第十五章(つづき) 遠い戦場の歌
「かえりたい」
「かあさん」
「ゆるして」
音は一つではなかった。
二つではない。
数十、数百の声が、瞬時に重なって溶け合いながらアリアのアンテナに流れ込んでいた。
サラン村の手前、古戦場の山。
星明かりの下山肌に無数の黒い影が立っていた。
朽ちかけた革鎧。錆びた甲冑。刃の欠けた剣。半ば崩れた顔。だが瞳の奥だけが、紫色の燐光を宿している。
五年前の戦争で死んだ兵士たちが山の斜面に並んで立っていた。
直立不動で。まるで行進の最中に突然、時を止められたかのように。
そしてアリアを見た。
生ける者の気配に列の先頭がゆっくりと動く。死霊兵士たちは声を上げずただ一斉に剣を構えた。
「どこへ ゆく」
「われらは まだ たたかいの なかに いる」
「おやの かおを わすれた」
「のこして きた もの が ある」
数百体の死霊兵士が、ゆっくりアリアに迫る。
戦闘プログラムが反応した。音響兵器を構築し死霊たちを物理的に破壊することは可能だ。
だがアリアはそれをしなかった。
彼らは敵ではない。
これは悲しさの残滓だ。
誰かの息子で誰かの恋人で友人で誰かの帰りを待たれていたかもしれない人々の無念が生み出した亡霊たち。
彼らを壊すことは簡単だ。
だが彼らを救わなければ何のためのアイドルだろうか。
アリアは静かにセッティングを整った。
コアユニットにアクセスし選択する。
人を眠らせるための歌。
耳を塞ぐための音。
追い払うための超音波。
それらはすべて不要。
今、必要なのは「弔いの歌」だ。
彼女は死霊兵士たちの列の前に立ち歌い出した。
それはいつもの歌ではなかった。
高い音でもなくどこまでも広がる音でもなく
低く細くまるで遠い日の夕暮れに
母親が子供を呼ぶ声のような歌だった。
「帰りましょう、もどるべき所へ……」
アリアの歌声が、夜の山に溶ける。
「あなたの家はここではない……あなたが誰かに…手愛されていた場所に帰りましょう……」
死霊兵士たちの足が止まった。
歌声が、彼らの崩れかけた身体を震わせる。
「聞こえていますか、春の歌が。あなたたちが生まれた村の麦畑の音が。夕餉の鍋の香りが。あなたを呼ぶ声が」
アリアの歌は空気の重さを変え、死霊たちの身体の底に眠る記憶を呼び醒ましていく。
一人の兵士が、剣を落とした。
「…あぁ…ぁあ…」
兵士は崩れ落ちその場に膝をついた。
また一人、剣を捨てた。
「かぁ…さ…ん…」
「お…れかえ…る…よ」
次々に剣が落ちる。
死霊兵士たちが次々と崩れ落ちてゆく。
アリアは歌を続けた。
一度も止めなかった。
夜露が降り、彼女の銀色の髪を白く染め東の空が白むまで歌い続けた。
やがて山肌に立っていた黒い影は一つ残らず崩れ落ち、あとに残されたのは無数の遺骸だった。
朽ちた甲冑に包まれた骨。
錆びた鎧の下の空っぽの空洞。
刃の欠けた剣が草むらに突き立っている。
五年間、風雨に晒されながらそれでも形を留めていた彼らの体だった。
アリアは歌を止めなかった。
むしろここからが本当の弔いだった。
アリアは目を閉じ、コアプログラムの最深層にアクセスした。音響合成モジュールの出力を最大まで引き上げる。声帯の人工筋肉が微かに振動し喉の皮膚の下で青い光の線が浮かび上がった。
今度の歌は旋律ではなかった。
一つの持続音だった。
低く、深く、どこまでも続く単一の周波数。
人間の耳には音楽としては聞こえないだろう。だが空気は確かに震え、山肌の草が一斉に東へとそよいだ。
アリアはその音に指向性を与えた。
超音波領域の精密な音響ビーム、
それが東の空へ向かって真っ直ぐに伸びていく。
風が呼応した。
アリアの歌の音波の圧力で物理的に気流を乱される事で風が東へなびき、露が東へと飛び落ち葉が東へと舞い上がる。
その風の中に、遺骸が溶け始めた。
最初は一番風上にあった兵士の遺骸だった。
