第2話「祖父の言葉」
それから誠の日常は、大きく変わることなく続いた。
学校では相変わらず空気のような存在で、店では相変わらず祖父にどやされながら包丁を研ぐ。变化があるとすれば、少しずつ、誠の手つきが祖父に近づいてきたということくらいだった。
「お、今日のは悪くねぇな」
祖父がそう言ったのは、誠が高校二年になった、ある秋の日のことだった。
研ぎ終えた出刃包丁を陽に透かし、刃先を確認する祖父の目が、いつもより長く刃に留まっていた。
「本当に?」
「世辞は言わねぇよ、俺は」
誠は素直に嬉しかった。学校では誰にも褒められることのない自分が、ここでだけは少しずつ認められている。それが誠にとって、唯一の拠り所だった。
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その日の夕方、店じまいの後で、祖父は珍しく手を止めて茶を淹れた。
「誠、座れ」
「何、改まって」
「いいから座れ」
湯呑みから立ち上る湯気を見つめながら、祖父はぽつりぽつりと話し始めた。
「俺はな、誠。若い頃、自分には何もねぇと思ってた時期があった」
「じいちゃんが?」
意外だった。誠にとって祖父は、いつも迷いなく手を動かす、揺るぎない存在だったからだ。
「ああ。俺の兄貴は頭が良くてな。大学まで出て、偉い会社に入った。俺は勉強もダメ、運動もダメ。八百屋を継ぐしかなかった」
「継ぐしかなかった、って……」
「悔しかったよ、最初はな」
祖父は湯呑みを両手で包み、遠くを見るような目をした。
「けどな、続けてるうちに気づいたことがある。派手なことは何もできねぇ俺でも、目の前の大根一本、包丁一本には、ちゃんと向き合えるってことだ」
「……」
「兄貴は偉い会社で偉くなって、偉い人たちと仕事した。俺はこの商店街で、近所のばあさんに『この大根で漬物作ったら美味かったよ』って言われる。それだけの人生だ」
「それだけって……」
「それだけだけどな、誠」
祖父は誠の目をまっすぐ見た。
「それだけの積み重ねが、この商店街を、六十年支えてきたんだよ。俺が死んでも、ここで漬物を漬ける人間が一人でもいりゃ、この味は残る。それだけで、俺は十分だと思ってる」
誠は、何と返していいかわからなかった。ただ、祖父の言葉が、静かに胸の奥に落ちていくのを感じた。
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「誠。お前は自分に何もないと思ってるだろう」
図星だった。誠は答えられなかった。
「けどな、お前は毎日ここに来て、俺の話をちゃんと聞いて、ちゃんと手を動かしてる。それができる人間は、実は少ねぇんだ」
「そんなの、当たり前のことじゃん」
「当たり前のことを、当たり前に続けられる。それが一番難しいんだよ、誠」
祖父はそう言うと、茶をすすり、いつもの厳しい顔に戻った。
「さ、片付けるぞ。いつまでも座ってんじゃねぇ」
「はいはい」
誠は苦笑いしながら立ち上がった。けれど、その日の祖父の言葉は、誠の中に、静かに、しかし確かに根を張った。
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学校では、その週も相変わらずだった。
「田中ぁ、今度の練習試合、絶対見に来いよ!」
竜崎が誠の肩を叩きながら言う。
「考えとく」
「その返事、また来ないパターンだ!」
「フッ……竜崎よ。眼に見える勝利だけが、勝利とは限らんぞ……」
黒崎が窓際から低い声で割り込んでくる。
「お前は黙ってろ! つーか今日もそのマフラー暑くねぇの!?」
「これは我が魂の一部だ。暑さなど問題にならん」
「意味わかんねぇ!」
いつも通りの騒がしい教室の中で、誠は一人、静かにノートに祖父の言葉を書き留めていた。
当たり前のことを、当たり前に続けられる。それが一番難しい。
一番前の席では、桜庭が誰とも群れず、静かに英字新聞を読んでいる。誠はふと、その横顔を見て思った。
(桜庭さんも、なんか、独特だよな)
けれどそれ以上、深く考えることはなかった。この時の誠には、まだ知る由もなかったのだ。この教室にいる何人かが、遠くない未来、全く違う世界で、全く違う姿で再会することになるとは。
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その夜も、誠は店の裏の畑で、大根の土寄せをしていた。
「これ、いつ収穫するんだっけ」
「あと半月ってとこだな。土寄せをサボると、又根になって売り物にならねぇ。地味だが大事な作業だよ」
「地味だが大事、ね」
誠はその言葉を、なんとなく自分に重ねてしまった。
祖父は誠の様子に気づいたのか、少し笑って言った。
「誠。地味なもんはな、目立たねぇだけで、なくなると一番困るもんなんだ。大根の漬物も、味噌も、砥いだ包丁も、みんなそうだ」
「……そういうもん?」
「そういうもんだ」
夕暮れの中、祖父と孫は、無言のまま草をむしり続けた。
その静かな時間こそが、誠にとって何よりの財産になるとは、まだ誰も気づいていなかった。




