第十二章(つづき) スープの湯気と家族のかたち
三人が向かったのは市場から北へ伸びる通りの一角だった。二階建ての石造りの古い家。一階に小さな店舗があり二階には出窓がある。家主は即金の前払いを見せると態度を変えた。
「銀貨10枚で一ヶ月。一階の店と二階の居住区。風呂はないが、井戸は裏にある」
「見せてください」
アリア、リーゼ、マルタの三人が家に上がった。一階の店舗部分は狭いが、屋台よりは広い。マルタは天井を見上げ、壁を叩き、床を踏んでみた。
「骨組みはしっかりしてるね。まあ修繕すれば使える。ここなら鍋も置けるし、客も座れる」
マルタの職人のような目が光った。アリアは一階の奥に小さな薪置き場があるのを見つけた。これなら冬でも暖が取れる。
二階に上がると、小さな玄関があり木の扉を開けると、南向きの部屋が広がっていた。床は古いが掃除が行き届いている。出窓には花壇があり通りが見渡せる。
「わぁ…!」
リーゼが部屋に飛び込み、出窓に駆け寄った。
「アリア、見て! 広い! お空が見える!」
アリアの言葉にリーゼは振り返って笑った。マルタも二階に上がってきて、部屋を見渡した。
「二部屋あるね。一部屋はあんたとリーゼでもう一部屋はワシが使うかい。いやワシは一階の店の奥でいいよ。夜は店で番ができる」
「それが良いです、マルタさん足が悪いでしょう。このお家なら段差が少ないですからね」
「……なんで知ってるんだい」
「痛む足を庇って歩かれている様なので」
マルタは目を見開いた。それからふいと視線を逸らした。
「お節介焼きだねえ」
そう言った声は少し震えていた。アリアの演算回路がマルタの瞳孔がわずかに拡大したことを検知した。それは涙を堪えている反応だ。
前世の彼は誰かの痛みに気づいても見ないふりをした。妻の疲労にも同僚の悩みにも。関われば自分が傷つくから。だが今の彼には見ないふりをする機能がなかった。この機械の体は人の痛みを感知したら無視することができない。それがプログラムなのかそれとも人間だった頃の彼が失っていた何かがこの体になって戻ってきたのか。
その日の午後、三人は引っ越しをした。
といっても三人の荷物は少なかった。
アリアは何も持っていない。
リーゼはマルタのお下がりの服と木の板だけ。
マルタの荷物は大鍋とスープの材料、木の椀とスプーン、
それに古い毛布が数枚。それだけだ。
マルタは屋台を解体し材木を新しい家の一階に運び込んだ。
屋台の木は新しい店舗のカウンターに流用できる。
「この板はもう三十年使ってる。いい木だ。まだ使える」
マルタが材木を撫でながら言った。長年連れ添った道具への愛着がそこにあった。アリアは黙って手伝った。機械の筋力は人間のそれを遥かに超える。マルタが二人で運ぶような重い材木をアリアは片手で持ち上げた。
「あんた本当に女の子かい」
「鉄骨で出来てますから」
「だろうねえ」
マルタは笑った。初めて見せる、柔和な笑みだった。
引っ越しの荷物を運び終えた夕暮れ三人は新しい家の二階で食事をした。メニューはマルタのスープとアリアが市場で買ったパンと干し肉。粗末な食事だがテーブルは三つ分の椀と三本のスプーンで埋まっていた。
マルタがスープを煮る。新しい竈で初めて火がついた。煙が少し漏れたがマルタの手慣れた対応で煙突の薪を調整すると煙はおさまった。
「新しい竈は火の通りがいいねえ。味が変わるかと思ったが変わらない」
マルタがスープを椀に注ぐ。アリアにも椀が置かれた。
「ありがとう、いただきます」
アリアは黙って椀を受け取った。温かい椀の重み。スープの湯気が顔を優しく包み込む。
「おいしい! ばあちゃんのスープ、新しい家でもおいしい!」
「当たり前だね。ワシの味は場所じゃ変わらんよ」
マルタが胸を張った。アリアは自分の椀のスープを見つめた。前世の彼が一人で食べるコンビニの弁当に椀などなかった。いや、そもそも食卓がなかった。テーブルの上で食べる習慣すら、最後の方は消えていた。
