第4話「見知らぬ空」
その日は、朝から様子がおかしかった。
空の色が、いつもと違う。夏だというのに、妙に薄い灰色の雲が、空全体を覆っていた。
「変な天気だな」
誠がそう呟いた瞬間だった。
商店街の空に、突然、光の裂け目が走った。
「な……」
悲鳴すら上げる暇はなかった。まばゆい光が誠を包み込み、視界が真っ白に染まる。
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気がつくと、誠は見知らぬ石造りの大広間にいた。
見渡す限り、同じように呆然とする人々が、数十人単位で立ち尽くしている。制服姿の者、作業着の者、中には赤ん坊を抱いた母親らしき人もいた。
「ここは……」
「ようこそ、異界の民よ」
厳かな声が響いた。壇上には、白い法衣を纏った老人と、豪奢な鎧を身につけた騎士たちが並んでいる。
「この世界は今、魔王の脅威に晒されている。汝らの中から、我らを導く者を選定する」
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勇者選定
会場の中央に、一本の剣が浮かんでいた。淡い光を纏う、明らかに只者ではない代物だった。
「この聖剣に選ばれし者こそ、真の勇者である」
一人、また一人と、人々が剣に近づいては、何も起こらず、肩を落として下がっていく。
誠の番が来た。
(どうせ、俺には関係ないだろうけど)
そう思いながら、誠は剣に手を伸ばした。
その瞬間——剣が、淡く光り始めた。
「おお……!」
会場がどよめいた。
「反応した! この者が——」
しかし、その時だった。
「うわっ」
誠は、緊張のあまり足元の段差に気づかず、盛大に転んだ。
体勢を崩した拍子に、剣の柄を強く握りすぎてしまい、留め具の応急処置がされていた部分——遠征帰りで少し緩んでいたそれ——が、ガクンと外れてしまった。
剣は誠の手から離れ、カラン、と乾いた音を立てて床に転がった。
「あ……」
会場が、しん、と静まり返った。
「な、なんてことだ……! 聖剣が、選定の途中で損傷してしまうとは……!」
法衣の老人が、慌てて剣を拾い上げる。
「これでは、選定の続行が不可能だ……。一時的とはいえ、契約が不完全に終わってしまった」
「そ、それは、僕の……」
「いや、お前のせいではない。剣自体に、以前からの緩みがあったのだろう。だが……」
老人は、困惑した顔で誠を見た。
「すまないが、この状態では正式な認定はできぬ。今しばらく、選定を保留とさせてもらう」
こうして誠は、あと一歩のところで、勇者の認定を逃した。
(まあ、そんな気はしてたけど)
誠は、思ったより落胆していない自分に、少し驚いた。
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賢者選定
「次は、賢者の選定を行う」
別の壇上には、古びた書物が置かれていた。
「この叡智の書に記された問いに答えられし者こそ、賢者である」
一人ずつ、書物の前に立ち、問いに答えていく。多くの者が、最初の一問すら答えられずに退いていった。
誠の番になった。書物が、ひとりでに開く。
「腐らぬものを腐らせぬ知恵とは、何か」
(これは……)
誠の脳裏に、祖父の言葉が蘇った。
塩加減一つで、腐るか腐らねぇかが決まる。
「塩を、正しい分量で使うことです。乾燥と、湿度の管理も」
書物のページが、まばゆく輝き出した。
「おお、正解だ! 次の問いに——」
まさにその瞬間、誠の腹が「ぐぅ」と大きな音を立てた。
朝から何も食べていなかったのだ。
会場に、小さな笑いが起こった。誠は真っ赤になりながら、それでも次の問いに集中しようとした。
「次の問いは……」
しかし、ちょうどそのタイミングで、会場の高窓から一陣の風が吹き込み、書物のページが勝手にめくれてしまった。
「あ、待っ——」
ページは、誠がまだ読んでいない、遥か先の問いで止まってしまった。
「これは……ページが飛んでしまったな。仕切り直しが必要だが、この書は一度開くと、同じ問いは二度と現れぬ決まりでな……」
賢者候補の審査官が、困った顔で首を振った。
「非常に惜しい。だが、正式な手順を踏めなかった以上、認定はできぬ」
こうして誠は、あと一問のところで、賢者の認定も逃した。
(腹が鳴っただけなのに)
誠は、微妙な気持ちで壇上を後にした。
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大魔法使い選定
最後に残ったのは、大魔法使いの選定だった。
「魔力適性の高い者は、この魔法陣の中央に立て」
長旅——というより、光に包まれた一瞬の出来事だったとはいえ、精神的な疲労は大きかったのだろう。誠は、順番を待つ間、壁にもたれて、ほんの少しだけ目を閉じた。
「次、そこの——おい、寝ているぞ!」
「え、あ、はい!」
誠は慌てて目を覚まし、魔法陣の中央へと駆け込んだ。寝起きで、頭がまだぼんやりしていた。
「魔力を、体の中心から放出するのだ。ゆっくりと、深く」
「は、はい……」
寝起きの体は、思うように言うことを聞かなかった。誠は大きくあくびを噛み殺しながら、なんとか集中しようとした。
すると——魔法陣が、これまでにない眩さで輝き始めた。
「な、なんという魔力量だ……! これは、歴代最高クラスの——」
審査官たちが色めき立った、まさにその瞬間。
「はっくしゅん!」
誠が、盛大なくしゃみをした。
集中が完全に途切れ、魔法陣の輝きが、不安定に明滅し始めた。
「お、おい、制御を——」
「す、すみません……!」
誠が慌てて立て直そうとした時には、既に遅かった。魔法陣は不完全な形で暴発し、会場の一角に、小さな煙を上げた。
「げほっ、げほっ……」
「な、なんという不安定さだ……。これほどの魔力を持ちながら、これほど制御ができぬとは……前代未聞だ」
