89話 あなたが終われば
——ゆりかごの中で、赤ん坊が眠っている。
何の音も流れない、穏やかな静寂が天賦を包んでいた。
天賦はこんなに幼い子供と関わった記憶なんてない。なのに、その赤ん坊をなんとなく知っている気がした。
そして、そのゆりかごを揺らす人間が1人。白く、すらりとした美しい腕が、木造のそれを愛おしげに撫でている。
天賦は隣を見る。そこには、ヘーゼルブラウンの瞳をした女性が、慈愛に満ちた顔で赤ん坊を眺めていた。
この人には見覚えがある。カローラ・フェンの教会で見た、"勇者"と結婚式を挙げていた女性——「姫様」だ。
彼女は天賦の肩にもたれかかり、天賦を体を緩やかに抱き寄せた。
——よく眠っていますね。
シルクのような声だ。
天賦は口を小さく開いて眠る子に目を落とす。
肌は柔く、手は驚くほど小さい。もちろん、その子はどこからどう見ても獣人には見えなかった。
「姫様」のオークルの髪がさらりと落ちる。"勇者"は愛する人に対して、どんなことをするのだろうか。天賦はそれがわからなかったので、なされるがままでいよう——とした。
天賦の手は、勝手に「姫様」の頭を撫でていた。自分で動かそうと思って手を伸ばしたわけではない。ただ、自然とそうなっていたのだ。
「そうだね。ぐっすりだ」
またもや、勝手に口が動いた。
いつもの拙い口調ではなく、すらすらと言葉が出てくるのだ。他のことを喋ろうとしても、上手く口が動かない。
もしや、"勇者"が喋ったことをそのまま口にしているのだろうか。それ以外の可能性が、天賦には思いつかない。
何か得られないか、と天賦は"勇者"と姫の会話を注意深く聞いた。忘れてしまわないように。
だが、2人が話すのは日常的な話ばかり。魔王や英雄に繋がりそうな話は出てこなかった。
——本当に、平和をもたらしてくれてありがとう。
彼女はふわりと笑う。
平和を、ということは、やはりこれは魔王——カルメが封印された後の光景だ。そして、英雄たちが呪源になる前の。
平穏な時間だ。
ここから、どうやって再び世界の危機が訪れるか天賦には全く予想だにできない。一体何が、彼らを。
「少し、部屋に戻ってもいいかな」
どうやら、"勇者"は自室でしたいことでもある様子だった。姫は頷いて、再び赤ん坊に目を移す。
天賦の体は勝手に歩き出す。"勇者"の部屋がどこかなんて知らないが、足は確証を持って豪華な廊下を歩いた。天賦では一生住むことのできないような、広大な場所である。
そして、一室。姫といた部屋より少し狭いくらいの場所に入り、扉を閉めた。
部屋の中は盾や何かの勲章などが飾られていて、まさに英雄の部屋といった感じだ。不自然すぎるくらい、生活感は無い。
"勇者"は足を動かす。そして、1番大きな盾の前で足を止めた。反射するそれに映る姿は、やはり天賦のもの。"勇者"の顔を拝むことはできなかった。
しばらくそれを眺め、それから、天賦の口は小さく動かされた。
「劇的で、感動的で、驚異的な勝利を」
天賦は冷水をかけられたような気分になった。
なぜ、"勇者"がそんなことを。
天賦の腕が握り拳を作り——その盾を強く叩いた。
天賦は混乱した。一体、"勇者"は何をしている。
そのまま、天賦の体はシェルフの上に置かれた何かの彫刻を払い、壁に打ちつけた。当然それは割れて破片になる。
肩が揺れる。ついさっきまで、静かな時間が流れていたのにどうしてしまったんだ。"勇者"の感情が動くような出来事が、天賦が観測する前にあったというのか。
しばらく経って、天賦はようやく気がついた。
"勇者"が、笑っている。
そして、天賦の意思とは関係なく、その手が腰に伸ばされた。そこにあるのは——剣。
グリップを握り、口が動く。
「——だよね、"相棒"?」
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「——ああ、目が覚めた! よかったわぁ」
独特な訛りの声が聞こえる。目を開けてからしばらくして、ようやく天賦は自分が仰向けに寝ていることを自覚した。
すぐに天賦は飛び上がって起きる。すぐそばにいた馬の獣人の女性が「わっ」と小さく驚いた。
「ここどこ」
