第十二章 スープの湯気と家族のかたち
領主館での出来事をギルドのカレンに報告すると、彼女はひゅっと息を吸い込んだ。
「あの偏屈で有名なベスティン様がねえ……。しかもアリアだけでなく子供にも市民権とは、子を思う親の心ってやつは大したもんだよ」
カレンは赤い髪を掻き上げながら呆れたように笑った。
「まあおかげでギルドとしても顔が立つってもんだ。あんたのおかげで冒険者の立場も少しはマシになるかもしれないね。……それと、これが正式な市民権登録の控えだ」
カウンターに羊皮紙が数枚と小さな木札が置かれた。木札には『アリア』と『リーゼ』の名前が刻まれている。この街の人間であることの証明だ。
「それとだ。領主様からの報酬だが…直接手渡しされたんだろうが一応届け出が必要だ。手数料を引いて金貨四枚と五十銀貨があんたの取り分だ」
カレンは革袋をカウンターに置いた。ずっしりとした重み。前の世界で彼が一月働いて得ていた紙切れの給与明細とは違う、金属としての重く冷たい実感。
「ありがとうございます」
「それと最後に街の役所で手続きが必要だ。明日の朝に行ってきな。私が同行する。ギルドの保証が必要だからな」
アリアは金貨を懐に収めギルドを出た。
夕方の通りは夕餉の支度をする人々で賑わっていた。
肉を焼く煙と野菜を煮る湯気。
木の器を抱えた女たちが井戸端で立ち話をしている。
アリアが通ると会話が一瞬途切れる。
だがもう慣れたものだ。
今はひそひそ声のあとに小さく会釈する者もいた。
進歩だ。
マルタの屋台に着くとリーゼが一人で木の椅子に座り何かを描いていた。
手元には炭筆と粗末な木の板。
アリアが近づくとリーゼは板を隠そうとした。
「だめ。まだ見ないで」
「何を描いてるの」
「内緒」
リーゼは板を背中に隠し頬を膨らませた。
アリアはそれ以上追及せず屋台の奥にいるマルタに向かって軽く会釈をした。
「マルタさん今日はお礼があります」
「お礼? アリア、また変に気を使うんじゃないよ」
アリアは懐から革袋を取り出しマルタの前に置いた。
中から金貨が一枚二枚三枚と転がり出る。
「領主館の依頼の報酬です。これまでリーゼを預かっていただいたお礼と、屋台の修繕費に充ててください」
マルタは金貨を見てしばらく黙っていた。それから深いため息をついた。
「あんた、これがどれだけの金かわかってるのかい。
金貨三枚なんざワシの店の二年分に近い儲けだ」
「わかってます。それだけのことをしていただきました」
マルタは金貨を手に取り重さを確かめた。しわだらけの手のひらに載せてそれから首を振った。
「一人分のお礼なら多すぎる。一枚でいい。残りは返すよ」
「残りはリーゼの生活費として預かってください」
「預かるってワシは銀行でも何でもないんだよ」
「私がこの街で信用できるのは、マルタさんですから」
マルタは眉をひそめた。それから横目でリーゼを見た。リーゼは二人のやり取りを心配そうに見つめている。マルタは小さく笑った。
「しょうがないね。預かっておくよ。リーゼが嫁にいく時の持参金にでもするさ」
アリアは一瞬黙った。そして、次の言葉を口にする前に、深く呼吸を模した動作を行った。精神安定のための擬似呼吸。だが今回は、本当に言い出しかねていたのだ。かつての彼が上司に異議を唱える前のあの息苦しさに似ていた。
「マルタさん。もう一つお願いがあるんです」
「なんだい。また面倒なことかい」
「私とリーゼ、今日から新しい家に住むことにしました。二階建ての借家で、一階に店がついてるんです」
マルタは目を細めた。
「店? あんた、屋台を借りるつもりかい」
「いいえ。一階の店部分は、マルタさんの屋台に使ってほしいんです」
沈黙が落ちた。屋台の奥で鍋の煮える音が微かにしている。リーゼが何事かと顔を上げた。
「何を言ってるんだい、あんた」
