第二十六章 暁の支配者
王都の中央白亜の宮殿。
謁見の間は高く狭い天井に付きられた窓から差し込む朝の光が磨き上げられた大理石の床の上に光の筋を落としていた。その光の筋の先玉座の前に立つのは王国の王アルブレヒト三世。白髪混じりの髪に深い皺。だがその眼光は衰えず六十を超えた今なお鋭い光を宿している。
王の左右には大貴族が四人。いずれもこの王国の骨格を成す名家の当主たちだ。公爵二名、侯爵二名。
彼らは今日極めて限られた者しか許されない接見に呼ばれていた。
彼らが知らされていた内容はただ一つ。
星詠みの塔の主が、定例拝謁に来るという事だけだった。
「来るぞ」
王が短く言った。
大貴族たちが背筋を伸ばした。
星詠みの塔。
古来より王国の影に在り国家存亡の危機にのみその姿を現すとされる機関。
彼ら大貴族でさえその実態に触れることはほとんどない。
実在するかどうかすら怪しい伝説めいた組織。
だが王は知っていた。
そして彼らもまたその力が伝説ではないことを薄々感じ取っていた。
五年前の戦乱が終結した経緯に不可解な点がいくつもあったからだ。
謁見の間の大扉が音もなく開いた。
一人の少女が歩み出で来た。
大貴族たちの目が一斉に見開かれた。
まず目を引いたのは身長だった。百五十センチに届くかどうか。小柄だ。だがその歩みには一寸の狂いもなかった。
背筋は真っ直ぐに伸び顔は真っ直ぐに前を向き視線は玉座を真っ直ぐに見据えている。
そして容姿だった。
肌は白磁のように白く滑らかで陽の光を受けて微かに発光しているかのように見えた。
長い金髪が腰まで届き歩みに合わせて揺れるたびに一本一本が糸のように光を弾いた。
瞳は金色。
淡い蜂蜜色ではなくもっと純粋で鋭い金属的な金色。
その瞳の奥では微かに光の輪が回転しているのが見える。
服装は黒と金を基調とした礼服だった。
仕立ては完璧で寸法の狂いは一切ない。
肩のラインから腰の曲線まで布が体に密着し動くたびに布の質感が変化する。
自己修復機能を持つ形状変形繊維。
極上のシルクの質感と金属的な硬質さが同居した不思議な布地だ。
それは貴族の令嬢のドレスでありながら同時に武人の甲冑でもあるような不思議な装いだった。可憐さと凛々しさと高貴さが一つの服の中に同居している。
彼女が玉座の前で恭しく跪く。
「お久しぶりです陛下。お変わりなく」
声が響いた。
涼やかで可愛らしくそしてどこまでも澄んだ声だった。銀鈴のソプラノではなくもっと柔らかく人の耳に馴染む音声。聴く者を自然と和ませる周波数がそこにあった。だが同時にその声には一つの命令を含むような微かな圧が含まれていた。
大貴族の一人が思わず息を呑んだ。
これが星詠みの塔の主なのか。この可憐な少女が戦乱の影で国を動かしたという伝説の機関の長とは。
王は玉座から少女を見下ろした。
表情は動かない。
だがその目の奥に微かな畏敬の念があった。
「うむ、そなたこそ息災で何よりだ。星詠みの塔の主としてこの五カ年、随分と尽力してくれた、礼を言うぞ」
少女は微かに口元を緩めた。その微笑みは年齢よりもずっと深い知恵を感じさせた。
「恐れ入ります陛下、星詠みの塔はこれまでもこれからも、この国が闇に沈みそうになる時の一条の星の光として在り続けます。それだけは陛下に改めてお約束できます」
「心強いな。だが、あまり無理をするでない。お前たちにはお前たちの使命がある。それはわかっておるが、あまりに小さな肩に国を背負わせるのは私の本意ではない」
「身に余るお言葉、恐悦至極に存じます。ですがこの肩は見た目よりずっと頑丈です」
少女が軽く笑った。その声が謁見の間に涼やかに響く。
大貴族たちは、王と少女の間に流れる空気に主従でも友でもない、もっと深い歴史上の連帯のようなものを感じていた。
「近々、星詠みの塔の活動について改めてご報告いたします。本日はご挨拶のみで失礼いたします」
