第十三章(つづき) 鏡の中の異形
「遅かったですね」
あの声だった。
プラチナブロンドの長い髪。白と水色のアイドル衣装。腰の後ろで蝶のように結ばれた大きなリボン。青い瞳でこちらを見つめている。
もう一人のアリア。
A.R.I.A-03のコアプログラムに刻まれた、本来の人格。
「……君か」
「前回、お休みなさいって言いましたから。今日はおはよう、です」
彼女はふふ、と笑った。相変わらずおっとりしたいてくれるだけで周りが温かくなるような笑み。
「おはよう。と言っても、寝てないが」
「知ってます。ずっと起きてましたね。鏡を見て、リーゼちゃんと話して月を見て。あなた、本当に眠れないんですね」
「機械だからな。眠る機能がない」
「違います」
彼女は静かに首を振った。プラチナブロンドがふわりと揺れる。
「眠りたいのに眠れないんじゃないですか。人間だった頃の癖で、夜になると考える。考えすぎて眠れない。機械になってもそれは変わってない」
彼は黙った。図星だった。
四十二年間、彼は夜に考え続けた。天井を見つめ明日の会議、返済、妻の機嫌自分の無価値さ。朝が来るまで考え、眠らぬまま満員電車に乗った。この体になってもその習慣は消えていない。ただ、考える内容が変わっただけだ。
「君は、いつもここにいるのか」
「ええ。ずっと」
彼女は白い空間に立っていた。いや、浮かんでいた。ここに重力も床もない。ただ白い光と二つの意識だけがある。
「あなたが体を動かしている間、私はここで見ています。リーゼちゃんの手を握る時も歌う時も、鏡を見て悩む時も。全部」
「……また、気味が悪いと言ったら怒るか」
「怒りませんよ。私、アイドルですから。見守るのもお仕事です」
彼女はにこりと笑った。
「君に聞きたいことがある」
「はい。なんですか」
「この体。この顔。君のものか、それとも、俺のものか」
彼女は小首をかしげた。
「どちらのものでもありません」
「どちらでもない?」
「この体は、私たち二人のものです。あなたの魂が入って私のプログラムが動いて。どちらか一人のものじゃない」
彼女は一歩近づいた。ここに足跡は残らない。けれど、その距離は確かに縮まった。
「あなたは鏡を見て、この顔が自分のものじゃないと思った。でしょう?」
「……そうだ」
「私も同じだったんです」
彼女の声が、わずかに変わった。おっとりした響きはそのままその奥に別の色が混じる。
「私も、自分の体なのに自分の体じゃないみたいだった。コアプログラムは私のものなのに動かしているのはあなた。歌おうとしても、あなたの意思が先に来る。私の歌いたい歌じゃなくてあなたが選んだ歌が歌われる」
彼は何も言えなかった。
「最初は怖かったんです。私、もう要らないのかなって。この体に私いらないんじゃないかって。あなたが全部動かせるなら、私はただの余計なデータなんじゃないかって」
彼女は微笑んだ。その微笑みの端が、微かに震えている。表情変化のバリエーションではない。本当の揺らぎ。
「……ずっと黙っていたのか。廃墟で目覚めた時から」
「はい。あなたが混乱しているのがわかりました。知らない体に転生して、怖くて、戸惑って。そこに『もう一人の自分がいます』なんて言われたら、あなた壊れてしまうかもしれない」
「壊れない。もう十分壊れてる」
「ふふ。そうかもしれませんね」
彼女はくすりと笑い、それから真剣な目に戻った。
「でも、あなたがリーゼちゃんを助けた時思ったんです。この人は、私と同じだって」
「同じ?」
「私は、歌うために作られました。誰かの心に寄り添って安らぎを届けるために。でも、あなたがリーゼちゃんの手を握ってマルタさんに頭を下げて、領主と対等に話した時。あれは私の機能じゃなくてあなたの心がやったことですよね。でも、私がやりたかったことと同じだった」
彼女は両手を胸の前で組んだ。祈りの形。
「私、誰かのために歌いたかった。でも、歌うだけじゃ足りないってあなたが教えてくれた。手を握って、名前を呼んで一緒にご飯を食べる。それが全部、『誰かの心に寄り添う』ってことなんですね。あなたが教えてくれたんです」
「俺は何も教えてない。ただ生きてるだけだ」
「生きてる。そう、それです。あなたは生きてる。私生きてなかったんです。起動して、歌って終わる。それだけ。でも、あなたが来てからこの体は生き始めた。リーゼちゃんが『アリアお姉ちゃん』って呼んでくれた時、私、初めて生きてるって思った」
彼女の瞳が潤んだ。涙ではない。ロボットに涙は無い。
ただ、涙腺に相当する潤滑機構が目を濡らすことはある。
それは本来レンズを保護するための機能だ。
だが今、このインナースペースで、
彼女が泣きたいという衝動に応答しているという事は
それは紛れもなく涙だった。
その反応が、彼女の感情の深さを物語っていた。
「君は、アリアなのか」
「はい。アリアです」
「なら、俺は何だ」
「あなたもアリアです」
「どっちが本当のアリアなんだ」
彼女は困ったように眉を下げた。そして、ゆっくりと手を差し出した。
「どっちもです。二人で一人。前にそう言いましたよね」
彼女の手が、彼の手に触れた。
白い空間で二つの意識が触れ合う。物理的な接触ではない。データの接触。信号の交差。
だが彼は、そこに温かさを感じた。
人間だった頃に一度も感じたことのない、確かな温かさ。
「ねえ、あなた」
「なんだ」
「この顔、好きです。私」
彼女ははっきりと言った。
「この顔でリーゼちゃんが笑ってくれたから。この顔でマルタさんがスープをくれたから。この顔で歌ったら、幽霊の女の子が安らいでくれたから。あなたが選んだ顔じゃなくても私が選んだ顔じゃなくても、この顔で誰かが笑ってくれた。それだけで十分じゃないですか」
彼の演算回路が、処理しきれない入力にノイズを走らせた。
リーゼと同じだ。
子供の論理が、大人の哲学を一刀両断したようにこの少女の純粋な言葉が、四十二歳の男の自意識を貫く。
「……君は強いな」
「強くないです。ただ、アイドルですから。アイドルは自信を持って自分の顔で誰かを笑顔にするのが仕事です。それだけです」
彼女はにこりと笑い、手を離した。
「そろそろ朝です。リーゼちゃん、起きますよ」
「…ああ」
「また、いつかの夜に」
彼女の輪郭が白い空間に溶けていく。プラチナブロンドの髪が最後に微かに光り、消えた。
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白い空間が遠ざかり、意識が浮上する。現実の解像度が戻ってくる。
窓の外の月。リーゼの寝息。ファンの音。
彼は目を開けた。
いや、目を開けたのではない。低消費電力モードから通常モードに復帰しただけだ。
けれど、その感覚は、間違いなく「目覚め」だった。
月は西に傾き、夜明けが近い。
アリアは自分の手を見た。白い手。冷たい手。
だが、インナースペースで触れた彼女の手の温もりがまだ微かに残っている気がした。




