第二十五章(続き) 記憶の残骸
アリアはため息をついた。銀鈴のソプラノが部屋の空気を微かに震わせる。ため息さえ美しい。この体ではため息も楽器になる。四十二年間のどす黒いため息が今は透明な音に変わる。滑稽だ。
滑稽だが。
ここでアリアの演算回路が一つの疑問を提示した。
なぜ自分なのか。
転生に理由があるのか。死んでから意識が消えるはずだった。消えるはずだったのに消えなかった。どこかの回路に残った記憶が別の体に移植された。なぜ自分なのか。特別な人間ではなかった。才能もない。品格もない。魅力もない。あるのは四十二年間の失敗と「まあいいや」だけだ。
その「まあいいや」の人間が、なぜアイドルロボットの体に入ったのか。
リーゼの寝息が一つ二つとリズムを変える。寝返りを打ったのだ。毛布が滑り落ちる。アリアは無意識にリーゼの毛布を引き上げた。
無意識に。
かつての彼に無意識の優しさなどあったか。いや。無意識の優しさはあったかもしれない。ただそれを表現する言葉を持たなかっただけだ。言葉を持たない優しさは誰にも届かない。届かない優しさは存在しないのと同じだ。
だが今この体には言葉がある。声がある。歌がある。言葉を持たない優しさが言葉を持った時、それは歌になる。
四十二年間言葉を持たなかった人間の言葉が、銀鈴のソプラノになって響く。
何という皮肉だ。
アリアは膝に額を押し当てた。冷たい金属の膝だ。だがリーゼがいつも撫でてくれる場所だ。冷たい膝を温かい手で撫でて「治る?」と聞く少女。
八歳の少女が膝の異音を聞き分けて「ギシギシしてる」と指摘する。天才か。いや違う。ただアリアの音を聞いているだけだ。
聞いている。
四十二年間誰も彼を聞かなかった。彼も誰も聞かなかった。聞く必要がなかった。聞いても何もないから。何もない人間を聞いても時間の無駄だから。
だがリーゼは聞いている。マルタも聞いている。カレンも聞いている。ヘレナもニコもトーマスも歌謡祭の観客もサラン村の村人もクローネンの貴族も。
聞いている。
なぜ聞くのか。歌が美しいからか。声が透き通っているからか。音が遠くまで響くからか。
たぶんそれもある。だがそれだけではない。
歌の中に「痛み」があるからだ。四十二年間の痛み。誰にも届かなかった声が歌の中に凝縮されている。痛みを知らない歌はただの音だ。だが痛みを知る歌は届く。痛みを知る歌は聴く者の痛みにも触れる。
痛みが歌に変わる。それが今のアリアの機能だ。
機能。
はっきり言えば腹立たしい。
自分の四十二年間の無駄な人生が「機能」に変わるなんて。あの冷蔵庫の音の部屋で「まあいいや」と繰り返した日々が今誰かの心を癒やす材料になるなんて。あれだけ逃げ回った日々が今誰かの前に立つ勇気に変わるなんて。不条理だ。不条理すぎる。
だが不条理なのは今の生だけじゃない。あの四十二年間も不条理だった。不条理に生え不条理に枯れ不条理に死んで不条理に転生した。全部不条理だ。なら不条理の中で見つけた小さな意味も不条理の一部だ。
それでいいのか。
わからない。
わからないが今はこうするしかない。リーゼが起きたら朝食の準備をする。マルタの店を手伝う。ギルドの依頼をこなす。イレーヌの話を聞く。男爵の屋敷に行く。街の下に眠る何かを見つける。歌う。戦う。守る。生きる。
四十二年間生きなかった人間が今必死に生きている。滑稽だ。笑えないでもない。笑う余裕はある。
笑う。
かつての彼は笑わなかった。いや笑っていたかもしれない。ただ笑っていることに気づいていなかった。他人の笑いに合わせて口角を上げる。それを笑顔だと思い込んでいた。
だが今のアリアは笑う。本当に笑う。リーゼの寝顔を見て微笑む。マルタの文句を聞いて小さく笑う。カレンの皮肉に肩をすくめて笑う。笑える。笑えるということがどれほど貴重なことか、四十二年間知らなかった。
