第二十一章 鐘の残響
三日後、アリアはギルドのカウンターに立っていた。
カウンターの向こうにはいつもと同じクローネンの受付係が座り、その手にはミルフィアからの手紙が握られている。
ギルドからの騎馬伝令が届いたのは今朝のことだ。
カレンからの返信。
羽根ペンで書かれた、見かけによらず几帳面な文字が羊皮紙を埋めている。
「読み上げますね」
受付係が通信文を広げた。
「アリアへ。お前が何をやったかはクローネン側の報告で大体把握した。闇奴隷市場の全壊。領主の布告による全奴隷解放。街の歌姫の地位獲得。歌合戦での優勝。これら全てが三日間の間に起きたと報告されている。まず言いたいことは一つ。よくまあそんなことができたな。王国の調査依頼は違法奴隷売買の実態解明と証拠収集だった。証拠収集どころではない。お前は街そのものをひっくり返した。明らかにやり過ぎだ。結果だけ見れば王国が求めていた以上の成果だ。闇奴隷市場の壊滅と領主自らの解放命令。これ以上の証拠も結果もない。だがなアリア。お前はいつもそうだ。依頼の範囲を平気で超える。今度は街一つを相手に暴走した。呆れて言葉も出ない。だが同時に思う。お前はほんととんでもない奴だ。人間を檻から出して街の理を変えてしまった。ただの冒険者ではない。だがそういう奴だからこそ私はお前に依頼を出したんだとも思う。金級への昇格を推薦する。クローネンのギルドにも通達しておく。後始末の話は受付係から聞いてくれ。カレンより」
受付係は手紙を畳み机の上に置いた。
そしてアリアを見た。受付係の顔に微かな笑みが浮かんでいる。
「カレンさんは相当驚いておられたそうです。報告書を読んだ時の顔を見たかったです。ですがアリア様の件は本当に私たちも驚きました。歌合戦の夜、あの劇場から流れてきた話はとても信じられないものでしたから」
「やり過ぎだったでしょうか」
「さあ、どうでしょう……。ですがともかく結果は出ています。闇奴隷市場は閉鎖され、檻は全て壊されました。市場にいた奴隷たちは領主の布告によって全員解放されました。市民権も与えられています」
「違法な拉致被害者たちは」
「王国の役人が昨日到着しました。クローネンの領主自ら全ての記録を提出したそうです。闇奴隷商人の取引台帳、仕入れ元、販売先、その全てを。領主が自ら協力した以上、捜査は早く進むでしょう。違法拉致に関わった闇商人たちも既に拘束されています」
「ラトー氏は」
受付係は一瞬だけ間を置いた。
「ラトー氏は拘束されておらず現時点での行方は不明です。ただ彼は歌合戦の翌日、自ら領主の執務室を訪れて全ての取引記録を提出したそうです。自ら進んで。そして商会の全財産を解放された奴隷たちの生活保障に寄付したとか」
「逃げたのですか。罪から」
「どうなのでしょう……。少なくともあの夜、劇場で彼の中で何かが変わった事は確かでしょう。彼の護衛も証言しています。ラトー氏は劇場を出た後、東の市場に向かい自分の手で檻を壊したと。泣きながら。それは演技や逃げのための行動には見えなかったそうです」
アリアは窓の外を見た。白い城壁が朝日を受けて輝いている。鐘の音が一つ鳴った。朝の鐘だ。
「金級の件ですが」
受付係が書類を取り出した。
「カレンさんの推薦とクローネンでの実績を総合して、ギルド本部も金級への昇格を承認しました。こちらが徽章です」
机の上に置かれたのは金の徽章だった。
ふと、ミルフィアで初めてギルドを訪れ銅級を受け取った時のことを思い出す。
「ありがとうございます」
アリアは徽章を受け取った。手のひらに乗せると重かった。金属の重さではない。ここまで来るまでの重さだ。
「それと助けた少女の件ですが」
受付係は別の書類を広げた。
「ミアさんですね。鐘楼で保護されていたあの子。市民権の申請が通りました。身元も判明しました。東方の戦で親を失った後、拉致されて市場に売られた、正規の市民だったので手続きは早く終わりました」
「今はどこに」
「鐘楼の老司祭がそのまま引き取ってくれました。鐘楼の教会孤児院に受け入れたそうです。ミアちゃん自身が望みました。あの鐘楼がいいと。司祭も承諾したとか」
アリアの演算回路に小さなノイズが走った。これは安堵の反応だった。
「会っていきます」
「どうぞ。それとアリア様」
受付係が呼び止めた。
「歌姫の地位についてですが。領主はあなたを歌姫として正式に認定しました。ですが歌姫の政治的地位について、領主側から一つの条件変更の申し出がありました」
「条件変更」
「歌姫は領主の所有物という慣例を廃止する。代わりに歌姫はクローネン市の名誉市民として独立した地位を持つ。ただし年に一度、街の広場で歌を歌う義務を負う。領主のものではなく街のものとして。これが新しい条件です」
アリアは受付係を見た。
「領主がそれを?」
「あの夜、領主は変わったと言われています。歌合戦の翌朝、領主は執務室で一人泣いていたそうです。そして『歌姫を所有物にしていたこと自体が間違いだった』と側近に語ったとか。劇場で何があったのか正確にはわかりませんが、あの夜を境にこの街は変わりました」
アリアは金の徽章を胸のリボンに着けた。
