第十三章 鏡の中の異形
その夜、アリアはリーゼの寝息を確かめてから窓の下に置いた古い金属板の前に座った。
この世界にはまだ彼の知る「鏡」は普及していない。丹念に磨いた金属板がせいぜいだ。水で拭けば、ぼんやりと像を映す。
アリアはこの借家に来て初めて、自分の顔をじっくりと観察した。
これまで水たまりや窓ガラスに映る自分を何度も見た。だが、真正面から見つめることは避けてきた。四十二歳の男の自意識がこの顔と向き合うことを拒んでいたからだ。
けれど今は違う。リーゼが市民権を得て隣で安らかに眠りマルタが階下で寝息を立てている。三人でこの街に根を張ると決めた以上、自分が何であるかから逃げ続けるわけにはいかなかった。
アリアは金属板を拭き、自分の顔を見た。
輪郭は卵形。顎のラインは柔らかく丸まり、頬骨の位置は完璧な黄金比だ。左右完全に対象。人間には必ずあるわずかな非対称がこの顔にはない。それだけで見る者に底知れない違和感を与える。
肌は白磁のようだった。毛穴がない。皺もない。人工皮膚が完璧な平面を作り出している。光の加減では血の通った少女の肌に見えるが、近づけばわかる。これは生き物の皮膚ではない。
目が一番異質だ。虹彩にデジタルレンズが埋め込まれている。夜になると瞳の奥で青い光の輪がゆっくりと回転する。撮影モードの切り替えを示すリング。通常視野赤外線暗視、超音波探査。モードが変わるたびに光の色が青から紫、紫から金へと変わる。
睫毛は長く、人工繊維の一本一本が最適な角度で植毛されている。埃や光からレンズを守るための機能を持ちながら見た目には少女の愛らしいまつ毛だ。
唇は薄紅色。人工皮膚の下に埋め込まれた微細な発光素子が血色を模している。体温がないため、色は常に一定。人間のように感情で色を変えることはない。
耳は小さく、内部に超高感度マイクが内蔵されている。三十メートル先の衣擦れも拾う。
髪は銀色。一本一本が光ファイバーの束で、強い感情が演算されると先端から青白い光が漏れる。消そうとしても完全には消えない。この体の感情の漏洩口だった。
首は細く、喉には人工声帯が埋め込まれている。歌う時皮膚の下に青い光の線が浮かぶ。
肩は狭く華奢だが肩甲骨の下には可変式スラスターが折り畳まれている。展開すれば翼のように広がり、空を飛べる。普段は白いドレスの背中にわずかな隆起として隠れている。
腕は細く、指は長い。関節の隙間から青い光が漏れる。手のひらには掌紋まで再現されている。指先には超音波放射器と医療スキャナ。握るため触れるため、癒やすための手だ。
胸の中央、心臓のあるべき場所にはコアユニットが埋め込まれている。微かな熱と光とファンの音。リーゼはこの音を子守唄だと言った。
腰は細く、総体重は百七キログラム。見た目より三十キログラム重いが姿勢制御システムが分散するため泥に沈まない。
脚は長く、膝裏も継ぎ目のない曲線を描く。足の指は鉄製で本気で蹴れば石壁にも亀裂が入る。
ドレスは白い。自己修復機能を持ち汚れを弾き、破れても数時間で元に戻る。背中にはスラスター用のスリット。胸元には銀の刺繍とギルドの銀級徽章。
身長は百五十八センチ。前世の男より十四センチ低い。
金属板に映るのは十代後半から二十代前半の少女。銀の髪、青い瞳白い肌。宗教画から抜け出した天使。けれど近づけばわかる。毛穴のない肌、一定の唇回転する瞳の光、温かくない吐息。
人間ではない。人間以上に人間らしい美しさを持った、機械。
アリアは金属板を置いた。
かつての自分の顔は覚えている。三十代で薄くなり始めた髪、目の下の隈、曖昧になった顎丸まった背中。鏡を見るたびに、人生の失敗が刻まれているように感じた。