審査官たちは、顔を見合わせて困惑していた。
「これでは、大魔法使いとして推薦することは、到底……」
こうして誠は、あと少しのところで、大魔法使いの認定も逃した。
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選ばれなかった者
三つの選定すべてで、あと一歩のところまで行きながら、結局どれにも認定されなかった誠は、会場の隅で一人、ぼんやりと座り込んでいた。
「規格外の潜在能力を持ちながら、どの認定にも至らなかったか……。実に、稀有な男だな」
法衣の老人が、誠を見下ろしながら、そう呟いた。
「あの、僕は、これからどうなるんでしょうか」
「うむ……正直なところ、前例がない。しばらく保留とし、追って沙汰を待て、としか言えん」
老人はそう言うと、他の——正式に認定された者たちの対応に追われ、誠のことは、いつしか忘れられていった。
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気がつくと、会場は静まり返っていた。認定された勇者候補、賢者候補、魔法使い候補たちは、それぞれ別室へと案内され、誠のような「認定されなかった者たち」だけが、取り残されていた。
「あの、私たちは……」
隣にいた老婆が、不安げに誠に尋ねた。
「分かりません……。とりあえず、外に出てみましょうか」
誠がそう提案した時には、既に周囲には誰もいなくなっていた。気づけば、誠一人だけが、その場に残されていた。
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城の裏口のような場所から外に出されると、そこは見渡す限りの草原だった。
「……本当に、一人か」
誠は、自分の格好を確認した。制服のままだった。鞄も足元に落ちている。中を開けると、教科書やノートに混じって、祖父のノートが、そのまま入っていた。
「これだけは……よかった」
誠は思わず胸を撫で下ろした。この状況で最初に安堵したのが祖父のノートの無事だったことに、自分でも少し可笑しくなった。
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しばらく歩くと、遠くに小さな村らしきものが見えてきた。誠はとにかくそちらへ向かうことにした。他に選択肢もなかった。
歩きながら、誠はぼんやりと、先ほどの出来事を思い返していた。
(勇者にも、賢者にも、大魔法使いにも、なれなかったな)
不思議と、悔しさはなかった。むしろ、どこかほっとしている自分がいた。
(あんな大層なもの、俺には荷が重かったのかもしれない)
誠は、鞄の中の祖父のノートを、そっと確かめた。
「まあ、いいか。俺には、これがある」
包丁研ぎと、野菜作りと、漬物と、保存食。祖父から受け継いだ、地味だが確かな技術。
それだけを頼りに、誠は見知らぬ世界での第一歩を、静かに踏み出した。
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村の入り口に近づくと、木の柵と、質素な家々が並んでいるのが見えた。日本の田舎とはどこか違う、しかしどこか懐かしさも感じる風景だった。
「あの、すみません」
畑仕事をしていた老婆に声をかけると、老婆は驚いた顔で振り返った。
「おや、見ない顔だね。旅の人かい」
言葉が通じる。誠は内心、大きく安堵した。
「はい、その……道に迷ってしまって」
「そうかい、それは大変だったね。とりあえず、村長のところに行くといい。ここいらじゃ、行き倒れの旅人は珍しくないからね」
老婆はそう言うと、誠を村長の家まで案内してくれた。
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村長は、白髪の恰幅の良い老人だった。誠の話——記憶が曖昧なふりをして、遠い町から来た旅の者だと説明した——を、疑うでもなく静かに聞いていた。
「なるほどな。まあ、この辺りじゃ珍しいことでもない。時々、お前さんのような格好をした者が、忽然と現れることがある」
「そうなんですか」
「ああ。中には勇者と呼ばれる力を持つ者もいるらしいが……お前さんは、どうだ」
村長は誠をじっと見た。
誠は少し身構えたが、すぐに首を振った。
「いえ、僕には、そういった特別な力はありません」
村長は特に何かを期待している様子でもなく、むしろ淡々と続けた。
「まあ、力があろうがなかろうが、うちの村には関係ねぇ。働き手は多い方がいい。しばらくここにいるといい」
「本当ですか、ありがとうございます」
誠は深く頭を下げた。
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その夜、誠は村はずれの空き家をあてがわれ、一人、藁の寝床に横になった。
窓の外には、二つの月が並んで浮かんでいる。
(俺、本当に異世界に来たんだな)
実感が、じわじわと湧いてきた。
勇者にも、賢者にも、大魔法使いにも、なれなかった。
けれど、体のどこにも、後悔のようなものは感じられなかった。
「まあ、いいか」
誠は思ったより落ち着いていた。
鞄から祖父のノートを取り出し、暗闇の中でそっと表紙を撫でる。
「包丁研ぎと、野菜作りと、漬物と、保存食。それだけは、ここでも通用するよな、多分」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
その夜、誠はノートに、こう書き加えた。
「勇者にも、賢者にも、大魔法使いにも、あと一歩のところでなれなかった。転んだり、腹が鳴ったり、くしゃみをしたり……情けない話だ。でも、なぜか、それでよかったと思っている」