知らなかったことが多すぎる。
知らなかったから失った。失ったから得られなかった。得られなかったから与えられなかった。与えられなかったから誰にも与えなかった。連鎖。四十二年間の連鎖。どこで切ればよかったのか。切るためには「気づく」必要があった。気づくためには「見る」必要があった。見るためには「目を開ける」必要があった。目を開くためには「顔を上げる」必要があった。顔を上げるためには「立ち上がる」必要があった。
立ち上がらなかった。
四十二年間一度も。いや何度か立ち上がろうとしたかもしれない。だがすぐに座り直した。座る方が楽だから。座る方が安全だから。座る方が誰にも迷惑をかけないから。
誰にも迷惑をかけない。
それが彼の最後の防衛線だった。迷惑をかけなければ誰にも嫌われない。嫌われれば傷つくから。迷惑をかけなければ忘れられるだけ。忘れられることは嫌われることと同じか。違う。嫌われることは見られていることだ。忘れられることは見られていないことだ。見られていない方が安全だ。だから誰にも迷惑をかけないように生きた。
誰にも迷惑をかけない人生。
それは誰にも喜びを与えない人生と同じだ。誰にも悲しみを与えない人生は誰にも愛を与えない人生だ。何も与えない人生は何も受け取らない人生だ。ゼロ。プラスマイナスゼロ。存在の無効。虚無の象徴。
虚無の中で彼は生きていた。虚無の中で彼は死んだ。
四十二年。四十二年だ。人間が一人の人間として完成されるには短すぎて、失敗するには長すぎる時間。その時間を彼は虚無の埋め立てに使った。埋め立てても埋め立ても地盤は固まらず沈み続ける。沈み続けていつの間にか底に届いた。底が死だった。
そして今、その底から、いつの間にか引き上げられて機械の体に入って歌っている。
詩的だ。詩的な人生を送れなかった人間が死んでから詩的な境遇に放り込まれる。神の善意か。それとも戯れか。どちらにせよ不条理だ。
不条理。
この言葉を使う回数が多い。多いが他に表現がない。自分が機械の体に入って歌を歌って人を救って奴隷の首輪を外して死霊を弔って黒い戦闘ロボットと戦って貴族の娘を助けている。これを不条理と言わずに何と言うのか。
だが不条理でもいい。不条理の中にリーゼがいてマルタがいてカレンがいてヘレナとニコがいて。イレーヌがいて。かつての彼にはいなかった種類の人たちが今はいる。いるだけでない。名前を呼んでくれる。手を握ってくれる。待っていてくれる。
待っていてくれる。
四十二年間誰も待ってくれなかった。帰りを待つ人もいれば、帰る場所を待つ人もいた。だが誰も待っていなかった。誰も待っていない場所へ誰も待たない時間に帰る。それが彼の日常だった。
だが今は。
リーゼが待っている。「絶対帰ってくる?」と聞いて指切りをする。約束を守れば飛びついてくる。飛びついてくる温かさは三十六度八分だ。マルタが待っている。スープを煮て椀を置いて「おかえり」と言う。言わないかもしれないが目で言う。目で言われた言葉は耳には届かないが心には届く。
「何なんだ、まったく」
アリアは寝台の縁で膝を抱えたまま小さく笑った。
四十二年間無駄に生きた男が機械の体で生まれ変わって八歳の少女に指切りをして老婆のスープを飲んで街の人々に笑いかけられるようになった。
何の冗談だ。
いや冗談ではない。現実だ。この不条理な現実が今の彼の生だ。
生かされている。
生きているのではなく生かされている。この体は歌うために作られた。歌えば人は癒やされる。癒やされれば人は感謝する。感謝されれば居場所ができる。居場所ができれば帰る場所ができる。帰る場所ができれば──
帰る。