「マルタさんは今、この広場の隅で雨風に晒されながら商いをしてる。冬が来たら体に堪える。一階の店を使えば、屋根のある場所でいつでもスープを出せる。家賃は私が払います」
「断るよ」
マルタは即座に言った。その声は頑固だったが、どこか潤んでいるようにも聞こえた。
「ワシはもう何十年もこの広場で商ってきたんだ。雨風に晒されるのは慣れっこだ。それにあんたの世話になるわけにはいかないよ。ワシはただの老婆だ。あんたみたいな不思議な力を持った者と暮らすのは、身の丈に合わない」
アリアは一歩近づいた。
「身の丈なんて関係ありません。マルタさんは、私がこの世界で初めて屋根の下に入れてくれた人です。リーゼの首輪を金槌で砕いてくれた人です。そんな人を、雨の中に放置しておくなんて私の機能が許しません」
「機能が許さない、ねえ…。何だか知らないが、妙な義理立てするねえ」
マルタは鼻を鳴らした。だがその目は揺れていた。アリアは知っていた。この老婆が実は腰を痛めていることを。夜になれば膝が痛んで寝返りを打つ音を、屋台の奥から聞いていたのだ。
「それに、リーゼが寂しがります」
「アリアがいればいいだろう」
「私と一緒にマルタさんもいてくれたら、リーゼはもっとご飯を食べると思います。マルタさんのスープがないと、栄養が不足してお仕事も頑張れません」
「大げさな」
マルタは視線を落とした。リーゼが椅子から降りマルタの腰に抱きついた。
「ばあちゃんも一緒?」
「ばあちゃんって…お前、ワシをそんなに呼ぶのかい」
「だってマルタはリーゼのばあちゃんでしょ?」
リーゼの無邪気な一言に、マルタの頑固な仮面にひびが入った。アリアの演算回路が、マルタの顔面筋肉の微細な震えを検知した。それは感情の奔流を必死に押し止めている表情だった。
「ワシの店は、ワシのやり方でやらせてもらうよ」
「もちろん」
「メニューも変えない」
「当然」
「スープの味も今のままだ」
「それが一番いい」
マルタは深いため息をついた。それは諦めのため息ではなく重荷を少し降ろした時のため息だった。
「しょうがないねえ…。あんたには勝てないよ本当に」
かくして翌朝アリアリーゼそしてマルタの三人は役所へ向かった。カレンが待ち合わせ場所にいて三人の姿を見て目を丸くした。
「お前さん、まさかお婆さんまで連れて行くつもりかい?」
「マルタさんは家族です」
アリアが当然のように言うと、カレンは一瞬ぽかんとして、それから腹を抱えて笑った。
「家族! あんた、ほんとに面白いねえ! 銀髪の機械人形に元奴隷の子供にスープ屋の婆さん。どんな家族だい」
「賑やかな家族です」
リーゼが胸を張って言った。カレンは笑いながらも、手続きのために役所の扉を開けてくれた。
役所は石造りの建物で中はしんと静まり羊皮紙とインクの匂いがした。カレンが領主の書状を出すと年嵩の役人が渋い顔でリーゼを見た。
「この子供か。出自は?」
「不明です。元奴隷です」
カレンが平然と答えると役人はさらに渋い顔をした。鉛色の目がリーゼを上から下まで眺める。
「はあ元奴隷に市民権ねえ……。領主様も思い切ったことをする。まあ命令とあらば断れんがな」
役人は羊皮紙に必要事項を記入し街の台帳を開いた。そこには名前がびっしりと書かれている。アリアの視覚センサーが頁を読み取り瞬時に内容を解析する。土地の所有権家族の構成出生記録。それが一つの街の人間を規定する。
「この子の名前は?」
「リーゼ」
カレンが答える。役人は羊皮紙に書き込みながら眉を動かした。
「姓は? リーゼだけでは困る。市民登録には姓が要る」
アリアは一瞬考える。リーゼの元の姓は知らない。奴隷には姓がない。事実として彼女の過去には名前という単位すら奪われている。