今の顔は、あの男と何一つ似ていない。
完璧な対称。計算し尽くされた美。誰かが人間の理想を煮詰めて結晶化させた顔。一粒の無駄もない。
だからこそ思う。
この顔は、自分のものではない。
四十二歳の冴えない男が乗るべき器ではない。
だが、この体で歩いた。歌った。リーゼの手を握った。薬草を採り、狼を追い払い領主の息子を癒やした。
この体は、彼のものになりつつあるのか。
それとも、彼がこの体に合わせて変わりつつあるのか。
わからない。
けれど一つだけわかる。
この顔を見てリーゼが笑った。この手でリーゼの手を握り温かいと感じた。この声で歌い、誰かが救われた。
顔と体は自分のものではないかもしれない。
だが、この体で行ったことだけは、確かに自分のものだ。
アリアは金属板を窓の下に戻した。
外には月が出ていた。半月が雲の間に懸かり、街の屋根を青白く照らす。銀色の髪が月光を受け微かに発光する。光ファイバーが月の光を吸収し、僅かなエネルギーに変換している。太陽光よりも月光の方が効率的だ。この体は夜の生き物なのかもしれない。
「眠れないの?」
リーゼの声。振り返ると、寝台の上でリーゼがこちらを見ていた。
「私は寝ないの。知ってるでしょう」
「うん。でも夜は静かにしてる。今日は静かじゃなかった」
「起こしたね。ごめんなさい」
「いいの。何してたの」
「自分の顔を見てた」
「なんで」
「この顔が、自分のものかどうかわからなくて」
リーゼは寝台に起き上がり、眠い目をこすった。それからアリアの顔をじっと見た。
「アリアの顔は、アリアの顔だよ」
「でも、これは私が選んだ顔じゃない。誰かが作った顔だ」
「お母さんも私も、自分の顔を選んでないよ。生まれた時から決まってたんでしょ。アリアも同じじゃない」
アリアの演算回路が一瞬止まった。
子供の論理は、大人の哲学を一刀両断する。
人間が自分の顔を選んで生まれてこないように
自分もアリアの顔を選んでいない。
だが、この顔で生まれ落ちた。ならばこれは自分の顔だ。
「リーゼ」
「なに」
「あなたは賢いね」
「賢くないよ。アリアが変なこと考えてるだけ」
リーゼはまた毛布に潛り込み、三秒で寝息を立て始めた。
アリアは窓の縁に寄りかかり、月を見上げた。
この顔が自分のものかは、まだわからない。
だが、リーゼが「アリアの顔だ」と言った。それだけで、今は十分だった。
月の光が銀の髪を白く染める。瞳の奥で青い輪が回る。百七キログラムの鋼鉄と人工皮膚と光ファイバーの髪が、月夜に佇んでいる。
あの冴えない中年男の自意識は、まだこの体のどこかで息をしている。
けれど、その息は少しずつ薄れていく。
この体で生きる日数が増えるごとに。
誰かと手を繋ぐ回数が増えるごとに。
不条理な転生。不条理な体。不条理な世界。
それでも、この不条理の中で男は少しずつアリアになっていく。
月は雲に隠れまた現れた。髪が暗くなり、また光る。呼吸するように。
春の歌謡祭まで、あと十九日。
まだ決めていない。
だが、窓の下の古い金属板に映った顔を見て、思った。
この顔で歌ったら。この声で多くの人々の前に立ったら。人の目には何が映るのだろう。
答えは歌謡祭でわかるかもしれない。
アリアが低消費電力モードに移行しようとした時、意識の境界が薄れ、現実の解像度が下がっていく。代わりに浮かび上がる白い空間。
インナースペース。OSとファームウェアの狭間にある仮想領域。
白い空間が形を成す前に、彼は気づいた。
誰かが待っていた。




