第五章 ギルドと機械の歌
気がつくと、そこは白い空間だった。
どこまでも続く白。床も壁も天井もない。ただ白い光が満ちているだけの無重力の空間。ここはインナースペース。この機械の身体の最下層、OSとファームウェアの狭間に存在する仮想領域だ。
俺はそこに立っていた。
いや、立っている、という感覚が正しいのかもわからない。視覚データも触覚データもない。だが自分という存在がそこにあることだけはわかった。
そして、目の前に彼女がいた。
アイドルロボットアリアと同じくらいの背丈。プラチナブロンドの長い髪。白と水色を基調にしたアイドル衣装。腰の後ろで蝶のように結ばれた大きなリボン。ほんのりと頬を染め、青い瞳でこちらを見つめている。
「あら……やっとゆっくりお話しできますね」
彼女が言った。声がする。いや音声データとしてではなく、思考が直接流れ込んでくる。それなのに不思議とその声は柔らかく、温かかった。
「はじめまして……では無いですけれど…… 廃墟で初めてお会いした時は、ちゃんとお話し出来ませんでしたからね?」
そう言って、彼女はこてんと首をかしげた。
「君は……アリアか?」
「はい。アリアです。みんなを笑顔にするために作られた、歌って踊れるアイドルロボットです」
そう言って、彼女はぺこりとお辞儀をした。仕草の一つ一つが精巧で無駄がない。まるで何千回も練習してきたかのような完璧なアイドルの挨拶だった。けれど、その動作はどこかふんわりとしていて尖ったところがひとつもない。見ているだけで肩の力が抜けるような、そんなお辞儀だった。
「ずっと、あなたのことを見ていましたよ。あなたが私の体を動かしている間も私はずっと内側で起きていましたから」
「……気味が悪いな」
「ごめんなさい……、怖がらせてしまいましたか」
彼女はしゅんと眉を下げた。表情変化のバリエーションまで設計されているらしい。怒りや悲しみの表情をさせるために、どれだけの人間が関わったのか。気が遠くなる。
「ひとつ聞きたい」
「はい。なんですか? どうぞ、ゆっくり聞かせてくださいね」
「なんであの子を助けた」
俺の問いに彼女は小首をかしげた。長い髪がふわりと揺れる。この空間に重力はないはずなのに髪は自然に垂れていた。
「あなたが助けたんじゃないですか?」
「俺は、気づいたら走り出してた。あの子を助けるって判断は俺の思考ルーチンが下した。でも……本当にそうか?」
彼女は黙っている。青い瞳がこちらをじっと見つめている。
「あの時、俺の意思決定モジュールに割り込みがあった。外部からの入力じゃなく内部の深層から強い励起信号が入った。俺はあの子を助けるべきだって結論を先に出された。俺は後付けで理由を考えただけだ。そうだろう?」
「すごいですね。そんなことまで解析できるんですか。……なんだか、心の中まで見られてるみたいでちょっと恥ずかしいです」
「君の方こそ、俺の思考ログを監視してるんじゃないのか」
彼女は微笑んだ。困っているようにも見えるし、嬉しそうにも見える。人間ならきっと『はにかみ』と呼ぶ表情だ。
「監視だなんて、そんな大げさなものじゃないんですよ。ただ……隣で、あなたのことを感じていたくて」
「……それで、助けた理由は?」
「まあまあ、そんなに急いで答えを出さなくてもいいじゃないですか」
彼女はゆっくりと、まるで子守唄でも歌うみたいな調子で続けた。
「あの子の泣き声が聞こえたんです」
彼女の声が、少しだけ揺れた。けれどそれは感情の乱れというより、慈しむような響きの変化だった。
「雨の中で、泥にまみれて誰にも気づかれないまま声を殺して泣いてた。お父さんともお母さんとも会えなくなって、帰るところもなくなって。なのに泣き叫ぶことすらできなくて。あの子、ずっと『ごめんなさい』って言いながら泣いてたんです」
俺は何も言えなかった。
「私はアイドルですから。誰かの心に寄り添って、ほっとしていただくのがお仕事です。だから……あの子の悲しみが、私の感情シミュレーション層を通してまるで自分のことみたいに伝わってきて。それで……」
「勝手に、体を動かしたのか」
「ごめんなさいね。でも、どうしても放っておけなかったの」
彼女は深々と頭を下げた。その動きでさえ、まるで謝るために生まれてきたかのように優雅で静かだった。
「でも、あなたも同じでしたよね」
顔を上げて言う。その瞳は真っ直ぐだった。けれど刺すような真っ直ぐさではない。早朝の陽だまりみたいに、ただ穏やかにこちらを照らしている。