「うむ。良い報告を待っている」
少女は恭しく一礼した。
大貴族たちは少女の背中を見送った。その背中は小さかった。だがその歩みには一片の迷いもなかった。謁見の間の大扉が閉まるまで彼らは一言も発しなかった。
扉が閉まると伯爵の一人が吐き出すように言った。
「……あれが星詠みの塔の主ですか。あのような幼い少女が」
「幼い?」
王は玉座に深く腰掛けながら呟いた。
「あやつらの可憐さに目を奪われてはいかんぞ」
「しかし……」
「星詠みの塔は古来より国家の最も暗い夜にのみ灯を点ける。国家が滅びるか滅びないかの瀬戸際にのみ現れ表舞台からは一切姿を消す。だが姿を消している間も彼らは動いている。誰にも見えない場所でこの国の根を守り続けている。口出しは無用。王である私でさえ彼らに指図はせん。出来ぬのだ。歴代の王が残した言葉がある。『星詠みの塔に逆らえば国は滅ぶ』と」
大貴族たちは顔を見合わせた。
王は天井を見上げた。
「恐ろしい奴らだ」
その声には恐怖ではなかった。畏怖だった。長年の戦乱と政治的駆け引きで国の裏側を知り尽くした老人がなお畏れるもの。それが星詠みの塔だった。
星詠みの塔の最上階、執務室。
塔の主は窓から王都を俯瞰に見下ろしながら先ほどの王の言葉を反芻していた。
「恐ろしい、ねえ……」
声に出してみると滑稽だった。
かつての自分は恐れられるような人間ではなかった。
恐れられるどころか存在すら認識されていなかった。
それが今は一国の王から「恐ろしい」と言われている。
彼はため息をついた。
涼やかな可愛らしい声のため息が広い執務室に響き渡った。この声にもまだ慣れない。四十二歳の男の胃の底から湧き上がるため息がこんなに澄んだ音になるとは。
執務室は円形の広い部屋だった。壁一面が本棚で埋め尽くされ中央に大きな机がある。窓は八角形で全方位の景色を見渡せる。王都の街並みが眼下に広がり遠くに城壁が見える。机の上には古い文献と羊皮紙が散乱しているが秩序を持って散らばっている。彼なりの整理法だ。
彼は礼服に手を触れた。
黒と金の形状変形繊維が微かに振動し繊維の配列が変わっていく。硬質な礼服の質感が溶けるように柔らかくなり色が薄れ形が変わっていく。
数秒後には黒と金の礼服は緑色のジャージに変化していた。
上下揃いの緑ジャージ。
ポリエステルの質感を再現したゆるいシルエット。
胸元には何のロゴもないただの無地。
ウエストのゴムは緩すぎずきつすぎず。
袖口は親指を通せる穴付き。ズボンの裾は絞り込まれている。
「家ではこれでいいか」
彼はジャージの胸元を引っ張り深く座り直した。
至高のリラックスモード。
戦場帰りの兵士が甲冑を脱ぎ捨てる瞬間の解放感。
それと同じものが今の彼にあった。
かつての世界では帰宅するとすぐにジャージに着替えていた。
スーツを脱ぎ捨て弛んだゴムのパンツを穿いて
冷蔵庫を開ける。それが彼の儀式だった。
四十二年間で唯一の楽しみと言ってもよかった。
今は冷蔵庫はない。冷蔵庫のブーンという音もない。
だがジャージはある。
形状変形繊維は着用者の意思に応じて瞬時に変化する。
礼服からアイドルのドレス姿から戦闘服から何にでもなれる。
だが彼が最も頻繁に選ぶのはジャージだった。
まあいい。家ではジャージで。外では礼服で。
かつては会社ではスーツで家ではジャージだった。
今は会社が王宮で家が塔だ。
表面上は変わっていない。
ジャージの袖口を引っ張り親指を通す。
あの頃と同じ仕草。
だが今の袖口は形状変形繊維で出来ている。
鉄の爪の一撃を受ければシールドとして展開するし極低温環境下なら保温モードに切り替わる。
ジャージでありながらジャージではない。
だが着心地はジャージだ。それが大事なのだ。
彼は机の上の文献を手に取った。古い記録。失われた時代の機体開発ログの断片。
