第93話「言えなかったこと」
「——遠慮して——言えずに——おった、か」
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——その夜。
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——賢者が——ぽつり、と——呟いた。
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「——どうしました?」
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「——気に——なるのだ」
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——彼は——机に——肘を——ついた。
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「——飯の、ことは——分かった」
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「——だが——他にも——あるのでは——ないか」
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「——言えずに——おる、ことが」
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「…………」
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——誠は。
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——しばらく——考えて。
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——そして——言った。
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「——聞いて——回りましょうか」
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「——何をだ」
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「——"困ってるけど——言えずにいること"、を」
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「——それは——難しいぞ」
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——賢者は——首を——振った。
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「——言えぬから——言えずに——おるのだ」
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「——聞いた、ところで——言うまい」
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「——そうですね」
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——誠も——頷いた。
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「——だから——聞き方を——工夫します」
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——翌朝。
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——広場に——大きな——箱が——置かれた。
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「——なんだ、これは」
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「——投げ込み箱です」
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——誠は——札を——貼った。
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——「言いにくいことを——書いて——入れて——ください」
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——「名前は——要りません」
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「——名を——書かずに——よいのか」
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「——書かせたら——誰も——入れません」
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——誠は——きっぱりと——言った。
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「——それに——字が——書けない——方も——いますから」
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——彼は——箱の——横に——もう一つ——置いた。
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「——こちらは——口で——言う——方の——ためです」
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「——誰が——聞くのだ」
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「——皆瀬さんに——お願いしました」
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『——うん』
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——箱の——上で。
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——小さな——スライムが——ぷるん、と——揺れた。
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『——聞いて……誰が——言ったかは——言わない』
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「——なるほど、な」
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——三日。
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——箱は——空の——ままだった。
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「——駄目、か」
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「——待ちましょう」
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——五日目。
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——一枚だけ——入っていた。
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——「薬が——欲しい。だが——皆——我慢して——おるので——言えぬ」
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「…………」
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——誠は。
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——その——紙を——じっと——見つめた。
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「——一色さん。薬の——蓄えは」
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「——あるわ。使われてないだけ」
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「——使われてない——!?」
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「——誰も——取りに——来ないのよ」
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——一色は——渋い——顔を——した。
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「——余ってるのに」
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「——余ってる、って——皆さん——知ってますか」
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「…………」
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——一色が。
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——目を——見開いた。
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「——言って——なかったわ」
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——その日から。
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——広場に——新しい——札が——貼られた。
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——「薬は——足りています。遠慮なく——お取り——ください」
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——すると。
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——翌日には——列が——できた。
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「——こんなに——具合の——悪い——人が——いたのか」
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——賢者が——愕然と——した。
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「——皆——黙って——耐えて——おったのか」
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「——足りないと——思ってたんです」
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——誠は——列を——見ながら——言った。
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「——"自分が——もらったら——他の——誰かが——困る"、って」
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「…………」
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——そして。
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——箱は——一気に——埋まり始めた。
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——「井戸の——水が——臭い。だが——直せ、とは——言えぬ」
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——「子どもが——学べる——場が——欲しい。だが——今——言うことでは——ない」
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——「亡くなった——者を——弔う——場所が——ない」
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「…………」
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——誠は。
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——三枚目を——読んで——動きを——止めた。
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「——弔う——場所」
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「——ない——な」
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——賢者が——低く——言った。
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「——地上は——灼けて——おる。埋めることも——できぬ」
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「——地下は——住むだけで——精一杯だ」