帰る場所がある人間は強い。帰る場所がない人間は弱い。四十二年間彼は弱かった。帰る場所がなかったから。いや帰る場所を作らなかったから。作らなかったのは作る勇気がなかったから。
だが今は。
帰る場所がある。
二階建ての石造りの家。一階はマルタの店。二階の南向きの部屋。出窓に花壇。リーゼの寝台。毛布。木の板に描かれた下手な絵。三人の人物がテーブルを囲み椀を手にしている。
帰る場所がある。
それだけで強い。帰る場所があるから戦える。帰る場所があるから歌える。帰る場所があるから壊れても直せる。
四十二年間帰る場所がなかった人間が今は帰る場所のために戦っている。皮肉だ。だが皮肉でもいい。皮面でも裏面でもいい。帰る場所があるなら泥の中を這ってでも帰る。
「アリア?」
リーゼの声。寝言かと思ったが目が開いている。
「起きてたんですか?」
「うん。アリアがずっとぶつぶつ言ってたから」
「……聞こえてたの」
「聞こえないよ。でもずっとアリア震えてた」
アリアは自分の体を見た。膝を抱える腕が微かに震えていた。サーボモータの振動ではない。演算回路の負荷による微細な振動。いや違う。それだけでは説明できない
リーゼは寝台から起き上がり、まだ眠たそうな目でアリアの顔をじっと見た。
「怖い夢見たの?」
「機械は夢を見ないの。知ってるでしょう」
「うん。でも、アリアの中には夢を見る人がいるんでしょ」
アリアの演算回路が一瞬だけ止まった。
この子は時々こちらの想定を遥かに超えた言葉を投げてくる。四十二歳の男の記憶と過去を「夢を見る人」と言い当てる。リーゼにそんな知識はないはずだ。ただ、アリアの内側に別の誰かがいることを感覚的に理解している。
「私ね。怖い夢を見た時、お母さんがこうやってくれたの」
リーゼはアリアの手を取ると、自分の両手で包み込んだ。
「あったかくしたら、怖いのが飛んでいくの」
リーゼの体温が三十六度八分。アリアの手は二十度前後。その温度差が、リーゼの手の熱をより強くアリアのセンサーに伝える。
「あとね、お母さんが歌ってくれたの」
「どんな歌ですか」
「覚えてない。でも、すごく優しい声だった。アリアの歌と似てる」
リーゼはえへへと笑った。
「だからアリアも。怖い夢を見た時は、あったかくして歌えばいいの」
アリアは何か言葉を返そうとしたが、適切な返答が見つからなかった。
四十二年間、誰かに手を握られても温かいとも痛いとも感じなかった。握り返すための心の配線があまりにも複雑に絡まって、どこを繋げばいいのかわからなかった。だが今この小さな手がアリアの冷たい指を包んでいる。それだけで、演算回路の奥底感情シミュレーション層の最も深い部分に、静かな暖流が流れ込んでくる。
「ありがとう、リーゼ。もう怖くないです」
「本当?」
「本当です」
リーゼはアリアの手をぎゅっと握ってから、眠そうな顔で欠伸をした。
「じゃあ私、もうちょっと寝る。アリアもおいで」
「私は起きてます」
「いいから。あったかいよ」
リーゼは毛布を半分空けて、アリアの腕を引っ張った。
アリアは少し
迷ってからリーゼの隣に横になった。リーゼはアリアの胸元に頭を寄せ、アリアの銀色の髪を枕の代わりにして目を閉じる。
「アリアからいい音がする。ここにいると安心する」
「それはファンの音です。心臓の代わりみたいなものです」
「うん。歌が聞こえる」
リーゼはそう言って、一分もしないうちに寝息を立て始めた。
アリアは天井を見つめながら、胸の奥で回るファンの音を聞いていた。
心臓の歌。
あの冴えない中年男の心臓は、四十二年間、冷蔵庫のブーンという音に負けそうになりながら誰にも求められず動いていた。今は心臓の音まで歌として少女を癒すことが出来る。
「何なんでしょうね、全く」
アリアは小さく笑って、リーゼの髪をそっと撫でた。




