第十五章 遠い戦場の歌
歌謡祭から数週間の時が過ぎた。
歌謡祭での街の熱狂は少しずつ静まり日常が戻ってきていた。
あの日、リーゼから市民権の羊皮紙を受け取った浮浪者の母子は今、市場の隅で小さな花売り台を開いていた。
母親の名はヘレナといった。
痩せ細った体に体力はなく
重い労働はできない。
だが花を育てることはできた。
アリアやカレンの助力と助言、
市民権を得た事で市からの補助も受ける事が出来、
朝早く起きて花を摘み、市場で売る事で生計を立てている。
儲けはわずかだが、
それでも自分の足で立っている。
子供の方は名をニコといった。
五歳の男児。リーゼより三つ下。
最初は人見知りが激しくアリアの顔を見るたびに母親の背中に隠れていたが
十日も経つと市場でリーゼと走り回るようになった。
ある朝、アリアが市場を通ると
ヘレナが花売り台の前で深く頭を下げた。
「アリア様。こちらを」
差し出されたのは一束のスミレだった。
「お代は結構です。これはお礼です。あの日リーゼさんから紙をいただかなければ、私たちは今頃この街から追い出されて野垂れ死んでいたでしょう」
「私ではなくリーゼに渡してください。あの子が決めたことですから」
「もちろんリーゼさんにもお渡ししました。
こちらはアリアさんの分です。
あなたがリーゼさんを育ててくださったから、
あんなに優しい子になったのです」
アリアはスミレを受け取った。小さな花。露が残り朝の光の中で淡い紫色に輝いている。
「ありがとうございます。とても綺麗です」
アリアがそう言うとヘレナは目を潤ませまた深く頭を下げた。
ニコが母親の腿の後ろから顔を出しアリアを見た。
その目にはもう恐怖はなかった。
ただ純粋な好奇心があるだけだ。
「ねえねえ、お姉ちゃん光ってるよ」
「ニコ、失礼よ」
「いいのです。本当のことですから」
アリアはニコの頭をそっと撫でた。小さな頭。
温かい。リーゼの頭と同じ温かさだ。
アリアはスミレの束をリボンに挟んで歩き出した。
市場の喧騒の中を白いドレスと紫色の花が揺れる。
すれ違う人々が声をかける。
「歌姫さん今日もきれいだね」
「お嬢ちゃんその花似合ってるよ」
かつての『光る異物』は今や『光の歌姫』としてこの街に溶け込みつつあった。
人々はアリアを恐れなくなった。
むしろその姿を見ると安心する者が増えている。
市場の活気の中で銀色の髪が揺れると、どこからか『今日もいい天気になりそうだ』と声が上がるほどだった。
マルタの新しい店も好調だった。
屋台から店舗になったことで客が座れるようになり、
朝と昼の賑わいは以前の倍以上になった。
リーゼは看板娘として店の前で客を迎え水を運び注文を聞く。
八歳の少女が堂々と客に微笑む姿は
初めは奇異に見えた客たちもすぐに慣れた。
リーゼの笑顔には人を安心させる不思議な力があった。
それはアリアの歌に似ていた。
そんなある朝ギルドのカレンから緊急の手紙が届いた。
「すぐ来な。緊急の高額依頼だ」
アリアはギルドへ向かった。
ギルドの二階の会議室。そこにはカレンと見知らぬ男が一人立っていた。
旅装束に泥が付き顔には深い疲労が刻まれている。
近隣の村から走ってきた使者だろう。
「この方は東のサラン村からの使者だ。村が困っている」
カレンが短く紹介し男が頭を下げた。
「お初にお目にかかりますアリア様。私はサラン村の村長補佐エリクと申します。三日間道を急いでまいりました」
「3日。かなり遠い村なのですね」
「はい。ここから東に山を三つ越えた先にあります。人口は百に満たない小さな村ですが田畑は豊かでこの街にも麦を納めております」
エリクは疲れた顔で続けた。
「一ヶ月ほど前から村の近くで妙な噂が立ち始めました。夜になると山からラッパの音と鬨の声が聞こえると。最初は獣か何かだと思っていたのです。ですが先週村の若者が山に入ったきり戻らず……昨日発見されたのですが」
エリクは一瞬、言葉を止めた。
「変わり果てた姿でした。全身に無数の傷があり、死ぬ前に何かと戦ったような形跡がありました。そして彼の遺体の近くに古びた剣が落ちていました。五年前の戦争で使われていた軍剣です」
会議室に重い沈黙が落ちた。
「五年前の戦争というと、この辺りでも大きな戦があったんですか。東の王都の分断で起きた国境戦争でしょうか。マルタさんの息子さんもその戦争で死んだと聞きました」