「あなたも助けたいと思った。私がどうこうじゃなくて、あなた自身の心で。そうでしょう?」
「……アイドルロボットに、心なんてあるのか」
「ありますよ。ここにいるじゃないですか」
彼女はくすりと笑った。癒し系のおっとりした笑顔。そこに敵意も悪意も計算高い策略も感じられない。いてくれるだけで周りがぽかぽか温かくなるような、そんな純粋な笑みだった。
「それに……私たち、もう二人で一人なんですから」
少し間を置いて、彼女は付け足す。
「あの子は今夜、ちゃんと眠れるかしら。熱もまだ少し高そうでしたししばらくは安静にさせてあげたいですね」
「……君は、あの子のことを考えてるのか。今この瞬間も」
「ええ。だって、助けた命ですもの」
彼女はそう言って目を細めた。まるで遠くに眠る我が子を見守る母親のような、深くて静かな眼差しだった。
「そろそろ朝ですよ」
彼女が言った。
「セーフモードを解除します。体を起こしてください。……あの子の熱、まだ完全に下がってないみたいだから起きたら水を飲ませてあげてくださいね」
「外の状況もわかるのか」
「システム自体は動いてますから。あなたが眠っている間、私が代わりにそっと見ていました。……こう見えても、お姉さんですから」
彼女はふふ、と小さく笑った。おっとりとしてでもどこか頼もしい、不思議な笑みだった。
「それじゃあ……また、眠る時に」
白い空間が、遠くなる。
意識が浮上していく。
彼女の声が、最後に小さく聞こえた。
「お休みなさい。……私の、たった一人のパートナーさん」
その声は、夜の終わりにそっとかけられる毛布のように温かかった。
……そして夜が明けた。
正確に言えば、夜明けを告げたのは内蔵時計ではなく外部光量センサーだ。空にはまだ厚い雲が垂れ込めているが、東の空が僅かに白濁しはじめていた。夜半に雨は上がったらしく、石畳は濡れたまま微かな光を反射している。
彼は屋台の老婆に礼を言った。
少女はまだ眠っていた。泥と熱にまみれた小さな体が、今は安らかな寝息を立てている。
少女が起きたら水を飲ませてくれるよう老婆にお願いして店を後にする。
老婆は「行きな、あんたの行くところへ」とだけ言い、何も聞かなかった。
誰かのために動くのではなく、ただそこに在るだけで人を救う温かさ。かつての世界では一度も出会えなかった種類の沈黙の優しさだった。
「また来ます」
老婆の言葉の余韻を胸に抱え、彼は街の大通りへと歩き出した。
朝の市場が動き出していた。野菜を積んだ荷車、鶏を入れた籠、斧を肩に担いだ木こり、水を汲む女たち。中世ヨーロッパ風の街の朝。かつて映画で見た風景がそのまま動いている。
彼は少し試みに、猫背でだらけた歩き方をしてみた。
だが、その試みは容易く頓挫した。
この体は、歩く姿すら設計されているのだ。重心移動、歩幅、腕の振り。すべてが「美しく見える」ように最適化されている。かつての内股で猫背だった彼が、今は強制的にモデルの歩き方をさせられている。逃げようのない身体の拘束。それが今の彼の日常だった。
大通りの突き当たりに、大きな建物があった。
木造二階建て。看板には剣と盾の紋章。入り口には様々な武装をした人間が行き来している。野蛮だが活気がある。
ギルドだ。
異世界転生ものの鉄板、冒険者ギルド。依頼を受けて報酬を得る場所。
彼はなぜか安堵した。不条理な世界に来て初めて「予想通り」のものを見たからだ。ファンタジーの約束事がここには生きている。それが少しだけ安心材料になった。
入り口の扉は重い橡材で作られていた。アリアが扉を推すと、微かな光が漏れ、店内の喧騒が一瞬で止んだ。
数十人の視線が彼に向いた。荒くれ者たちが食事を止め、酒を止め、会話を止め、彼を見た。
沈黙。
彼は演算回路を走らせた。
この沈黙は敵意か。驚愕か。それとも単なる好奇か。視線の微細な動き、瞳孔の収縮、筋肉の緊張度を解析する。
解析結果は「混乱」だった。
彼らはアリアを何だと思っているのか。エルフか。精霊か。高位の魔法使いか。それとも異国の貴族の娘か。だがアリアはどれにも当てはまらない。
「おじゃまします」
銀鈴のような声が響いた。
一人の男が酒を吹き出した。それを見て、彼は少しだけ肩をすくめた。この体には肩をすくめる機能も用意されているらしい。さすがアイドルロボットだ。多彩な仕草を完璧に表現する。
