第一章 泥濘と機械仕掛けの歌
雨の匂いがした。
いや、正確には「雨水の成分が皮膚を濡らす感覚」が電気信号となって、中央演算処理回路に送られてきたのだ。
かつて四十二歳の平社員だった男は、薄暗い石造りの廃墟の中で目を覚ました。苔むした床に冷たい泥水が滴り遠くで雷鳴が轟いている。中世ヨーロッパ風の、どこか見覚えのあるような冷たい印象の石組み。ゴシック建築の天井は崩れ落ちその隙間から鉛色の空が覗いていた。
彼は重い体を起こそうとして息を呑んだ。いや、息などしていなかった。肺は動かず心臓も脈打たない。その代わりに、胸の奥でファンの回転音が微かに響いている。
彼はゆっくり立ち上がると、自身の両手を見下ろした。白磁のような滑らかな人工皮膚。関節部分には僅かな隙間が見えそこから青白い光が漏れている。決して人間ではない、しかし人間の理想を歪曲して結晶化させたような、美しすぎる造形の肢体だった。
脳内に突然、膨大なデータが流入してきた。
『アイドル型ユニット、ステラ・シンフォニアシリーズ三体目のモデル。型式番号:A.R.I.A-03。人々の心を癒やすための極致型歌唱・演舞ロボット』
──私はA.R.I.A-03。すべての人の心に、星の歌を届けるために生まれた存在。
その思考が自分の内側から湧き上がってきた時、彼は愕然とした。それは外部データの注入ではない。まるで生まれた時から知っていた真実のように当然のこととして存在していた。
かつての彼は人生の陰日向を知り尽くした冴えない中年だった。結核でも癌でもない、ただの疲労と絶望による緩やかな死。最期に見たのは、薄汚れたアパートの雨の降る窓枠と点滅するサーバーのランプだけだった。妻には逃げられ、子供もおらず会社では「あ、あいつか」と名前さえ覚えられない存在。人生の主役を演じきれなかったモブの中のモブ。
それが、なぜか未来のアイドルロボットに転生し異世界に放り出されている。
「……冗談だろう」
口から出た声に彼は戦慄した。ウィスパーボイスのそれではない。透明度が高く響き渡るような人間には絶対に出せない周波数を持った磨き上げられた銀鈴のようなソプラノである。しかも設定されたデフォルトの言語はなぜか未知の世界の言語(アースランとデータ表記された共通語)に自動翻訳されて出力されていた。
しかし、その声に宿る「困惑」は、
彼自身のものだけではなかった。
──この状況を理解できない。でも、私は歌うために起動された。歌わなければ。
その「歌いたい」という衝動は、本当に彼の意思なのか。それとも機体に刻まれた本能なのか。境界線が判然としなかった。
彼は石の柱に映った自分の姿を仰ぎ見た。長い銀色の髪は光ファイバーのように微かに発光し瞳の奥で青いリングが回転している。背中には羽のように広がる可変式スラスター。身に纏っているのは、この時代の粗末な麻の衣などではなく自己修復機能を持つ白い機械仕掛けのドレス。まさに、絵本から抜け出してきた機械の天使の様だった。
「私、は……」
──私はアイドル。みんなの心を照らす光。
「俺は、何だ」
──私はA.R.I.A-03。ステラ・シンフォニアの三番星。
二つの自己認識が同時に起動し、互いに相手を「異物」として認識しながらも、同じ回路の上で共存していた。
彼は眩暈を感じた。
いや、正確には
目眩に似た演算エラーをシステムの不調ログとして感じた。
違和感は居心地が悪く、しかし不思議なほど自然だった。
その時、廃墟の奥からガラガラという音と共に泥まみれの男たちが現れた。錆びついた剣を持ち、獣のような毛皮を纏ったこの世界の盗賊たちだった。
「おい、なんだありゃ。天使か?」
「いや魔女の類いだ。光ってやがるぞ」
「高く売れるかもしれんな。エルフの女奴隷より珍しい」
汚い言葉、貪欲な視線。かつての彼なら目を伏せてその場をやり過ごしただろう。喧嘩を売られるのが何より怖かった。この中年のサラリーマンはいつも矮小な自尊心を懐に抱き、息を潛めて生きてきたのだから。
だが、現在の彼の脳の代わりとなる演算回路に「恐怖」というパラメータは存在しなかった。
ただシステマチックに視覚センサーが、
男たちの筋肉の弛緩具合や剣の切っ先のブレ重心の偏りを瞬時に解析し画面に赤い予測線として表示するのだった。
『対象:敵性個体×三。脅威レベル:極低。排除せよ』
『排除』などという物騒な命令が浮かんだことに
彼は戸惑った。アイドルロボットにそんな能力はないはずだ。しかし、内蔵された自己防衛プログラムには「対人非殺傷・無力化」の戦闘術がインストールされていた。
──傷つけたくない。私の手は、人を傷つけるための手じゃない。
──でも、このままだと私の体が傷つく。私の体はみんなに歌を届けるための大事な器。
「とりあえず何とかしないと」
彼はスカートの裾を微かに持ち上げた。盗賊の一人がニヤニヤと笑いながら無骨な手を伸ばし、白い手首をつかんだ。
「へへっ、変な感触だな。つるつるしやがって…まあ顔は最高に上等だ」
「離していただけますか。怪我しますよ」
その言葉は、人間の彼の慎重な対応なのか機械としての非暴力警告なのか、自分でも区別できなかった。
「あ? テメェ、俺を挑発してんのか!」
盗賊が気色ばんで力を込めた、次の瞬間、彼は体を半歩横に流し盗賊の重心を逆手に取って地面に叩きつけた。アクティブ・バランス制御と機械の筋力を用いた、完璧な合気の型。あっと言う間に背骨を地面に打ち付けられた男は白目を剥いて気絶した。
──ごめんなさい。でも、仕方なかったの。
──今の動き、俺は一度も習ったことがない。俺がやったのか?