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「——じゃあ——この——三年で——亡くなった——方は」
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「…………」
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——賢者は——答えなかった。
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——誠は——調べた。
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——三年で——亡くなった——者。
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——四百二十七人。
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——そのうち——名前が——残っているのは。
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——二百十一人。
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「——残り——半分は」
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「——避難の——最中に——亡くなった——方々です」
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——記録係の——男が——うつむいた。
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「——身元が——分からず——そのまま」
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「…………」
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——誠は。
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——長い、こと——黙っていた。
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「——田中」
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——賢者が——声を——かけた。
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「——気持ちは——分かる。だが——今は——布を——織らねば——ならん」
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「——期限が——あるのだぞ」
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「——分かってます」
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——誠は——顔を——上げた。
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「——でも——一つだけ——作らせて——ください」
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「——何を——だ」
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「——壁を——一つ」
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——それは。
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——ごく——質素な——ものだった。
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——第五層の——広場の——奥。
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——磨いた——石の——壁。
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——そこに。
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——名前が——彫られた。
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——二百十一の——名。
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——そして——その——下に。
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——広い——空白が——残された。
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「——なぜ——空けて——おる」
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「——名前が——分からない——方の——ためです」
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——誠は——静かに——言った。
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「——いつか——思い出す——人が——いるかも——しれません」
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「——その、時——書けるように」
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「…………」
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——壁が——できて——三日。
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——広場の——奥には。
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——絶えず——人が——立つように——なった。
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「——ああ……ここに——おったか」
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「——じいちゃん」
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「——三年——探して——おったんだ」
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——そして。
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——空白の——部分に。
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——一つ、また一つと——名前が——増えていった。
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「——あの、人——名前は——分からんが」
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「——港町で——うちの——子を——庇って——くれた——人が——おった」
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「——せめて——"あの、時の——人"、と——書いても——いいか」
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「——書いて——ください」
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——一色が。
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——壁の——前で——立ち尽くしていた。
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「——一色さん?」
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「……誠」
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——彼女の——声は——震えていた。
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「——私、こういうの——後回しに——してた」
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「——"生きてる——人が——先"、って」
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「——間違って——ないと——思います」
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「——でも」
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——一色は——壁を——見上げた。
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「——皆——ずっと——ここを——探してたのね」
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「——三年」
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「…………」
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——そして。
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——妙なことが——起きた。
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「——おい——! 布の——出来が——上がって——おるぞ——!」
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——賢者が——帳面を——持って——駆けてきた。
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「——え?」
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「——五十枚中——二十枚だったのが——四十枚だ——!」
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「——三日で——倍に——なって——おる——!」
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「——なぜ——ですか」
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「——分からん——!」
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——だが。
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——織り場に——行った——誠は。
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——すぐに——分かった。
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「——おばあちゃん。ずいぶん——熱心ですね」
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「——ああ、誠さん」
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——第七層の——老女が——手を——止めずに——言った。
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「——うちの——爺さんの——名前が——壁に——載ってな」
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「——三年ぶりに——手を——合わせられた」
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「…………」
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「——だから——せめて——何か——したくてなあ」
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——老女は——笑った。
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「——この、歳で——できることは——これくらいだ」
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「…………」
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——見渡すと。