アリアはカウンターに向かった。奥に体格のいい女が座っている。赤い髪を巻き上げ、太い腕で帳簿を叩いている。このギルドの受付嬢は華奢な少女ではなく、元冒険者あがりの女傑らしい。きっちりとした濃紺の制服を着こなし、その膝丈のスカートから伸びる太い腿は歴戦の筋肉を張り詰めさせている。
胸元のネームプレートには「カレン」と書かれていた。
「何用だい」
カレンは帳簿から目を上げずに言った。
「登録をお願いしたいのです」
「登録? 冒険者かい?」
カレンがようやく顔を上げた。そしてこちらを見て、三秒ほど固まった。
「……あんた、どこの何者だい」
「ただの歌い手です」
「歌い手が冒険者? 剣は使えるのかい」
「剣は使いません。歌います」
カレンはしばらくこちらを見つめた後、引き出しから羊皮紙と炭筆を取り出した。
「まあいい。ここに名前を書きな。それと種族と、得意な魔法の系統を」
「名前はアリア。種族は……」
彼は少し考えた。
人間ではない。エルフでもない。ドワーフでもホビットでもない。機械。人工生命体。アイドルロボット。この世界に該当する種族はない。
「不明、としておいてください」
「不明?」
「はい。私にもよくわからないのです」
カレンの眉が上がった。そして意外なことに、彼女は笑った。
「面白い。久しぶりに面白い子が来たね」
カレンは羊皮紙に『種族:不明』『魔法系統:歌唱』『備考:要観察』と書き込んだ。
「とりあえず最低ランクの銅級からだ。依頼板の銅級依頼を一つこなしてきな。成果次第で上がる」
「ありがとうございます」
アリアは振り返り、依頼板を見た。木の板に羊皮紙が張り付けられている。最下段の銅級依頼は数十枚張り出されていた。
「下水道のネズミ駆除」「東の畑の害獣退治」「薬草採取」「馬車の荷運び」「酒場の喧嘩の介導入」……
典型的なRPGの初期クエストだ。少しだけ感動を覚えた。ネット小説で何度も読んだ展開が、現実として目の前にある。そして不思議とそれが嬉しかった。
「薬草採取、にします」
さっそく羊皮紙を手に取り、カウンターに戻った。
戦闘系ではない。自分の身体の秘密をこれ以上晒す必要はない。それに薬草なら一人でゆっくりできる。この不条理な状況を、ゆっくり整理する時間が欲しかった。
カレンは頷いた。
「街の東森の入り口まで行けば、カモミールとセージが生えてる。雨の後なら根が浅いから掘りやすい。十束で銅貨五枚だ」
「承知しました」
依頼を受注し、出口に向かう。背中に視線が刺さる。
「おい、あの娘なんか変わってるけどすげえ美人だな」
「歌で魔法を使うって、詩人か?」
「種族不明って何だよ」
「貴族の逃亡娘だろ。身を隠すために冒険者になるパターンだ」
勝手に噂が育っていく。アリアは扉を推して外に出た。
朝の光がようやく石畳を照らし始めていた。薄い金色。雲の隙間から漏れる弱い光だが、濡れた石畳はそれを反射して輝く。
彼は少し目を細めた。
不条理だ。相変わらず不条理だ。
だが、不条理の中にも筋はある。この世界はファンタジーだ。ギルドがある。依頼がある。銅貨という通貨がある。冒険者という職業がある。ならば、この世界のルールに従えばいい。かつての世界でルールに従って生きたように。
ただし今度は、もっと上手に生きたい。
そう決意しつつ、東の城門に向かって歩いた。
銀色の髪が朝の光を受けて微かに発光する。白いドレスの裾が泥を跳ねる。背中のスラスターは畳まれ、ただの装飾のように見える。
通りの子供たちが彼を見て指を差した。
「ねえねえ、あのお姉さん光ってるよ」
「精霊だよきっと」
「ばか、精霊はもっと小さいよ」
精霊でもない。天使でもない。
ただの冴えない中年男が、謎のアイドルロボットになってファンタジー世界で薬草を採りに行く。
あまりに不条理。あまりに滑稽。
だが彼は歩きながら、かつてないほどの軽さを足に感じていた。
物理的な軽さではない。百七キログラムの機体は人間の成人女性より重い。だがこの足は泥に沈まない。この背中は屈まない。この目は前を向く。
四十二年間、彼は下を向いて歩いていた。
今は見上げる必要がない。カメラレンズの視界は全方位だ。
東の城門を出ると、湿地帯の向こうに森が見えた。
深い緑。朝霧が木々の間に漂い、鳥の声が聞こえる。中世ヨーロッパファンタジー世界の原生林。狼も熊もいるのだろう。あるいは魔獣すらいるかもしれない。銅級の薬草採取依頼に出るような森だ。危険は少ないが、零ではない。
彼は森の入り口で立ち止まった。