「そうだ。この近辺だけでも三千人近くが死んだ。領主様も兵を送って、ここからニ百人以上が出撃して戻らなかった」
カレンの声が低い。
「サラン村の近くには古戦場がある。多くの兵士が埋葬もされず土の下に眠っている。だが彼らは蘇った。死霊兵士と化して、夜な夜な山から出てくるらしい」
死霊兵士。生ける死者。かつて戦場で命を落とし魂が土に還らず、執着と無念だけで動き続ける死者たち。
「村の若者は、死霊兵士に殺されたのですね」
「おそらくは。彼らは夜になると村の近くまで降りてくる。畑の作物が枯れ井戸からは腐臭がする。このままでは村はじきに滅びます」
エリクが深く頭を下げた。
「どうか力を貸してください。アリア様の歌を聞けば死霊たちは消えると聞きました。実際に霊がアリア様の歌で救われたと」
「という訳でサラン村からの依頼だ。但し、死霊兵士の征伐だけでなく『弔い』もせよとの事だ。受けてくれるか?」
「……弔い」
アリアの演算回路が、新しい情報を処理する。
この世界では戦死者の魂は『弔い』によってしか浄化されない。それは魔法でもなく神官の権能でもなく残された者の祈りと歌によってのみ行われる。死霊と化した兵士というのは弔われなかった者たちだ。
「その依頼、私が受けます。もし万が一私に何かありましたらマルタさんとリーゼによろしくお伝えください」
カレンは黙ってうなずいた。
アリアは貸家に帰り寝台の傍らの小さな荷物袋に身の回りの物をまとめた。といっても替えの服はない。水を汲むための木の水筒とマルタに持たされた干し肉と魔除けの布切れとリーゼが描いた木の板だけ。
「アリア、どこ行くの」
リーゼが帰ってきた。アリアが旅支度をしているのを見て顔色を変えた。
「お仕事で少し遠くへ行くの。サラン村という場所で、迷子になった人たちがいるの」
「私も行く」
「だめよ。今回は遠いところ。それに三人で家を空けてはいけません。マルタさんのお店と、この街のことを見ていてちょうだい」
リーゼはぐっと唇を噛んだ。
「絶対帰ってくる?」
「絶対に帰ってきます。必ず約束です」
「指切り」
アリアはリーゼの小さな指に自分の金属の指を絡めた。
「ゆーびきーりゆーびきーり、うそついたら、のど ぎって ぐーっ」
リーゼが物騒な誓いまでした。アリアは微笑んだ。
「はい約束です」
明け方アリアは一人で街の東門を出た。
朝霧がまだ草原の上に厚く垂れ込めていた。霞む視界の向こう、東の空が微かに赤みを帯びている。五年前の戦争の跡をたどるように古い街道をひたすら進んでいく。
アリアは空を飛ぶこともできた。背中のスラスターを展開すれば山を三つ越えることなど一日もかからないだろう。だが、それをしなかった。
理由は単純だ。空を飛ぶと極端にエネルギーを消費する。本体のバッテリー残量を大幅に削ってしまい現場での依頼をこなす前にエネルギーが底をつく恐れがあった。万が一サラン村で大規模な戦闘や長時間の歌唱が必要になった場合、飛行で消耗している余裕はない。徒歩での移動なら時間はかかるが月の光を浴びながら進むことで補給が可能だ。安定したエネルギーを保ったままで現場に到着する方が賢明だった。
アリアの歩みは驚くほど速く人間の徒歩の約三倍ほどの速さで道を駆け下りた。それは走るでもないまるで風が人形を運んでいるような滑らかな移動だった。朝日が昇ると草露が光り鳥が鳴き始めた。遠くに山並みが見える。
サラン村までは山を三つ越える。
普通の旅人なら三日はかかる。
だがアリアは一昼夜で給水以外は止まらずに進んだ。
夜になると、彼女は月の光を浴び髪を光らせながら山道を登った。
月明かりはアリアのバッテリーを静かに満たしていき疲労という概念を持たないその体は淡々と道を選び続けた。
途中、二箇所の川を渡り三つ目の山に入る手前から彼女は「異変」を感知した。
空気に混ざる微かな腐敗臭。
風向きが変わると遠くから金属音が聞こえる。
剣と剣がぶつかるような音と、遠くのラッパの音。
それは間違いなく戦場の音だった。
だが同時にその音の奥から人の声が聞こえた気がした。
「かえりたい……」
これは風の音だろうか。
アリアは足を止め、立ち止まった。
「誰かいるのですか?」
静寂が返る。
だがアリアの聴覚センサは確かに音を拾っていた。人間の可聴域のさらに下インフラサウンドの領域で繰り返される短い『声』だった。