そして、自分自身もだ。アリアという個体名はあっても、この世界での「家」や「血統」を示す姓はない。種族不明の浮遊者。元奴隷の少女と、身寄りのない機械人形。二人ともこの社会においてあまりに不安定で弱い立場だ。力を持たなければ、また泥濘に引きずり込まれる。
「では、リーゼ・アルトハイム」
アリアが言った。役人が顔を上げる。カレンも目を見開いた。
「アルトハイム? 領主と同じ姓か?」
「庇護の意味を込めての姓です。この子の身分があまりに弱い。領主家の庇護下にあることを明示する盾が必要なんです」
アリアは静かに、しかし力を込めて言った。それはかつての彼が満員電車で縮こまっていた時とは違う、自分の足で立つ者の判断だった。
「そして、私も同じく。アリア・アルトハイムと登録してください」
今度はカレンだけでなく、役人も目を剥いた。
「お前さんもか? あんたもその姓を名乗るってのか?」
カレンが声を潛めて言った。
「アリア、あんた正気かい? 貴族の姓を勝手に名乗るなんて、偽称罪で牢にぶち込まれるかもしれないよ」
「構いません。私もリーゼと同じです。種族不明で身寄りのない異物は、いつどう排斥されるかわからない。領主様の恩恵を受けた事実を敬意と共に姓として残すことで、少なくとも表立って手出しはできなくなるはずです」
アリアの青い瞳が、真っ直ぐに役人を見据えた。その瞳の奥で光の輪が静かに回転している。それは決意の色だった。弱い者たちがこの不条理な世界で生き抜くための、合理的かつ大胆な戦略だった。
役人は恐れ入ったように視線を逸らし、インクの瓶をまさぐった。
「……まあ、領主様直々の市民権授与だからな。名乗る許可が出ていると見なしても、法の条文上は問題ないこととする」
役人はもごもごと言いながら、羽根ペンを動かした。羊皮紙に『アリア・アルトハイム』および『リーゼ・アルトハイム』と記されていく。
手続きが進む間リーゼは緊張していた。小さな手が汗ばみ、指先がカウンターの木目を何度もなぞる。アリアは黙ってその隣にいた。機械の体には手を握り返すことくらいしかできない。だがそれで十分だと思った。
マルタの手続きも行った。といってもマルタは既にこの街の住人だ。必要なのは住居の移転登録だけだ。だが役人はマルタの新しい住居を記入する時に眉をひそめた。
「あの物件かい。ここ十年、誰も借りたがらなかった場所だがね。一階に店がついてるが、何の店にもならんかった。雨漏りもするし、階段も軋む」
「修繕します」
アリアが言うと、役人はただ肩をすくめた。
ようやくすべての手続きが終わり、役人が羊皮紙を差し出した。
「これが市民権の証明だ。なくすなよ。再発行には銀貨五枚かかる」
リーゼは両手で受け取った。そしてじっと自分の名前の文字を見つめた。昨日のように感激して泣き出すことはなかった。むしろ神妙な顔でぐっと唇を噛みしめてまるで宣誓するようにその紙を胸に抱いた。
「大事にする」
その言葉は、八歳の子供が放つものとは思えないほど重く、静かな覚悟に満ちていた。
役所を出ると外はすでに昼前の光に変わっていた。市場の喧騒が遠くから聞こえる。リーゼは羊皮紙をアリアに見せた。
「見て、この名前ってなんて書いてあるの?」
「アリア・アルトハイム。そして、リーゼ・アルトハイム。そう読む」
「ありああるとはいむ。りぃぜあるとはいむ。ふふ、同じだね!」
リーゼは同じ姓を共有したことが嬉しくて、羊皮紙を押し当てて笑った。
アリアも微かに笑った。
偽りかもしれない姓。
だが、二人を守るための強い呪文としては
十分すぎるほどだった。
「私もう売られないよね」
「大丈夫」
「絶対に?」
「絶対に」
アリアとリーゼは指切りをした。機械の指と人間の指が古代の契約の形で結ばれる。ぎこちないが二人とも笑っていた。
「じゃあ、家に行こうか」
「家!」
リーゼが叫んだ。マルタが腰に手を当ててため息をついたが、その口元は微かに緩んでいた。




