88話 おもうもの
ぎり、と花弁に爪が食い込む。
流れる黄金の血を物ともせず、カルメは刃を押し付けていた。
「死んだふり作戦成功ー。……イッデェ……」
カルメは首を回す。軋む音からカルメはかなり大きい負傷を負ったのだと推測できるが、彼は相変わらずの軽口を叩いていた。
「カルメ……!」
「なァにボサっとしてンだよ、早くやれ!」
カルメの黄色い目を見て、はっとした。
そう、天賦がしなくてはならないのはカローラ・フェンを斃すこと。結婚することじゃない。
鎖を握り直し、立つ。
まだここで終わるわけにはいかないのだ。
暴れ狂うカローラ・フェンの前足に鎖をひっかける。鉄球がくるんと回り、それは簡単に巻きついた。
起きあがろうとするカローラ・フェンを、カルメが上からその爪で押さえつける。長くは持たない拘束だ。
「再生師!」
「把握した!」
背後から再生師が飛び出す。
それに気がついて、カローラ・フェンは身を震わせた。巨体から「サマルエルムの涙」が飛び、再生師を焼こうとする。
黄金の飛沫は宙を浮かび、そして——光に包まれて蒸発した。
炎砲の援護射撃だ。手袋をボロボロにして、床から顔を上げて手を伸ばしている。
再生師を遮るものはなくなった。彼女は身を鮮やかに翻し、教会の端に追いやられたカローラ・フェンの前足に刃をざくりと刺した。
尻尾の先が小刻みに揺れて、カローラ・フェンが叫んだ時——前足は空に飛ばされた。
あと狼の体にくっついている足は後ろ脚一本だけ。もはや移動のしようがないように思えた。
「ぐ、そ、そろそろ限界……!」
カルメが苦しげにそう言った時、カローラ・フェンは人間の腕を使ってカルメを掴み、そのまま振り上げてカルメを壁に衝突させた。羽が落ちて、やはり焦げ臭いにおいがする。
「カルメ!」
「前見ろ、前!」
天賦は正面を見る。
カローラ・フェンがこちらに突進しようとしてきていた。だが、その動きはずっとのろい。一般人なら避けられない、くらいの速さだ。
それを避けて、後ろ脚に向けて鎖を伸ばす。しかし、カローラ・フェンに勘付かれて鉄球を再び掴まれてしまった。
「この……!」
だが、天賦は手を離さない。
ここでリーチのある武器を手放すわけにはいかないのだ。腰を落とし、腕の筋肉の筋を立てて歯を食いしばる。
最初はいとも簡単に引っ張られて、天賦では成す術がなかった。だが、今は——
じゃら、と鎖が鳴り、鉄球がカローラ・フェンの腕から抜ける。そのまま勢いをつけて飛んできたそれを、天賦は鎖をうねらせて回収した。
成功だ、上手くいった。
体勢を立て直し、次こそはとその脚を睨む。
「……天賦、再生師」
か細い声が届いた。血まみれの、ふらりと立ち上がる炎砲である。
「俺と、カルメで時間を稼ぐ。その間に、"結婚式"を」
——"勇者"と姫の結婚式の再現。サマルエルムが、心を押し殺して祝福の言葉を送ろうとした、あの場所。
彼女が最も辛いことは、きっとそれをもう一度見ることだ。
「カルメ」
「おうよォ!」
カルメはぎくしゃくと翼を動かし、その背に炎砲を乗せた。再生師と顔を見合わせ、互いに頷く。
祭壇に向かう2人に、カローラ・フェンは制止を促すように叫び、体を無理やり動かして天賦たちを吹き飛ばそうとした。しかし、その花に閃光が飛ぶ。
炎砲は己が放てるだけの【砲撃】を放った。気を失うわけにはいかないから手袋を外すことはしない。だが、その絶え間ない砲弾の嵐は、カローラ・フェンを苦しめるには十分だった。
天賦と再生師は祭壇に立ち、向かい合う。ヴェールも造花もここにはない。
天賦の白いスーツも酷い有様だし、再生師の格好はどう見ても花嫁には見えない。
だが、外から刺す月光が、2人を白く照らしている。
カローラ・フェンは叫び続ける。
炎砲の追撃で、最後の一本の脚ももげた。だが、血液を揺らしながら必死にもがいている。
細い腕を伸ばして、割りに合わない巨体を引きずって動く。その目的地は天賦たち——ではなく、大きな瓦礫だ。