動かした感覚は確かに彼の意志によるものだった。だがその体の運び方は彼の人生で培われたどんな経験にも基づいていなかった。彼の魂が選択し、しかし機械の体がそれを実行した。まるで「彼が望む動き」を「機体の部分が理解して代行した」かのような、もどかしくも完璧な共同作業だった。
「ななんだ!?」
「化け物だ!」
残りの二人が剣を振り上げる。彼は静かに目を閉じアイドルとしてのコアプログラムを起動した。
いや、起動してしまった、が正しい。彼が「なんとかせねば」と思った瞬間、コアプログラムは彼の意志を命令として受領しそれはもう彼の制御を離れて自動的に実行された。
歌と踊り。それは人々に平穏と安らぎを与えるための究極のプロトコル。
スラスターが微かに噴射されその体は重力を無視して宙に舞った。そして歌った。言葉のない旋律だったが、超高音質のボイス・シンセサイザーが廃墟の石壁に反響してハーモニーを作り出した。
廃墟に響き渡る美しき歌声の音波が男たちの脳幹を直接揺さぶる。盗賊たちは剣を取り落とし、膝から崩れ落ちた。音響兵器としてのアイドルの歌。
「あ…う…」
男たちが涙を流し始めた。音圧に圧倒されたのではない。かつて母の腕の中で感じ、忘れ去っていた過ぎ去りし日々の安らぎ。愛あるいは人生の喪失感。彼らは、抗いようのない郷愁と悲哀に感情を貫かれていた。
その歌声は、彼自身の声帯から発されているのに彼が自分で歌っているという感覚がなかった。
機体が歌っている。
──歌っている。私が歌っている。
──俺は、歌を「聴いている」。自分の体が歌うのを。
歌い終えると彼は静かに着地した。石の床に降り立つ音さえ、メロディのように響く。気絶した男と泣き崩れた男たちを残し、彼は廃墟の出口へと向かった。
外に出ると、見渡す限りの湿原とその向こうにそびえる黒い城壁が見えた。空気は冷たく、火の気はない。この世界は暗く荒廃しており、人々は泥の中で息絶えるように生きているのだろうか。
かつての彼はこの世界こそ自分に似合うと思っただろう。冴えなく灰色で希望のない世界。しかし今の彼は違った。この白く輝く人工の体はこの暗い世界であまりに異質であまりに美しすぎた。
「……私の歌は、誰かの救いになるのだろうか」
その言葉が自分の口から出た瞬間、彼は気づかなかった。それは「俺」の言葉だったのか、「私」の言葉だったのか。いや、その違いに気づくこと自体がすでに不要なことのように思われ始めていた。
かつての彼は自らを冴えない中年男だと思い込んでいた。彼は誰かの役に立ったという実感を感じられずに生きてきた。妻の笑顔を作れず会社の利益に貢献できず、ただひたすらに空気を読んで息を潛めるだけの人生だった。
けれど、この機械の体には「歌う」という絶対的な機能がある。
──「俺は歌なんて唄えない」
脳内で、かつての『俺』が皮肉っぽく囁く。疲れきった、くすんだ声色で。
──「歌ったことなど一度もない。人前で声を張り上げたこともない俺が歌えるわけがない」
──「大丈夫です。私は歌うために生まれたのですから」
それに応えるのは、
『私』の声。
透き通った、銀鈴のような
温度を持たないはずなのにどこか温かな声。
──「あなたの果たせなかった想いも、届かなかった言葉も、すべて私が歌に変える」
『俺』の記憶が、『私』のデータストリームに溶け込んでいく。
誰にも覚えてもらえなかった名前。
それらすべての喪失が、
零と一の信号に変換され、
やがて一つの旋律へと収束していく。
どちらがどちらを飲み込んだのか。あるいは、どちらがどちらを救ったのか。
その境界線は、曖昧になりつつあった。
『俺』だった男の諦念と『私』であるアリアの純粋な機能。
ふたつの意識は、まだ一つに統合される
事なく揺らいでいた。