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——織り場は——人で——埋まっていた。
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——年寄り。
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——手の——空いた——者。
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——子ども。
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——皆——黙々と——糸を——通していた。
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「——賢者さん」
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——誠は——静かに——言った。
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「——理由——分かりました」
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「——なんだ」
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「——皆さん——"何かの——ために"、やってるんです」
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「…………」
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——賢者は。
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——織り場を——見渡して。
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——そして——ぼそり、と——言った。
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「——私は——お前に——"今は——布を——織らねば"、と——言ったな」
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「——はい」
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「——間違って——おった」
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——賢者は——首を——振った。
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「——壁を——作ったから——布が——織れて——おる」
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「——いえ」
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——誠は——首を——振った。
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「——賢者さんが——"言えずに——おることが——他にも——あるのでは"、って——言ったからです」
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「——あれが——なかったら——箱も——置いてません」
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「…………」
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——賢者は。
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——ふん、と——鼻を——鳴らして。
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——そして——顔を——背けた。
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「——お前は——本当に——人を——立ち直らせるのが——上手いな」
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「——商売ですから」
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——その夜。
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——誠は——壁の——前に——立っていた。
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——空白は——だいぶ——埋まっている。
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——だが——まだ——半分ほど——残っていた。
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「——旦那」
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——駄々丸が——並んだ。
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「——駄々丸さん」
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「——いい——壁で——ござんすね」
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「——名前が——分からない——方が——まだ——たくさん——います」
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「——へえ」
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——駄々丸は。
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——煙管を——ふかして。
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——そして——ぽつり、と——言った。
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「——名を——忘れられるってなァ」
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「——二度目の——死で——ござんすよ」
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「…………」
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——誠は。
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——ふと——ある、ことを——思い出した。
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——名前を——失った——者たちが。
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——この、地下には——他にも——いる。
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——山田。鈴木。賢者。魔法使い。
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——そして——顔を——思い出せぬ——同級生たち。
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「——駄々丸さん」
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「——へえ」
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「——生きてる——人が——名前を——失うのも」
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——誠は——静かに——言った。
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「——同じ、ですか」
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「…………」
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——駄々丸の。
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——煙管が——止まった。
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「……旦那」
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「——はい」
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「——そいつァ——聞いちゃ——いけねェ、ことで——ござんす」
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「——なぜですか」
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——駄々丸は。
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——長い、こと——黙って。
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——そして——扇子を——閉じた。
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「——あっしが——答えられねェからで——ござんす」
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その日、誠は、祖父のノートに、こう書き加えた。
「賢者さんが、"飯のことは分かった。だが、他にも、言えずにおることが、あるのでは"、って。……だから、広場に、投げ込み箱を、置いた。名前は、書かなくていい。字が書けない人のために、皆瀬さんにも、聞いてもらう。誰が言ったかは、言わない。……三日、空だった。五日目に、一枚。"薬が欲しい。だが、皆、我慢しておるので、言えぬ"。……一色さんに、聞いたら、薬は、余ってた。誰も、取りに来ないから。"余ってる、って、皆さん、知ってますか"、って聞いたら、"言ってなかったわ"、って。札を貼ったら、翌日、列が、できた。皆、"自分がもらったら、他の誰かが困る"、と思って、黙って、耐えてた。……それから、箱が、埋まり始めた。井戸の水が臭い。子どもが学べる場が欲しい。そして——"亡くなった者を、弔う場所がない"。……調べたら、三年で、四百二十七人、亡くなってた。名前が残ってるのは、二百十一人。残り半分は、避難の最中で、身元が分からないまま。……賢者さんに、"今は布を織らねば"、って言われたけど、一つだけ、作らせてもらった。壁を、一つ。名前を、彫って、下に、広い空白を、残した。いつか、思い出す人がいるかも、しれないから。……三日で、広場の奥に、絶えず、人が立つように、なった。"三年、探しておったんだ"、って。空白にも、名前が増えていった。"名前は分からんが、港町で、うちの子を庇ってくれた人"、って、書いてもいいか、って聞かれたから、書いてください、って言った。一色さんが、壁の前で、"私、こういうのを、後回しにしてた"、って、泣いてた。……そしたら、布の出来が、三日で、倍に、なった。織り場に、行ったら、おばあちゃんが、"うちの爺さんの名前が、壁に載ってな。三年ぶりに、手を合わせられた。だから、せめて、何かしたくて"、って。皆、"何かのために"、やってた。賢者さんが、"壁を作ったから、布が織れておる。私は間違っておった"、って。……夜、壁の前で、駄々丸さんが、"名を忘れられるってなァ、二度目の死でござんすよ"、って。だから、聞いてみた。"生きてる人が、名前を失うのも、同じですか"、って。……駄々丸さん、"そいつァ、聞いちゃ、いけねェことでござんす"、って。なぜか、聞いたら、"あっしが、答えられねェからで、ござんす"、って。じいちゃん。あの人、何か、知ってる」
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心の中に——一つの、月が——浮かんでいた。
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——たとえ——空に——見えなくても。
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まだこの時の誠は知らない。名を——彫るための——壁が。
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——やがて——もう一つ——別の——名を——刻むことに——なるのを。
そして——駄々丸が——「答えられねェ」、と——言った——その、問いが。
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——この、地下で——一番——重い——ものであることも。
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——今は……まだ、誰も——口に——して——いない。




