第3話「祖父の最期」
高校三年になった春、田中誠の日常に、静かな変化が訪れた。
祖父・辰三が、体調を崩したのだ。
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「大した事ねぇよ、ただの風邪だ」
祖父はそう言い張ったが、店に立つ時間は日に日に短くなっていった。医者に連れて行くと、心臓に負担がかかっていると告げられた。年齢が年齢だ、無理は禁物だと。
「じいちゃん、少し休んだら」
「休んだら店が回らねぇだろうが」
「俺がやるから」
「お前がか」
祖父は鼻で笑ったが、その日から少しずつ、店番を誠に任せるようになった。
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最初は失敗ばかりだった。
大根の重しの重さを間違えて、漬物を台無しにした。包丁の研ぎ角がわずかにずれて、常連客に「今日のは切れ味が違うね」と気づかれた。
「すみません、まだ祖父ほどには」
「いいのいいの、誠くんも頑張ってるんだから」
近所の客たちは優しかった。それが誠には、少しだけ悔しかった。
店の奥、椅子に座って様子を見ている祖父は、何も言わずにただ見守っていた。
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ある夜、店じまいの後、祖父が珍しく誠を呼んだ。
「誠。ノートを持ってきてくれ」
「ノート?」
「俺が長年つけてきた、仕込みの記録だ。奥の棚にある」
誠が持ってくると、祖父はそれを開き、震える手でページをめくった。塩加減、重しの重さ、季節ごとの野菜の育て方——数十年分の記録が、几帳面な字でびっしりと書き込まれていた。
「これ、全部じいちゃんが?」
「ああ。俺の親父からも、少しは教わった。だが大半は、俺が自分で試して、失敗して、覚えたことだ」
祖父は誠にノートを差し出した。
「持ってろ」
「いや、これはじいちゃんの……」
「持ってろって言ってるんだ」
その声には、いつになく強い響きがあった。誠は黙ってノートを受け取った。
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「誠。俺はもう長くねぇかもしれん」
「そんな、大げさな」
「大げさじゃねぇよ。医者にも言われてるだろうが」
祖父は窓の外、暮れかけた商店街を見つめた。
「なあ誠。俺はこの店で、大したことは何もしてこなかった。世界を変えるようなことは、何一つな」
「そんなこと……」
「けどな」
祖父は誠の目を見た。
「困った人に、旨い漬物を出す。切れねぇ包丁を、切れる包丁にする。それだけのことを、六十年続けてきた。それだけで、俺は十分だと思ってる」
誠は、何も言えなかった。
「お前がこの先、どんな人生を歩むかは分からねぇ。けどな、誠」
祖父は誠の手を、そのノートごと握った。骨ばった、しかし温かい手だった。
「地味なことを、丁寧に、飽きずに続けろ。それがいつか、誰かを助ける」
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それから一週間後、祖父は眠るように息を引き取った。
葬儀には、商店街の住人たちが大勢集まった。誰もが口々に、辰三の漬物の味や、研いでもらった包丁の切れ味の話をした。
「あの人の漬物がなかったら、うちの正月は成り立たなかったよ」
「刃物研ぎといったら辰三さんだった。他の店じゃもう頼めないねぇ」
誠は、その一つ一つの言葉を、静かに聞いていた。
(じいちゃんは、本当に、大したことをしてこなかったんだろうか)
答えは、もう出ていたのかもしれない。
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葬儀の後、誠は一人、店の裏の畑に立った。
大根の葉が、夕暮れの風に揺れている。
祖父のノートを胸に抱え、誠はぼんやりと呟いた。
「地味なことを、丁寧に、飽きずに、か」
その言葉が、これから誠が足を踏み入れることになる、全く見知らぬ世界での人生を支える柱になるとは——この時の誠は、まだ知らない。
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学校では、誠の様子がいつもと違うことに、何人かが気づいていた。
「田中、大丈夫か」
竜崎が珍しく神妙な顔で声をかけてきた。
「ああ、大丈夫」
「無理すんなよ。何かあったら言えよ」
「フッ……人の心の傷とは、他人が容易く触れられるものではない……だが田中よ、我はいつでもお前の"隣"にいるぞ」
黒崎らしい、迂遠な励ましだった。誠は思わず小さく笑った。
「ありがとな、二人とも」
教室の一番前では、桜庭が誠の様子をちらりと見て、それ以上は何も言わず、静かに視線を戻した。誠はその距離感が、なぜか心地よく感じられた。
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その夜、誠は自室で祖父のノートを開いた。
塩、重し、季節、温度——几帳面な記録の合間に、時折、祖父の呟きのような一言が書き添えられていた。
「今日の大根、上出来。婆さんが喜んでくれた。それで十分だ」
誠はそのページを、指でそっとなぞった。
その夜、誠が見た夢を、覚えている者はまだ誰もいない。
けれど、その夢の中で誠は、見知らぬ土の匂いと、見知らぬ空の色を、確かに感じていた。




