第十七章 帰還の朝
街の東門が見えた時、空はまだ薄紫色の暁の中にあった。
城壁の石積みが夜露に濡れ、朝霧が門の周りに漂っている。門番の衛兵が欠伸を噛み殺しながら槍に寄りかかっているのが見えた。平和な朝だ。
サラン村の古戦場で歌い、黒い機体と戦った夜が嘘のような静寂。
アリアは門に近づきながら、自分の歩幅がいつもより僅かに狭まっていることに気づいた。リミッター解除の代償が機体の各所に出ている。右膝のサーボモータが微かに異音を立て、左肩の関節が僅かに固着していた。ドレスの自己修復機能は損傷を塞いだが、この短時間ではナノマシンによる内部構造の金属疲労までは復旧できない。
それでも歩けた。歌えるかはわからない。
だが約束通り帰ってきた。
門番の若い衛兵が槍を構えかけ、すぐに顔を緩めた。
「……ああ、歌姫様か。お帰りなさい。夜通し歩いたのか」
「ええ。少し遠出をしていました」
「夜道は危ねえぞ……って、まあお前さんなら狼も逃げ出すだろうが」
衛兵は笑って門を開けてくれた。
街の中はまだ静かだった。市場の露店は並び始めているが、本格的な喧騒はこれからだ。パンを焼く香りと、井戸端で水を汲む音。朝の鳥が屋根の上で鳴いている。
アリアは真っ直ぐにマルタの店へ向かった。
一階の店舗はもう準備が終わっていた。竈に火が入り大鍋から湯気が立ち昇っている。マルタが店の前で椅子を並べているところだった。
「ただいま」
アリアが声をかけると、マルタの手が止まった。
「アリア!……お帰り。思ってたより早かったね」
「急いで帰ってきました」
「顔が青いよ。いや、いつも白いけどね。もっと白い」
マルタはアリアの顔をじっと見た。老婆の目は鋭い。演算回路がいくら平静を装っても、微細な挙動の不整合は隠せないらしい。
「少し疲れました。サラン村は遠くて」
「休みな。二階の寝床を使いな。リーゼはまだ寝てるよ」
「ありがとうございます」
アリアは階段を上った。一段一段が軋む。いつもは気にならない音が今は大きく響く。膝のサーボが軋む音と重なって、自分の体がギシギシと泣いているようだった。
二階の部屋を開けると、リーゼが寝台で丸まって眠っていた。
毛布を頭まで被り規則正しい寝息を立てている。三十六度八分。健康な体温。安心した。
アリアは寝台の傍らに座りった。
コアユニットの温度がまだ下がりきっていない。ファンが静かに回転している音が部屋に響く。リーゼの寝息と重なる二つのリズム。
「……ただいま、リーゼ」
小さく呟いた。返事はない。だがリーゼが寝返りを打ち、無意識にアリアの方へ体を寄せた。小さな手が毛布の端から伸びてアリアのドレスの裾を掴む。
アリアは目を閉じた。
低消費電力モードへの移行を試みるが、システムが拒絶した。コアユニットの温度低下が基準値に達していない。強制的に休むことはできない。代わりに、軽い待機モードに入った。意識はクリアなままだが、外部センサーの感度を落とす。リーゼの寝息とファンの音だけが部屋を満たす。
数時間が過ぎた。
日が少し高くなり、窓から光が差し込んで来た頃、リーゼが目を覚ました。
「……ん……アリア?」
「おはよう、リーゼ」
リーゼは目を擦り、それからアリアの顔を見て瞬きを二回した。
「お帰り!」
「ただいま」
リーゼは飛び起き、アリアに抱きついた。小さな腕が首に巻き付く。三十六度七分の人間の温かさが冷たい人工皮膚に伝わる。
「アリア、約束守ってくれた! 帰ってきた!」
「約束したでしょう」
「うん! ねえ、怪我はない? 具合悪くない?」
「大丈夫。少し疲れただけ」
リーゼはアリアの顔をじっと見た。子供の目は嘘を見抜く。
