第1話「田中誠の日常」
田中誠は、クラスで一番目立たない生徒だった。
成績は中の中。運動神経も中の中。特技と言えるものもない。文化祭の出し物を決める話し合いでも、田中の意見が採用されたことは一度もない。それどころか、田中が発言したことすら、翌日にはクラスメイトの誰も覚えていない。
そういう生徒だった。
「田中くんって、いたっけ」
これは二年に進級したとき、クラス替えの名簿を見た誰かが実際に口にした言葉だ。田中本人がすぐ隣にいたにもかかわらず、である。田中は特に傷つきもせず、「いるよ」とだけ答えて、それで会話は終わった。
そんな田中にも、放課後だけは違う顔があった。
⸻
「誠、包丁持ってこい」
祖父の声が台所から響く。田中家は三代続く八百屋だ。とはいえ大きな店ではない。駅前の商店街の隅、シャッター街になりかけた通りの、それでも律儀に朝六時からシャッターを開ける小さな店だった。
「はいはい」
誠は鞄を放り出し、割烹着に着替える。制服のままだと祖父に怒られるのだ。
「油断すんな。刃物は油断した奴の指を狙ってくる」
祖父の名前は田中辰三。齢七十八。腰は曲がっているが、握力は誠より強い。
砥石に水を垂らし、祖父が手本を見せる。
「角度が全て。研ぎ角が狂うと、切れ味は誤魔化せねぇ。研ぎってのはな、誠。刃物と会話することなんだ」
「会話って言われても」
「うるせぇ、黙って見てろ」
シャッ、シャッ、という音が規則正しく続く。祖父の手つきに無駄がない。何万回、何十万回と繰り返してきた動きなのだろう。
誠はその手元をじっと見つめる。授業中はろくに集中できないくせに、この時間だけは不思議と飽きなかった。
「お前は筋がいいよ」
祖父がぽつりと言う。
「筋がいいって、何に対して?」
「地味なことを、飽きずに続けられる筋だ。今どきの若ぇもんには、それがねぇ」
誠は苦笑いした。褒められている気はしなかったが、悪い気もしなかった。
⸻
翌日、学校では相変わらず誠の存在感は薄かった。
昼休み、教室の隅で弁当を広げていると、隣の席の男が身を乗り出してきた。黒崎という名の、いつも黒いマフラーを季節を問わず巻いている男だ。
「田中……お前の"眼"には、まだ見えていないようだな」
「何が」
「この教室に渦巻く、負の連鎖がだ……」
「弁当食っていい? もう昼休み半分終わってるんだけど」
「フッ……いいだろう。今日だけは見逃してやる」
黒崎はそう言うと、窓の外を見つめて何かに酔いしれている。誠は特に気にせず卵焼きを口に運んだ。この教室では見慣れた光景だった。
その向こうでは、サッカー部の竜崎が声を張り上げていた。
「よっしゃ次の試合絶対勝つぞー! 田中も見に来いよな!」
「行けたら行くわ」
「その返事、絶対来ないやつじゃん!」
竜崎は笑いながら誠の肩を叩き、また別の友人のところへ駆けていく。誠はその明るさを、少し眩しく感じながら見送った。
教室の一番前の席では、桜庭という帰国子女の生徒が、英語の課題を涼しい顔で片付けていた。誰とも群れず、いつも一人で本を読んでいる。誠とは、これまでまともに話したことがない。
田中誠の日常とは、こういうものだった。目立つ誰かの周りを、ただ静かに通り過ぎていく毎日。
⸻
「今日は漬物の仕込みだ」
放課後、店に戻るとまた祖父の声が飛んできた。
「今日はもう研ぎはいいの?」
「研ぎは毎日やるんだよ阿呆。漬物は漬物で覚えることがある」
大根を並べ、塩をまぶし、重しを乗せる。祖父の手つきは、これもまた迷いがない。
「なんでそんなに、色々知ってるの」
「知ってるっていうか……体が覚えてるんだ。考える前に手が動く。それだけの話だ」
「それって、どうやったらそうなるの」
祖父はその質問に、少し嬉しそうな顔をした。
「毎日やることだ。それだけだよ。派手なことは何もねぇ。ただ、毎日同じことを、丁寧にやり続ける。それだけが、いつか誰かの役に立つ」
誠には、まだその言葉の重みがよくわかっていなかった。
⸻
「味噌の仕込みもそろそろ教えとくか」
ある日、祖父は店の裏の小さな蔵に誠を連れて行った。大きな樽がいくつも並び、独特の匂いが漂っている。
「これは去年仕込んだ味噌。こっちは梅干し。塩加減一つで、腐るか腐らねぇかが決まる」
「こんなの、今どき自分で作る人いるの?」
「いなくても知っといて損はねぇ。知識ってのはな、誠。使う日が来るまで、腐らず待っててくれるもんなんだ」
誠はその時、特に感慨もなく頷いただけだった。
まさかこの知識が、自分の人生を、そして見知らぬ世界の何百人もの命を、支えることになるとは、この時の誠には知る由もなかった。
⸻
その夜、誠は自分の部屋で、ぼんやりと天井を見つめていた。
竜崎のような輝きも、桜庭のような聡明さも、黒崎のような強烈な個性も、自分にはない。
(俺には、何もないな)
そう思いながらも、不思議と焦りはなかった。
包丁を研ぐ。野菜を育てる。漬物を漬ける。保存食を仕込む。
地味で、誰にも褒められることのない毎日。
けれど、なぜだかそれを続けることが、誠にとっては嫌ではなかった。
その夜、誠が見た夢を、覚えている者は誰もいない。
けれど、それが全ての始まりだった。