「教会やで」
教会、と聞いて天賦は身構えたが、よく見てみるとカローラ・フェンのあの場所とは全く違う。質素で、荘厳さはない温かみのある雰囲気だ。
「先生のとこの使用人さんらがな、天賦さんらを治療してくれたんや。でも、もう少し寝といた方がいいと思うわぁ」
「……ありがとう」
頭がズキズキ痛む。
それは外傷からの痛みではなく、内からくるものだ。さっきの夢のことを思い出すと、余計に。ひとまず、あのことは一度忘れることにした。
「みんなは……」
「あっち。再生師さんはまあまあ元気やけど、カルメさんと炎砲さんはまだ安静にしといた方がええなぁ」
女性は向かい側を指す。そこにはベッドに座りながらこちらに手を振る再生師がいた。天賦はちょっとごめん、と言ってベッドから降りる。邪魔な髪は結んでおいた。
「再生師、大丈夫?」
「少しだるいが、私は元気だ。それよりも……。」
横に視線がずれる。
再生師の横には、頬杖をついて寝転がるカルメがいる。
「カルメ、平気なの」
「全身大火傷。治療中にマスク外されそうになってアブねかったぜェ」
カルメの体には包帯がぐるぐる巻かれている。彼の怪我を【治癒】で万全に治すことができなかったのか、もしくは魔力が足りなかったのだろう。魔王の体のことは天賦にはよく分からない。
今の状態で鳥に戻ったら羽はどうなるのかな、とか考えていた。
「嬢ちゃんも、姉ちゃんもタフだねェ」
「ちょっと指が震えるけど、元気」
「今はまだ寝たい気分だ。」
ついさっきまで激しく動いていたから、その反動でどうにも腕が重く感じる。できればこのまま床に転げたい気分だった。
「ンで、兄ちゃんはまだだな」
炎砲はまだ眠っている。頭や首に包帯が巻かれていた。
「チラッと聞いたけど、なんか魔力回路ズタズタとか、頭を打った跡がとか話してたぞ」
「炎砲は呪いに、カルメから落ちたからな……。」
「本当、悪いコトした」
きっと、呪解者の使用人たちは彼を重点的に治療したのだろう。【再生】で治らないところばかりを怪我している。
彼の胸は小さく上下して、落ち着いている様子だった。
「……あー、とりあえず、水でも飲んだら?」
「ん」
馬獣人の女性からコップを受け取り、それを一気飲みする。変なところに入って咳き込んだ。
口を拭っていると、扉が開けられる音がした。
誰がやってきたのかな、と見ると、そこには息を切らして、鼻を赤くしているファティがいた。
彼は天賦たちに駆け寄り、そしてまだ眠る炎砲を見て息を呑んだ。
「炎砲くん!」
「ダーイジョーブだっての。寝てるだけ」
それを聞いて、ファティはふらっとよろけてから床に座り込んだ。
「よ、よかったぁ……みんな無事で……」
比較的高い背を縮めて、大きく息をつく。天賦は彼に触れていないのに、ファティの心臓が大きく脈打つ様を容易に想像できた。
「ああ、斃してきたぞ。」
「天賦さんも、ああ、本当、本当によかった」
一体どれだけ天賦たちを心配していたのか、目尻に涙を浮かべている。もはや彼を無理やり同行させているなんて言っても、誰も信じないだろう。
「あ、あの、これ」
ファティは懐から何かの入れ物を取り出す。天賦がそれを開けると、中には肉と野菜を挟んだパンがいくつか入っていた。
「お腹減ってるかなって、いや、食欲なかったら全然大丈夫なんですけど」
「減ってた」
天賦はその中から2つ取り出して、大きく頬張った。いつも通りの、ファティの料理である。
「私も貰おう。」
「はい」
あっという間に、そのバスケットの中身は空になった。炎砲の分もとっておくべきだったかな、と最後の一つを食べながら後悔した。
「ファティ、ありがと」
「え、いえ」
「てか、良かったのかよアレ。粉丸々使っちまったぞ」
カルメが言っているのは「王の盃」のことだろう。とても珍しい調味料だというのに、カローラ・フェンの時間稼ぎのためだけに使用した。
しかし、ファティは慌てて手を横に振った。
「いえっ、元々棚の中で腐らせてたものなので全然。みなさんの役に立ったのなら、それで」
そういうことなら、気にしすぎるのも悪いだろう。ファティにもう一度感謝の言葉を送る。
「ううん……」