「……嘘」
「嘘じゃないです」
「嘘だもん。アリアの目、青い光が弱くなってる。いつもより暗い」
アリアは言葉を失った。
この八歳の少女は、機械の微細な出力低下を肉眼で見抜く。それはセンサーでも分析器でもない。愛しい者を見つめる目だけが持つ解像度だった。
「……少し、無理をしました。でももう大丈夫」
リーゼは唇を噛んだ。それから、アリアの膝に手を置いた。
「ここ、痛いの?」
「……なんでわかるの」
「音が違う。アリアの膝、いつもはもっと滑らかな音なのに。今日はギシギシしてる」
アリアの演算回路にノイズが走った。人間の耳には聞こえないはずのサーボモータの微細な異音を、この子は聞いている。
「リーゼ、あなたはすごいね」
「すごくないよ。ただアリアの音を聞いてるだけ」
「それがすごいんだよ」
リーゼはアリアの膝を撫でた。小さく温かい手が冷たいドレスの上を滑る。
「治る?」
「休めば治る」
「じゃあ休んで。私が見てるから」
アリアは目を閉じた。
リーゼの手が膝に触れている。その温かさが微細なノイズを少しずつ中和していくような気がした。物理的にはあり得ない。だがアリアの演算回路は、その温かさを「修復」というタグ付きで処理していた。
かつての世界で、彼は誰かに膝を撫でられたことがなかっただろうか。
記憶を走査する。子供の頃、転んで膝を擦りむいた時、母が唇を寄せて『痛いの痛いの飛んでけ』と言った。
あの温かさ。
遠すぎて色彩も匂いももう再生できない記憶だ。
だが今、リーゼの手の温かさがその記憶の輪郭を少しだけ鮮明にしている。
「リーゼ」
「なに」
「ありがとう」
「どういたしまして」
リーゼはえへへと笑った。
昼過ぎ、アリアは一階の店に出た。
マルタがスープを煮ている。昼の客がちらほら座り、リーゼが水を運んでいる。日常の風景だ。
「座りな。ゆっくり茶でも飲みな」
マルタが木の椀に湯を注いだ。乾燥したハーブが浮かぶだけの薄い茶だが、湯気の温かさが染みる。
「マルタさん。一つ聞いてもいいですか」
「なんだい」
「もし……もし私が、誰かと戦ったとして。それが誰かを守るためだったとして。あなたは嫌になりますか」
マルタはスープの鍋をかき混ぜる手を止めた。
「戦ったのかい」
「……戦いました」
「誰かを傷つけたのかい」
「相手は……もう動きません。人間じゃなかったけれど」
マルタは暫く黙ってスープをかき混ぜていた。
「ワシの息子も戦ったよ。戦争で。休暇で帰ってきた時に
以前の笑顔が無くなっていたよ。だがワシは嫌いにならなかったよ。あいつは守るために戦ったんだから。自分の国を、自分の隣人を」
マルタは振り返った。
「あんたもそうなんだろう。何かを守るために戦った。違うかい」
「はい。守るために」
「なら嫌いになんないよ。だが」
マルタは声を低くした。
「無理はするなよ。あんたは歌い手だ。戦士じゃない。守るための歌があるならそれでいい。だが壊れるような真似はするな。息子みたいに死ぬんじゃないよ、リーゼが泣く」
アリアは椀の湯気を見つめた。
壊れるような真似はした。
リミッター解除。
コアユニットの温度異常。
関節の損耗。
あと五分戦っていたら、
アリアの方が先に壊れていた。
「はい。気をつけます」
「まあ、今日は休みな。依頼は明日でいい。カレンにもワシから伝えておく」
「すみません」
「謝る暇があるならスープも飲みな」
アリアは笑った。微かに、だが確かに。
その日の午後、アリアは二階の寝台で静かに休んでいた。リーゼは学校へ行っている──正確には、街の教会の僧侶が開いている識字教室だ。リーゼは市民権を得てから、文字を習い始めた。アリアが読み書きを教えることもできたが、リーゼは「他のお友達と一緒に習いたい」と言った。