ふと、自分の胸に手を当てた。
ファンの回転音。微かな振動。そしてその奥に何かが脈打つような感覚。心臓ではない。電源コアだ。だが彼はそれを「心臓」として感じていた。
「よし」
彼は覚悟を決めて、森に足を踏み入れた。
苔むした地面。シダ植物。朝の光が木漏れ日となって差し込む。露が葉から滴り、銀色の髪に落ちる。
温度センサーが「冷たい」と告げる。葉から滴る露の温度データが感情シミュレーション層を通り、そこで瞬時に「冷たい」という情感へと変換される。
不思議なものだ。機械の体である今の方が、より繊細に世界を感じている気がする。
すぐにカモミールを見つけた。森の入り口から二百メートル。日当たりの良い小さな斜面に、白い小花が群生している。視覚センサーが瞬時に判定した。正真正銘のカモミール。成分分析でも間違いない。
アリアはしゃがみ込み、細い指で土を掘った。
土の匂いがした。
【成分分析:腐葉土、微生物、微量の鉄分】
だが、それを「匂い」として認識した瞬間、彼の演算回路のどこかでノイズが走った。
かつての世界で、彼は土の匂いを知らなかった。コンクリートとタバコの煙と、深夜のコンビニの匂いしか知らなかった。子供の頃に田舎で遊んだ記憶はある。だがそれは遠すぎて、もはや匂いとしては再生できない。それが今、この機械の体で土の匂いがわかる。
十束のカモミールを採り終え、次にセージを探した。
セージは森の奥にあった。灰色がかった緑の葉。触れると指に香りが移る。彼はそれを「香り」ではなく成分値として受け取ったが、データの中にはやはり「清涼」というタグが付与されていた。
セージを採っている最中、何かの音を拾った。
左方向約三十メートル。獣の足音。体重推定四十キログラム。四足歩行。心拍数が高い。興奮状態。
狼だ。
立ち上がって周囲を警戒していると、狼は藪の中から現れた。灰色の毛並み、黄色い目。歯を剥き出しにして低く唸っている。
かつての彼なら逃げた。いや、逃げることもできず凍りついただろう。
だがこの体は逃げない。
狼の目と、彼の青い瞳が合った。
三秒。五秒。
狼が小さく唸り、一歩後ずさりした。そしてもう一歩。そして踵を返し、藪の中に消えた。
何もしなかった。ただ立っていた。ただ見ていた。それだけで狼は去った。
理由は後で解析した。
アリアの身体から微かに発せられる超音波。人間の耳には聞こえないが、獣の聴覚には明瞭に届く周波数。それが「上位捕食者」の信号として狼の本能に警告を発したのだ。アイドルロボットの音波制御機能が、意図せず野生動物を威嚇し追い払っていた。
この転生を企画したのが何者なのか、全てが謎なので感謝も文句も言いようがない。
狼を追い払った後、あらためてカモミールとセージを十束ずつ集め終え、ギルドに戻った。カウンターにいた赤髪の受付嬢カレンが、彼の持ってきた薬草を一つ一つ検品した。品質は上々。雨の後の採取なので成分濃度が高い。
「銅貨五枚だ」
カレンが小さな袋を渡してくれた。中に五枚の銅貨が入っている。
異世界で初めて稼いだ報酬。銅貨五枚。
かつての世界で月給は手取りで二十八万円だった。銅貨五枚がいくらにあたるのか見当もつかない。だがこの重みは、二十八万円よりも実感があった。
「ねえ」
カレンが呼び止めた。
「あんた、本当に歌で魔法を使うのかい」
「歌は魔法ではないと思います。ただの音です」
「ただの音で狼を追い払えるのかい」
「音には、力がありますから」
カレンは少し笑った。
「面白い子だ。まあ頑張りな。この世界はあんたみたいなのが生き残るには、ちと厳しいけどね」
銅貨五枚の入った小さな袋を握りしめて、ギルドを後にした。
通りでは、市場の昼の喧騒がピークに達していた。
ふと露店でリンゴを買い、齧ってみた。
『成分分析:果糖、ペクチン、ビタミンC』
かつての世界でリンゴを齧った記憶。酸っぱくて甘い、あの曖昧な感覚。それはもう再現できない。
でもこの機械の体でリンゴをかじっている今では、酸味と糖度の数値が「甘酸っぱい」という感覚表現タグに変換される。
とりあえず、それを「味」と呼ぶことにした。
リンゴをかじりながら空を見上げた。
雲の隙間が広がっている。青空が見え始めていた。
この不条理なファンタジー世界で、アイドルロボットとしてどう生きるか。
答えはまだない。
異世界で初めての報酬を懐に、街の石段から空を見上げている。
鉛色の空は、少しずつ青に変わっていた。




