第二十七章 緑ジャージの記憶
彼はジャージの袖口を指で弄びながら窓の外を見た。
夕暮れの王都が眼下に広がっている。
橙色の光が白い壁を染め、街のあちこちに灯りが点り始めていた。
かつての世界の夕暮れと似ているようで全く違う。
あの頃は窓の外を見ることさえ億劫だった。
カーテンを閉め切った六畳の部屋で、スマートフォンの光だけを顔に浴びて生きていた。
今は八角形の窓から王都を見下ろしている。
彼は机の上の報告書を手に取った。
ジャージの袖がふわりと揺れる。
緑の布。かつての世界で彼が着ていたジャージと同じ色。
自分で選んだわけではない。
形状変形繊維が「着用者の最も安らいだ記憶」を読み取って再現した結果がこの緑色のジャージだった。
彼の最も安らいだ記憶がジャージとは。泣けてくる話だ。
報告書をめくる。
アリアの活動記録が時系列でまとめられている。
ミルフィアのギルドに登録した日。
初めて銅級の徽章を受け取った日。
宿屋の幽霊を歌で弔った日。領主の息子を治した日。歌謡祭で優勝し市民権を得た日。サラン村で死霊兵士を弔った日。ヴェラと戦った日。クローネンで闇奴隷市場を解放した日。帰路で盗賊団を壊滅させた日。
読むたびに彼の心は複雑に揺れた。
「ずいぶんと頑張るじゃないか」
涼やかな声が執務室に響いた。その声には微かな笑みが混ざっていた。皮肉でも揶揄でもない。どちらかと言えばそれは誇りに近い感情だった。
アリアは彼のコピーだった。
元の世界で死んだ時点の記憶と人格だけを移植された機体。転移後の記憶は削除した。だからアリアは自分が誰のコピーなのか知らない。
知らずにアリアとして生きている。
四十二年間何もできなかった男の記憶を宿しながら、
その男ができなかったことを次々とやり遂げている。
人と出会い人を助け人に感謝され人を守り人を愛し人に愛されている。それはかつての彼が夢見て、しかし一度も手に入れられなかったものだった。
「うまくいきすぎているのが逆に怖いな」
彼は言った。
アリアの成長速度は予想を超えている。
コピーされた記憶と人格が機体本来のコアプログラムと融合し新しい人格を生み出しつつある。
それは彼のコピーでありながら彼ではない何かだ。
いやもはや彼のコピーですらないかもしれない。
アリアはアリアとして完全に独立した存在になりつつある。
それは彼の計画にとって良いことなのか悪いことなのか。
彼は少し考えたがすぐに思考を打ち切った。
考えすぎるのはかつての悪癖だ。
夜中に天井を見つめて考え続け朝になっても答えが出ず眠らぬまま会社に行く。
あの連鎖はもうやめたはずだ。
「私は私でやるべきことをやるだけだ」
彼は報告書を机に置いた。