一人の部屋で、アリアは天井を見つめていた。
コアユニットの温度が少しずつ下がっていく。ファンの音が静かになる。関節の異音も少しずつ収まっていく。自己修復が進んでいる。
だが完全には戻らない。
リミッター解除のダメージは、ナノマシンによる自己修復が完了するまでは機体の深層に微細な亀裂として残るだろう。
それは次に限界を使う時に響く。
いつか完全に壊れるまで、
回数は限られているかもしれない。
それでも、あの時選択したことを後悔はしていなかった。
インナースペースの彼女の声が、記憶の底から微かに響いた。
『歌を届けるための器を守る。それもアイドルのお仕事ですよ』
『……そうだな』
アリアは目を閉じた。
窓の外から、遠くで子供たちの笑い声が聞こえる。その中にリーゼの声が混じっているような気がした。
夕暮れ、リーゼが帰ってきた。
手に一枚の羊皮紙を持っている。習字の練習だ。
「アリア、見て! 今日はね、自分の名前が書けたの!」
羊皮紙には、ぎごちないが確かに「リーゼ・アルトハイム」と書かれていた。文字の大きさが不揃いで、アルトハイムの文字の横画がはみ出している。だが確かに書けている。
「とても上手で綺麗です」
「本当? 先生も上手だって言ってくれた!」
「良かったですね」
リーゼは羊皮紙を胸に抱いて笑った。それから、ふとアリアの顔を見て、表情を少し変えた。
「アリア、今日は青い光が戻ってる」
「休んだからね」
「よかった」
リーゼはそう言って、アリアの隣に座り込み、羊皮紙を広げた。
「ねえ、アリアの名前も書いてみる。見本になって」
アリアはリーゼの筆を取り、羊皮紙の余白に滑らかに文字を書いた。
『アリア・アルトハイム』
完璧な筆跡だ。サーボモータの精度が可能にする美しい文字。
だがリーゼはそれを見て首を傾げた。
「……これじゃ読めないよ、アリアは真似しないで、私がアリアの名前を書くの」
「ごめんなさい」
「謝らないで。見てて」
リーゼは舌を出しながら、ぎこちなく『アリア・アルトハイム』と書いた。文字の横画がまたはみ出ている。
「どう?」
「完璧ですね」
「嘘つき」
リーゼは笑った。アリアも笑った。
外では夕暮れの鐘が鳴っている。
マルタが階段の下から声を上げた。
「ご飯だよ。降りてきな」
「はい」
アリアは立ち上がった。膝が軋む。だが歩けた。
リーゼが手を差し出した。
「手繋いで行こう。アリアの膝、まだ痛いでしょ」
「大丈夫だよ」
「いいから」
アリアは手を差し出した。冷たい金属の指に、リーゼの温かい小さな指が絡む。
二人は階段を降りた。一段一段、軋む木と軋む膝と、リーゼの小さな足音が重なる。
一階ではマルタのスープが湯気を上げていた。
三つの椀が並んでいる。
アリアの椀には今日も湯気が立ち昇る。飲めない。だがそこにある。
家族の食卓。
アリアは席に着いた。
「いただきます」
リーゼとマルタもそれに続いた。
窓の外、一番星が光り始めていた。
昨日の夜、アリアは戦場にいた。歌で死霊を弔い、黒い機体と戦った。傷つき、壊れかけた。
だが今はここにある。
スープの湯気と、リーゼの笑顔と、マルタの背中がある。
不条理な世界。不条理な転生。不条理な体。
だがこの不条理の中に、確かに守るべき日常がある。
アリアはスープの湯気に顔を向けた。
温かい。
この温かさを守るためなら、また歌える。
何度でも。
体が壊れるまで。
「おかわり!」
リーゼが叫んだ。マルタが鍋を持ってくる。
日常は続く。
アリアは静かに微笑んだ。