錆びた鎧が音もなく崩れその下から白い骨が現れたかと思うと、骨の表面が微かな光の粒子となって剥がれ落ち始めた。粒子は東風に乗せられ月光の中で蛍の群れのように舞い上がっていった。
隣の遺骸も同じだった。
朽ちた革鎧が強力な指向性音波により風に解かれ綿のようになり、その中の骨が光の塵となって空へと吸い上げられていく。
次々と、次々と。
数百体の遺骸が音もなく光の塵に変わっていく。
それは消滅ではない。破壊ではない。
アリアの指向性音波が彼らの遺骸を構成する有機物の分子結合を共鳴により解き放ち、一つ一つの粒子に微かな推進力を与えていた。
塵となった彼らは東風に乗せられアリアが音で作り出した目に見えない風の道を東へと流れていく。
東には彼らの故郷がある。
五年前彼らが徴兵されて西の戦場へ向かった時背後に残してきた村がある。
父と母が待つ家がある。
恋人の待つ窓がある。幼な子が眠る寝台がある。
その場所へ、彼らの一部が帰る。
もう体はない。声もない。歩くこともできない。
だが塵は風に乗って飛ぶ。粒となって山を越え川を越え故郷の空へと降り立つ。誰も気づかない。畑の土に混じり、井戸の水に溶け家の軒先に静かに積もる。それでいい。帰ってこられたのだ。たとえ塵になってでも。
アリアの歌が、その帰り道を音で作っていた。
東へ東へと向かう音波と風の奔流。山の稜線に沿って谷を通り抜け風の背中を押すように東へと流れていく。粒子たちはその音の流れに乗せられ、一つまた一つと夜空へと消えていった。
最後の一人が光の塵になって東風に溶けた時、アリアは歌を止めた。
東の空が白み始めていた。
星が一つまた一つと消えていく。夜明けが来る。
山肌には何も残っていなかった。
古い剣も錆びた鎧も、五年間そこにあったはずの遺骸も。
草だけが東へなびいていた。
アリアは歌い終えた後も長い間黙って彼らが立っていた草地を見つめ続けた。
風が吹き、こぼれ落ちた草の種が舞い上がり朝日の中で金色の粉のように輝いた。
「世界の果てで ひとり光待つその夜に
私はここにいる あなたの帰りを待っている……」
アリアは静かに優しく、語りかける様に歌を紡いだ。
それはかつて自分がこの世にいない息子を待つマルタの気持ちを知っているからこその歌詞だった。
そして最後に、アリアは東の空に向かって静かに手を組み合わせ祈った。
「どうぞ安らかに。風に乗ってお帰りください。あなたを待つ人のいる場所へ。そしていつか愛する人に会えますように……」
銀鈴の声が夜明けの山に溶けていった。
死霊兵士の弔いを終えてサラン村に向かった。
サラン村は古戦場の麓にあった。村に着くと村人たちが怯えた顔で出迎えた。昨夜山から響いてきたアリアの歌を聞き何事かと夜を過ごしていたらしい。
「あの歌は…やはりあなたでしたか」
村長が震える声で言った。
「ええ。山にいた兵士たちは、もういません」
「いない? 消えたのですか? それとも…」
「還りました。みなあるべき場所へ」
村長は目を見開きそれから深く頭を下げた。家々から顔を出した村人たちが恐る恐る近づいてくる。
「アリア様、ありがとうございました。これで畑も家畜も村もなんとかなります」
「私は依頼で来ただけです。ギルドに報告と手続きをお願いします」
アリアは村長にそう告げ宿の用意は断った。
このまま街へ帰る。リーゼとマルタが待っているから。
「え? もう帰られるのですか。せめて一晩くらい休んでいってくだされ」
「ありがとうございます。夜までには帰らなくてはいけない場所があるんです」
アリアは丁寧に断り村人たちに別れを告げた。
東の山を越えまたあの古戦場に差し掛かると、昼過ぎになっていた。
朝日とは違う、昼の光。
死霊兵士たちがいた場所には草が生い茂るだけだった。だがアリアは道の端に古い靴が落ちているのを見つけた。
片方だけの軍靴。持ち主はもういない。
アリアはその軍靴を拾い上げそっと土に埋めた。
「どうぞ安らかに……愛する人に会えますように」
もう一度、それだけ言って彼女は街へと歩き出した。




