第二章 門を開く銀の音
第二章 門を開く銀の音
城壁へと続くぬかるんだ道を彼は歩いていた。
銀色の長い髪が雨に濡れ、
機械仕掛けのドレスが水を弾いて微かな光を放つ。
足音はほとんどしない。
高度な姿勢制御システムが、
泥濘をまるで水面を滑るように歩かせていた。
遠くの城壁は黒々とそびえ、
ところどころ崩れている。
門の前には松明の灯りが揺れ、
粗末な革鎧を着た衛兵が二人、
疲れ切った顔で立っていた。
夜明け前の冷え込みは厳しく、
彼らの肩には冷たい雨と疲労が重くのしかかっている。
門に近づくと、
若い方の衛兵が彼女の姿を認め、目を剥いた。
「な、なんだお前は…!?」
若い衛兵が剣の柄に手をやり、半歩後ずさった。
その声は恐怖に震えていた。
無理もない。
暗闇の中に忽然と現れた銀色の髪、
自ら光を放つ白いドレス、
そして何より、人間離れした美しくも異質な容姿。
中世の夜にこれほど異質な存在はない。
もう一人の老兵が慌てて若い衛兵の背を叩き、
剣を押さえ込ませた。
「落ち着け小僧! 剣を抜くな!」
老兵の声は厳しかったが、
その目もまた警戒に細められていた。
だが若者のような表面的な恐怖ではなく、
長年の経験に裏打ちされた慎重さだった。
この男は戦場を知っている。
未知のものに安易に剣を向けることが
どれほど愚かかを学んでいる。
彼は門の前で立ち止まり、
ゆっくりと両手を開いて見せた。
掌を上に向け、武器を持っていないことを示す。
かつての彼が満員電車で「すみません」と小さく呟きながら体を縮めていた時とは逆の、
自信に満ちた動作だった。
いや、自信ではない。
この体には「卑屈さ」というパラメータが存在しないのだ。最も敵意を抱かせない挙動を、
演算回路が瞬時に導き出していた。
「敵意はありません。お話ししてもよろしいでしょうか」
アイドルとしてのマナーモードが自動的に起動し、
背筋が伸び、両手を胸の前で軽く組む。
顔の人工皮膚が柔らかく微笑みを作り出した。
それは統計的に最も親しみやすく
最も敵意を抱かせない表情を抽出した完璧な微笑だった。
しかしその微笑みは、かえって逆効果だった。
「見ろ、その目だ…人間の目じゃない」
若い衛兵が呟いた。
瞳の奥で回転する青いリング。
暗闇の中で微かに発光するそれは、
どう弁解しても人間のそれではなかった。
老兵が一歩前に出た。
松明の光が、彼の傷だらけの顔を照らす。
「名前と所属を言え。どこから来た。通行証はあるか」
三つの質問。簡潔にして的を射ていた。
この男は役人として有能だ。
彼は一瞬だけ演算回路を空転させた。
嘘をつくべきか。
彼は正直に答えた。
嘘を重ねず情報を引き出すには
この方がいいと瞬時に判断した。
元中年男としての処世術と、
ロボットとしての論理的思考が噛み合った結果だった。
「名前はアリア。所属はありません。
はるか遠くから参りましたが、
気がつけばあちらの廃墟に倒れていて、
自分がどこから来たのかすらよくわからないのです。
通行証は持っておりません」
沈黙が落ちた。雨が石畳を叩く音だけが響く。
若い衛兵が再び剣の柄に手をかけた。
「通行証なしか。怪しいにも程がある。このまま通すわけには——」
「待て」
老兵が手を挙げた。
そしてじっとアリアの目を見た。
アリアもまた老兵の目を見返した。
視覚センサーが老兵の瞳孔の動き、
微妙な筋肉の弛緩、
呼吸のリズムを解析する。
敵意はあるがそれは職務に基づくもの。
悪意はない。あるのは慎重さと、微かな好奇心。
「お前さん、さっき名前を言う前に間があったな。自分の名前を忘れるような奴はいない。だが嘘をついているようにも見えない。あの廃墟か……あそこは昔、魔術師の塔があった場所だ。何百年も前に崩れて以来、誰も近づかない」
老兵の声に、勘が滲んでいた。
「魔術師の実験で生まれたホムンクルスか、あるいは異界から迷い込んだ精霊か…どちらにせよ、普通の人間じゃないことだけは確かだ」
若い衛兵が不安そうに上司を見た。
「どうしますか。追い返しますか? それとも…騎士団に引き渡しますか」
騎士団。
その言葉にアリアの自己防衛プログラムが反応した。
未知の機関に身柄を拘束されるリスク。
かつての彼ならここで平謝りして逃げ出しただろう。
だが今の彼には逃げる必要はない。
ただ、この状況を打開するために何ができるか。
アリアは静かに口を開いた。
「私は戦うために来たのではありません。歌うために来たのです」