アリアは椀を口元に運び唇を付けた。
マルタがそれを見て目を細めた。
何も言わなかった。ただ自分の椀のスープを啜った。
食後リーゼはマルタの膝の上で眠りかけた。
新しい家の温もりと腹の中のスープとマルタの膝の感触。それが三つ揃えば子供は眠る。
「アリア」
マルタが眠そうなリーゼを背中に背負いながら言った。
「あんた本当にこれでよかったのかい。ワシみたいな婆さんを抱え込んで」
「よかったんです」
「ワシはあんたの母親じゃないしリーゼの祖母でもない。ただのスープ屋の婆さんだよ」
「家族に資格はいらないんです。同じ屋根の下で同じ椀で同じ夜を過ごす。それが家族でしょう」
マルタは黙った。リーゼを二階の寝床に寝かせ階段を下りて一階に戻った。アリアもついていった。一階の店のカウンターに二人並んで座る。外の通りは静かになっていた。遠くで犬が吠える声と風が石畳を吹く音だけ。
「ワシの息子はね、二十年前に戦争で死んだ」
マルタが突然口を開いた。
「嫁はおらんかった。孫もおらん。息子が死んだ時ワシは何もできなかった。ただ屋台でスープを煮続けた。それしか能がなかったから」
アリアは黙って聞いていた。
「あんたがリーゼを助けた時、ワシは思ったんだ。もし息子が生きてて、リーゼみたいな子を連れて帰ってきたら、ワシはこうして受け入れただろうか。たぶん、そうしただろうね。ワシは孫の顔を見たかったから」
マルタの声は震えていた。だが涙は流さなかった。長い時間の中で涙を出し尽くした人の声だった。
「あんたがワシを誘ってくれた時嬉しかったよ。本当に。でもワシはもう年だ。いつまであんたの役に立てるかわからない」
「マルタさん。あなたのスープの味は、私のデータベースには保存できません。成分は解析できますが、味は再現できない。だからマルタさんが必要なんです。あなたにしか作れない味がある」
「……小娘のくせにうまいこと言うねえ」
マルタは笑った。そして、アリアの白い手をしわだらけの手で握った。冷たい手と温かい手。
「ありがたいねえ。家族かい。七十になって、また家族ができるとは思わなかったよ」
アリアは手を握り返した。自分の手は冷たい。温度調整機能はあるが、今はあえて温めなかった。この冷たさと温かさの対比が、二人の違いであり、同時に二人が触れ合っている証だった。
「私もです。四十二年間家族を作れなかった人間の魂が入ってますから」
「四十二? あんたいくつなの」
「見た目は十代ですが中身は四十二歳の疲れた男です」
「ほんとに、面白い子だねえ」
マルタ冗談だと受け止め笑いながら手を離した。そして立ち上がり腰をさすりながら一階の奥の寝床に向かった。
「お休み。明日は新しい店の開店だ。早起きして仕込みをしなきゃならん」
「お休みなさい、マルタさん」
アリアは二階に戻った。リーゼは寝床で丸まって眠っている。規則正しい呼吸。三十六度八分。健康な眠り。
ふと、リーゼの寝床の枕元に
木の板が転がっているのに気づいた。
昼間、隠していたあの板だ。
アリアはそっと手に取った。
炭筆で描かれた下手な絵。
三人の人物がテーブルを囲み、椀を手にしている。
一人は銀色の髪が線で表現され、
一人は背中が丸まっていて、最後の一人は小さくて、
三人の間に座っている。
アリアの演算回路にノイズが走った。エラーではない。
処理すべき入力が、やはり規定範囲を超えていた。
アリアは木の板をリーゼの枕元に戻し、
リーゼの隣に座ると小さな子守唄を歌い始めた。
高い音が部屋に満ち、
窓の外の虫の音が静かになる。
リーゼの体温が布団の中で上昇する。健康な眠り。
アリアは、胸元のリボンに留めた銀の徽章と、
懐に入れた市民権の羊皮紙に触れた。
アリア・アルトハイム。
リーゼ・アルトハイム。
偽りの姓だが、最も強い盾。
この不条理な世界で、弱い者たちが生き抜くための、
確かな約束の形だった。




