた彼女なりの人への心遣いであり処世術なのであろう。
ただ少しだけ目を細めて笑い少女の髪を撫で続けていた。
アリアは狭い店内の隅に静かに座っている。銀色の髪が膝の上に垂れ光ファイバーが微かに明滅する。
不条理だ。盛りすぎだ。設定が破綻している。そう思いながらも、彼は今この瞬間だけは、このちぐはぐな身体と不条理な世界でよかったと思った。
もし人間のまま転生していたら、この少女を助けただろうか。この老婆に声をかけられただろうか。四十二歳の冴えない男が、剣を持った用心棒を前にして立ち止まれただろうか。
答えは否だ。きまり悪そうに目を伏せて足早に通り過ぎていただろう。いつもそうしていたように。
「こういうのも、悪くないかも」
独りごちた。銀鈴の声が狭い店内に優しく響く。老婆が少しだけ笑い、少女がスープを啜る音が聞こえた。
外ではまだ冷たい雨が降っている。
だが屋根の下には温もりが三つあった。
一つは奴隷の少女、一つは老婆、そして一つはアイドル型ロボット。
それが、彼にとって不条理な世界での最初の夜だった。