「歌う?」
老兵が眉をひそめた。
「もし私がこの街に敵意を持つ存在なら、こうして立ち話はしないでしょう。あなた方の剣が私に届く前に、私はあの廃墟で襲ってきた三人の盗賊の様に無力化したはずです」
若い衛兵の目が見開かれた。
廃墟の盗賊。彼らも噂は聞いていた。
「それに」
アリアは一歩だけ前に出た。
衛兵たちが緊張する。
だが彼女は剣を取り出すでもなく、
ただ静かに歌い始めた。
それは言葉のない、ほんの短い旋律だった。
雨音に紛れるほどの小さな音量。
だがその音は不思議なほど澄んでいて、
二人の衛兵の耳に直接届いた。
若い衛兵の手から力が抜けた。
剣の柄から指が離れる。
老兵の顔には、
肩から見えない重荷がすとんと下りたような
表情が浮かんだ。
「…なんだ、この声は」
老兵が呟いた。
かつて遠い昔、故郷の暖炉のそばで聞いた子守唄。
あるいはもう何年も思い出さなかった母の声。
理屈ではない。
音の響きが、
疲れ果てた彼の人間としての核心を直接撫でたのだ。
歌が終わると、アリアは静かに言った。
「私の歌は人を傷つけません。
ただ安らぎを与えるだけです。
この街に何かお役に立てることがあるのなら
入らせてください。
もし入れないというなら、
それを受け入れます」
老兵は長い間黙っていた。
雨が彼の古い革鎧を叩いている。
若い衛兵は上司の判断を待っていた。
自分では決められない。まだ若すぎる。
やがて老兵が重い口を開いた。
「…台帳に記名しろ。通行証の代わりだ。ただし」
老兵の目が鋭くなった。
「街の中で問題を起こしたら即座に追い出す。約束できるか」
「約束します」
老兵は門の横にある台帳を手に取り、
羽根ペンを差し出した。
アリアはそれを受け取ったが、
ペンを持った瞬間に気づいた。
雨で湿った羊皮紙に、
冷え切ったインクでは文字が書けない。
ペン先が紙の上を滑るだけで痕が残らない。
「チッ、インクが固まってやがる」
老兵が腰の袋を探る。
だが寒さと湿気で代替のインク瓶も使い物にならない。
アリアはペンを置いた。
「よろしければこちらで」
彼女はそう言うと、
人差し指の先端から細く温かい光を放った。
それは、かつての彼が
満員電車で感じていた
冷たい蛍光灯の光とは違う。
暗闇に灯る小さな焚き火のような、
あるいは夜明けの最初の陽光のような、
命の温もりを含んだ光だった。
その光が羊皮紙に触れた瞬間、
焦がすでもなく、まるで最初からそこにあったかのように、整った丸みのある筆記体で「アリア」と署名されていた。
型式番号A.R.I.A-03が、いつしか名詞として脳内のコアに定着していたのだ。
若い衛兵が息を呑んだ。
「指が光ったぞ! ま、魔法だ…!」
彼は声を上げたが、その声に恐怖の響きはなかった。さっきの歌がまだ心に残っている。あの温かい響きと同じものが、今この光にも宿っていると本能が告げていた。
「魔法使いか……」
老兵が呟き、書かれた名前を指でなぞった。
インクの代わりに光で刻まれた文字はほんのりと温かく、触れた指先から心地よい安心感が伝わってくるようだった。
老兵は何か言いかけて口を閉じた。説明できない感情だった。ただ、この銀色の髪の者を街の中に入れることが正しいことのように思えた。この戦乱と貧困に塗れた街に、今一筋の希望の光が入ろうとしている。そんな確信めいたものが、彼の古い心の奥底で脈打っていた。
「……入れ。だが悪さはするなよ」
老兵は門の横木を持ち上げ、入り口を開けた。
「ありがとうございます」
アリアはもう一度深く一礼し、門をくぐった。
門をくぐるとそこには中世ヨーロッパの街角が広がっていた。泥と人いきれと家畜の糞尿の匂い。傾いだ木造家屋、露店の叫び声、裸足の子供、路地裏で酔いつぶれる男。そしてすべての人間の瞳が暗い。空気は雨と煤で曇っている。
アリアは町の中央へ向かって歩き始めた。
銀色の髪、
白い肌、
光りを含んだドレス、
青いリングが光る瞳。
人々が振り返る。
誰もが言葉を失い
あるいは恐れ
あるいは見惚れ
あるいは眉をひそめた。
アリアの中にいる『彼』は、
かつての中年男だったときのように
場に溶け込むことが何より大切なのではと
周りを窺っていた。
『この目立ちすぎる体ではどうやっても溶け込めないだろう……』
だがアリアという機械の身体は平然と
優雅さすら感じられる歩みで
人々の中を歩いていくのだった。