その時、炎砲が眉を寄せて布団の中で呻った。頭を押さえて、それからゆっくり目を開ける。
「炎砲、起きたか!」
「ここは……」
「ガフタの教会だ。私たちは帰ってきたんだ。」
ふっと彼の顔が緩む。
「みんな、無事?」
「大丈夫。無事」
「そっか、なら良かった……」
再び炎砲は目を閉じた。まだ立てる様子ではないようだ。天賦と同じように頭痛がしているのかも。
「だ、大丈夫ですか炎砲くん。とにかく、水分補給をした方がいいですよ」
「ありがとう、ファティ」
ファティの手からコップを受け取り、ゆっくりそれを傾ける。天賦とは違い、炎砲は咳き込まなかった。
すると、ファティが向き直り、天賦たちの顔を一通り見回した。何やら落ち着かない様子である。
「……えっと、その」
「どーしたのよ」
自身の銀の耳飾りを一度撫で、その手を流れるように髪に伸ばして耳にかける。彼は、床を見ながら小さな声で言った。
「おっ、おか……おかえり、なさい」
彼から、その言葉を聞くのは初めてだったような気もする。天賦には、そこまでファティが吃る理由が分からなかった。
「ただいま」
「ああ、ただいま!」
「たでーま」
「ただいまぁ」
口々に言葉を返す。
ファティは口を腕で押さえて、それから動かなくなってしまった。
「……ま、とにかく今はお大事にってトコだな。センセーへの報告も後ででいいだろ」
「いいの?」
「呪源ブッ斃してきたんだぞ。何急かす理由があンだよ」
それもそうか、と天賦はベッドに腰掛けた。呪解者も報告が遅れて怒るような人間ではないだろう。今はカローラ・フェンとの戦いを説明できるほど脳が落ち着いていない。
「あ、そういえば天賦に言っていなかったな。天賦が連れ去られている間、街の方でも少し騒ぎがあったんだ。」
「え、そうなの」
「ああ。呪解者の屋敷が楽園教の襲撃を受けてな。」
初耳だ。使用人たちが天賦たちを治してくれたのなら彼らは無事なのだろうけど、屋敷が燃えたりでもしていたら大変だ。あそこには英雄に関する物が沢山ある。
「今は寝よう。天賦も、1番大変だったんだから」
「そ、そうですよ。あんな集団の話なんて、今はしたくないです」
今日は休む、という方向性で話がまとまる。天賦もそうしようとベッドに潜ろうとした時、ふとあることを思い出した。
「お、嬢ちゃんドコ行くの?」
「教会歩くだけ。すぐ戻る」
「あまり体に負担をかけないようにな!」
再生師たちに返事をして、天賦は教会の職員の女性に話を聞き、ベッドが並んだ部屋から移動した。
静かな木造の廊下である。
外では少しだけ雪が降っていて、子供が走り回っていた。のどかな景色だ。
しばらく歩き、大きな扉を開ける。
そこは——聖堂だ。天賦はそこを何と言うのかは知らない。とにかく、広い空間。カローラ・フェンと戦った場所と構造が似ている。
ただ、あそこと違うのは絢爛さがないこと、それと席が前を向いていることだ。どうやら、席が壁を向いているのは普通のことではなかったらしい。
中央の道を歩く。そこには誰もいない。天賦は足音を立てずに歩くので、まったくの無音が訪れた。
そして、祭壇に辿り着く。
"勇者"と姫が結婚した場所、天賦と再生師が結婚の真似事をした場所、カローラ・フェンが最後に手を伸ばした場所だ。
天賦は自身のポケットの中に手を入れる。
そこから出てきたのは——カローラ・フェンが差し出してきた指輪だ。
あそこが崩れる前、なんとなく手の中に入れたそれ。不恰好で、ごつごつとしていて、指輪というより部品のようにも見える。だが、彼女にとっては間違いなく、これは指輪だった。
その縁を撫でる。輝きは無い。
握りしめて、天賦は指輪を祭壇の上に置いた。
何かが起きるわけではない。ずっと、静寂である。
もし、"勇者"が彼女の想いに気づいていたら、その想いに答えていたら、そんなことを考えるのは無意味だ。どれだけ想像しても、サマルエルムの身に起こったことは覆らない。
"勇者"がサマルエルムにとってどんな人だったか、どんなところに惹かれたのか。天賦にはこれからも分からない。
ただ、それでも、彼女が安らかに眠ることを願うのは間違っていないはずだ。
別れの言葉を指輪に込めて、天賦は聖堂を後にした。




