第三章 機械の天使と泥まみれの少女
街の中は、外よりも暗かった。
高い石造りの建物が両側から迫り、空を細長く切り取っている。朝の光はそこまで届かず、路地は湿った影に沈んでいた。空気は重く、冷たい泥と家畜の糞尿、腐りかけた野菜の匂いが混ざり合っている。
アリアは大通りへと歩き出した。
銀色の髪、白い肌、光を帯びたドレスに青白い瞳。灰色と茶色が支配するこの街において、彼女の姿はあまりに異質だった。
人々が振り返る。
物売りの女がカゴを落とし、馬の蹄鉄を打つ男が槌を止め、路地裏で咳き込む老人が目を擦った。
「おい、あれ見ろよ。闇市のからくり人形か?」
「それにしちゃあ精巧すぎるぜ。魂でも入ってやがるんじゃねえか」
「高く売れるかもしれんな。エルフの女奴隷より珍しい」
若者たちの下卑た声が聞こえた。
かつての彼なら、この視線に耐えられなかっただろう。できるだけ早足で通り抜け、影に紛れようとしたはずだ。
だが、アリアは背筋を伸ばし毅然と歩いている。
なぜなら、見られることが機能の一つ――アイドルロボットは、視線の先に在るべき存在だからだ。
なので、視線は痛くなかった。ただのデータとして処理されるだけだ。
ふと、アリアのセンサーが何かを感知したのか、歩みを止めて広場の方へと視線を動かした。
中央広場の石畳の真ん中に、一人の少女が倒れ込んでいた。
年の頃は十にも満たないだろうか。ぼろぼろの布を纏い、両足は裸のまま泥で汚れ、右手首が奇妙な方向に曲がっている。呼吸は浅く、唇は青紫に変わっていた。恐らく、折れた手首の傷から何かが入り込み、熱を出しているのだ。明らかに今にも死にそうだった。
周囲の大人たちは、その少女を避けるように通り過ぎていく。奴隷の子供など、この世界の街では石ころと同じだ。誰も目を向けない。誰も手を差し伸べない。
しかし、アリアの視覚センサーは少女の異常を高速解析していた。
血液循環不全、体温低下、感染症の初期症状、栄養失調。そして小さな胸元に光る鉄鎖は、奴隷として所有されていることを示す首輪の鎖だった。
彼は、かつての自分を思い出した。
満員電車の窓枠。線路脇で倒れている泥酔者。誰もが目を背け、自分もまた目を背けた。助けようとして絡まれるのが怖かった。見知らぬ人に声をかける勇気がなかった。自分のことで精一杯で、余裕がなかった。
だが、アリアとなった今は違った。
恐怖という重荷を下ろした心は、驚くほど軽い。そして何より、この体には人を救い、癒やす機能がある。
アリアは少女のそばにしゃがみ込んだ。
「聞こえますか」
少女は虚ろな瞳でアリアを見上げた。その瞳の中に、銀色の髪と青白い光が映り込む。彼女は何か言おうと口を開けたが、声にならなかった。
「動かないでください。私の手、冷たいでしょうけど我慢してくださいね」
アリアはそっと少女の手首に触れた。
内蔵された医用スキャナが起動し、患部の状態を詳細に映し出す。折れた骨の位置、炎症の広がり。指先から放出される微弱な超音波が、骨を正しい位置に戻すための角度を計算する。そしてアリアは、人間には不可能なほど滑らかな動作で少女の手首を整復した。
少女が小さく悲鳴を上げた。
「やめて……また売られるの……?」
その言葉に、アリアの演算回路の奥で一瞬だけエラーが弾けた。感情回路に激しいノイズが走る。
原因は何か。悲しみではなく、怒りだった。かつての自分が感じたことのないほど、明確な怒り。この世界では子供が奴隷として売られる。それが当然の風景なのだということが、生体センサーの分析や街の匂いから嫌でも情報として流れ込んでくる。
それでも、アリアは声を震わせなかった。微笑んだ。
人間だった頃、笑いたいときほど笑えなかったはずの顔が、今は最大級の慈愛を表現できる。
「もう大丈夫。痛みは引きました。……あなたを売ったりしません」
少女は目を大きく見開いた。
その瞬間、彼女の肩の上に音もなく何者かの影が落ちた。
「てめえ、勝手に人の商品に触ってんじゃねえぞ」
振り返ると、毛皮を纏った大柄な男が二人、ニヤニヤしながら立っていた。腰には幅広の剣、片方の手首にはこの街でよく見る赤い布が巻かれている。売春宿か奴隷商の用心棒らしい。
少女は、小さな体をアリアの影に隠すように縮こまらせた。男たちはアリアの顔を見下ろす。
「へえ……面白い化粧だな。お前、舞台の踊り子か? このガキの代わりに自分が売られてみるか?」
「その白い首に似合いの、鉄の首輪を用意してやるぜ」
その瞬間、彼は確信した。
自分はもう、かつてのように首をすくめてこの場を去るつもりはない。怖がる必要もなければ、耐える必要もない。
「この子から離れてください」
声は銀鈴のように澄み渡り、広場の雑踏を一瞬で沈黙させた。周囲の野次馬が恐る恐る振り返る。
異様な空気が満ちた広場で、アリアは男たちを真っ直ぐに見上げた。その青い瞳の奥で、幾何学的な光の輪がゆっくりと回転する。
「私は、あなた方のような人間を前にしても、もはや怖くはないのです。必要なら、言葉ではなく音でわからせます」
男たちの顔から笑みが消えた。
アリアの白い手が微かに持ち上がり、指先が空気を弾くように開かれる。すると、周囲に置かれた露店の壺や鍋が共鳴して、カチカチと小さく鳴り始めた。張り詰めた空気が、可聴域すれすれの低周波と耳鳴りのような高周波で揺れる。
「ちっ、頭が……やめろ」
「なんだこいつ……!」
男たちは額に手を当て、歯を食いしばり、わずかに後ずさった。緊迫した数秒ののち、彼らは「覚えてやがれ」と捨て台詞を残し、人混みの中へ消えていった。兵士を呼んでくると叫びながら。
アリアは、そっと息を吐くように肩の力を抜いた。兵士を呼ぶという捨て台詞は、高確率でハッタリであると分析したからだ。
少女はアリアのスカートの裾を強く握っていた。涙は出ていなかった。長く過酷な環境にいるため悲鳴を忘れてしまった子供の瞳が、ただアリアを見上げている。
「天使さま?」
彼は答えられなかった。
かつての自分は確かに人間だった。しかし今の自分はロボットであり、誰から見ても普通の人間の姿ではない。それでも、今の自分は確かに天使と呼ばれるべき何かなのかもしれない。
アリアは少女の前でゆっくりとしゃがみ込み、答えた。
「いいえ。私はただの歌い手です。あなたの体が元気に回復するまで、付き合わせてください」
灰色の空はまだ雨を降らせている。
薄暗い中世の広場の中心で、機械の天使は泥まみれの少女の手を取った。その白い指先から、柔らかな光と、音楽の卵のような微かな振動が伝わる。
人々は足を止めて、それを見つめていた。
どこの誰とも知れぬ異形の女が、奴隷の子供に微笑みかけている、珍しい光景を。