文字は薄れ虫食いがあるが彼には読める。
古代の技術言語は彼の脳に直接刻まれているからだ。
彼の本名はもうどうでもよかった。
かつての世界での名前もこの世界での名前も今はただの識別子だ。
彼は今星詠みの塔の主として活動している。
この世界の人間からは「金の姫君」と呼ばれることがある。似つかわしくない呼び名だ。
彼の中身は冴えない中年男なのだから。
「冴えない中年男か」
自嘲気味に呟く。
冴えない中年男。その言葉が自分を最も正確に表現していると彼は思っていた。
四十二年間人生の主役を演じきれなかったモブの中のモブ。妻に逃げられ子供もおらず会社では名前さえ覚えられない存在。
人生の陰日向を知り尽くした果てに静かに枯れて死んだ。
死んだはずだった。
だが意識は消えなかった。
目が覚めるとそこは見知らぬ世界だった。
中世ヨーロッパ風の石造りの部屋。
窓の外には見たことのない星空。
空気は清潔で嗅いだ事のない不思議な匂いが混じっていた。
そして彼の体は元のままの男の体だった。
転移は実体のまま行われた。
四十二歳の疲れ切った肉体がそのままこの世界に放り込まれた。
考えられない現象だった。
だが事実だった。
彼はこの世界に来て最初の三日間を混乱と恐怖の中で過ごした。
何も知らない世界で何の力もない中年男が一人で放り出される。それは死と隣り合わせの不条理だった。
それでも彼は生き延びた。
いや生かされたと言うべきか。
彼を主として受け入れたのは星詠みの塔という組織だった。塔は古来より主が死ぬと、
新たに異世界この地へ落ちてくる転移者を
主として迎え入れていた。
そして転移者には共通して何かしらの一つの特殊な能力が備わっていた。
彼にもその能力があった。
彼には転移時に彼は古代の遺産を自由にコントロールできるスキルが付与されていたのだ。
それは魔法ではなかった。
彼が持っているのは遺物に対する絶対的なアクセス権だった。
遺跡のシステムにアクセスし起動停止操作を行う。古代の機械の言語を読み解きコードを書き換える。
その能力によって彼は星詠みの塔の内部に眠る古代の遺構を次々と起動した。
塔自体が古代の遺物だった。
三百年前に建てられたのではない。
三百年前に発掘されたのだ。
五年前の戦乱ではこの能力を使い戦局を裏で操作した。
表の歴史には残らない。
だが王は知っている。
星詠みの塔が動かなければ王国は滅んでいたことを。
しかし、転移後の彼の体は長くはもたなかった。
元の世界での不養生が祟ったのだ。
元々健康ではなかった。
疲労と絶望による緩やかな死。
結核でも癌でもない。
ただの消耗
。四十歳を超えてからは階段を登るだけで息が切れ夜は腰痛で眠れず健康診断の結果は毎年「要経過観察」だった。
その消耗が異世界転移でさらに加速した。
肉体の限界だった。
二度目の死を前にして彼は選んだ。
脳移植を。
星詠みの塔が保管していた機体の中に最適なものがあった。
E.O.S-01。
暁型統括制御ユニット。通称ソラリス。
それが彼の新しい体だった。
「まあいい。とりあえずただ死ぬよりはマシだ」
当時の彼はそう思った。それが彼の口癖だった。「まあいい」。何が起きても「まあいい」で済ませる。逃げた時も「まあいい」。失敗した時も「まあいい」。妻が出て行った時も「まあいい」。それが彼の防衛機能だった。
全自動サージカルシステムによる脳移植は成功した。
彼はソラリスという機体に完全に統合された。だが統合されたことで彼は自分が人間だった時の『生の感覚』の殆どを失った。味覚嗅覚触覚温覚痛覚。それらはすべてデータとして処理される。人間の彼が感じていた「温かい」という感覚は今は「温度三十六度八分」という数値に過ぎない。
だが生きていた。まあいい、とりあえずそれでいい。