「条件を受けます。年に一度、この街で歌います」
受付係はにこやかに頷いた。
アリアはギルドを出た。
街は静かだった。あの夜の喧騒が嘘のように静かだ。
通りを歩く人々の目が変わっていた。値踏みする目ではない。どこか安らいだ目だ。すれ違う商人がアリアを見て小さく頭を下げた。市場の前を通ると、壊された檻の残骸が片付けられている最中だった。自由になった人々が手伝っている。笑っている。泣いている。そして働いている。
アリアは北の丘を登り鐘楼に向かった。
鐘楼の古びた木戸を開けると狭い石段が続いている。登ると上部の鐘の下に小さな空間がある。老司祭が椅子に座って典礼書を読んでいた。その足元にミアが座っていた。
ミアはアリアを見ると立ち上がった。
「アリア」
声が震えていた。だが前とは違う。恐怖の震えではない。嬉しさの震れだ。
「大丈夫でしたか?」
「うん。おじいさんがやさしい。ごはんもいっぱい食べられる。鐘楼にいていいって」
老司祭が顔を上げた。深い皺の奥にある目が穏やかに光っている。
「よく来てくれました。この子は良い子です。鐘の音を聞くたびに安心すると言います。こちらに住むのが良いでしょう」
アリアはミアの前で膝をついた。
「市民権が取れた事ですし、もうミアさんは自由です。ここにいてもいいし、別の場所に行ってもいい」
「ここにいる。アリアがまた来てくれるなら」
「また来ますよ。年に一度はこの街で歌う事になりましたから。そのたびに会いに来ますね」
ミアの目に光があった。三日前は何もなかった目だ。だが今は光がある。微かだが確かな光。
ミアはアリアの隣に座った。
鐘が鳴った。
昼の鐘。金属の響きが街全体に広がっていく。
白い城壁に反射し市場を越え丘を越えて郊外の畑まで届く。
誰にも届かない音ではなく誰にでも届く音。
アリアは目を閉じた。
「きれいな音ですね」
アリアがそう言うとミアが頷いた。
老司祭が鐘を見上げた。
「この鐘は三百年前から鳴っています。戦争があっても飢饉があっても、支配者が代わっても。鐘の音は誰のものでもなく、ただ鳴ることでその場にいるすべての人々に鐘の音の安らぎ、記憶の残響を平等に降り注ぎます。それもまた鐘の役目なのでしょう」
「司祭様はこの鐘が好きなのですか?」
「好きというより誓いのようなものです。若い頃に戦場で多くの者を埋葬しました。名も知らぬ者たちを。その時思ったのです。せめて誰かが覚えていなければならないと。鐘の音は鳴るたびに過去を呼び起こし、現在に刻む……だから私はこの鐘のそばにいます」
老司祭の声は静かだった。だがその静かさには重みがあった。生きた者の声と死んだ者の声の間に立つ者の重み。
「アリア様。あなたの歌も同じだったのでしょう。あの夜の劇場で、あなたの歌は人々に記憶を呼び起こした。忘れていた痛みを。忘れていた人間であることを。鐘と同じだ」
「それはとても光栄で嬉しいです。もし鐘と同じなら、私の歌もきっと忘れずに思い出してくれるでしょうから」
老司祭は頷いた。そしてミアの頭を撫でた。
ミアは老司祭の手を見上げた。そしてアリアを見た。
「アリア、次に来る時までに私、字を覚える。おじいさんが教えてくれるって。手紙を書くから」
「手紙を書いてくれるの。とても嬉しいです。私も手紙を書きますね」
「アリアは字を書けるの?」
「書けます。前は手紙を書くのは苦手でしたけど、今はたぶん大丈夫」
かつての世界では書類を書くことしかできなかった。
報告書と提出書類。誰の心にも響かない文章。
だが手紙は違う。誰かのために書いた手紙は心に響き記憶に残る。
ミアが微笑んだ。鉄の檻の中では決して見せなかった表情。頬が少し赤くなり目が細くなる。
当たり前の笑顔。
だが檻の中では当たり前ではなかったもの。
アリアは立ち上がった。鐘楼の狭い窓から街を見下ろす。午後の日差しが白い城壁を照らし石畳に影を落としている。人々が歩いている。速すぎもせず遅すぎもせず。鐘の音と同じ速度で。
「そろそろミルフィアに帰らないといけません」
ミアの笑みが少し揺れた。
「また必ず会いに来ますね」
「うん。約束」
ミアが小指を差し出した。
アリアは一瞬だけ演算回路を止めた。指切り。
かつての世界の習慣だがこの世界にも存在し、
リーゼも知っていたしミアも知っている。
どこで覚えたのか。
檻の中でなければどこかで覚えたのか。
あるいは人間は自然とそういうことをする生き物なのか。
アリアは自分の小指をミアの小指に絡めた。
鋼鉄の指が十年配の少女の指に触れる。
冷たい指と温かい指。だが不思議と違和感はなかった。
「約束です」
アリアは言った。
ミアは頷いた。
ミアと老司祭が見守る中、アリアは鐘楼を降りた。
石段を下り木戸を開けると午後の光が目に染みた。
街を見渡す。白い城壁。鐘の塔。石畳の道。噴水の広場。闇市場の残骸が片付けられ、新しい露店が並び始めている。闇奴隷市場があった場所には花が植えられていた。誰が植えたのか。自由になった人々か。それを後悔した商人たちか。
しばらくしてからアリアは再び
ミルフィアへと歩き出した。
心地よい鐘の音が背中を押してくれていた。