それを掴み、予備動作も無しにカルメに向かって投げつけた。炎砲もいきなりの攻撃に対応できず、照準をカローラ・フェンから瓦礫に瞬時に移すことはできなかった。
「あぶっ……!」
カルメが翼を限界まで大きく開き、炎砲に直撃しないようその身で瓦礫を受け止める。だが、衝撃は免れなかった。
カルメの体が大きく揺れ、炎砲はその毛から手を離してしまった。戦いの終盤、魔力回路ばかりが発達した彼に物を掴み続ける握力なんて残っていなかったから。
「炎砲!」
炎砲は空から投げ出され、柱の側に落ちる。幸い、席の上に落ちたので液に溶かされることはなかったが、それでもあの高さからの落下は、下手したら死ぬ。
「クッソ、今しかねェ……!」
カルメは空から降りて、炎砲への謝罪の言葉を呟きながらカローラ・フェンを鉤爪で掴んだ。じゅう、と絶え間なくカルメの身体が焼ける音がする。
「カル——」
「いい! 続けろ!」
モーニングスターを持とうとした天賦を、カルメが止める。折角作ったチャンスを逃すなと言っているのだ。
「天賦、早く!」
天賦は辺りを見回す。すると、何かの拍子で外れたのか、輪っかの形をした金具が目に入った。
天賦はそれを取り、手の中に握る。
カローラ・フェンの抵抗が激しくなる。しかし、消滅しそうな雰囲気は感じられない。むしろ、力を増しているような。
果たしてこれで合っているのか、天賦は不安に駆られる。何か、他のことをすべきだったか。
「——空を巡る風よ、大地を支える命よ……!」
その時。
小さく、それでいて確かな声が聞こえてきた。
身を引きずりながら、顔を上げる炎砲である。
彼は、天賦が二度聞いたあの祝福の言葉を述べていた。炎砲が言葉を紡ぎ出した瞬間——
カローラ・フェンが、いっとう大きく叫び出した。
天賦と再生師は目を瞑り、互いの手を握る。
「喜びの日にはっ、笑顔を分かち合い——」
ばしゃばしゃと、己の血を掻き分ける音。
叫び声に負けないよう、炎砲が言葉を唱える。天賦の耳にはしっかりと、その声が届いていた。
「互いを、愛しっ、互いに誓い、その、想いを決して、偽ることなく」
咳き込みながらも言葉を続ける。
飛沫が飛んで、天賦のかかとが焼けた。神経を直接の刺激されるような痛みに襲われるが、天賦は目を開けなかった。
「かみ、がみと、この場に集う、すべての者たちの前で、宣言します……」
自然と、心が凪いでいく。
"勇者"は彼女の気持ちに気がついていたのか、そうではなかったのか。今となっては、分からないことだ。
「……二人の未来に、永遠の幸あらんことを!」
——天賦は、目を開けた。
再生師と目が合い、青緑の輝きと赤の輝きが交換される。——そして、天賦は、再生師に金具を渡す。再生師はそれを己の薬指にはめて、握りしめた。
天賦の髪を、夜のそれはそれは寒い風が持っていく。しかし、凍えそうなそれも、天賦は今だけは気にならなかった。
それよりも——"相棒"を握り、白い服を撫で、彼女の方を見て。
天賦では、想いに応えることはできない。
「『ごめんね、サミー』」
——カローラ・フェンの体が焼ける。
自らの体液にもがき始めたのだ。カルメは彼女を押さえつけるのをやめて、鉤爪を引っ込める。
花びらが落ちる。
花びらが落ちる。
はらはらと、白いそれが舞っていく。腕は力を無くし、小さく痙攣し始めた。絶え間なく流れるそれに、黙って溶かされている。
そして——サマルエルムは、涙を流した。
薔薇の中心から、とても少ない黄金が一筋流れる。彼女は、生涯で何度涙を流したのか。少なくとも、これが最初ではないだろう。
ぽた、ぽた、と。
彼女の涙が落ちる音だけが、教会の模造に響く。
最後の花弁が落ちた時——彼女の体が、一粒光となった。また一つ、また一つ。
それは、天賦たちを焼き殺そうとしたそれではない。暖かく、悲しい、傷つける力なんて持たない粒子だ。
体の端から、徐々に彼女が消える。
狼の体が消え、人間の体が消え、最後に残った薔薇も、跡形もなく、空に飛んでいった。
教会に残されたのは、天賦たちだけ。
——そう思った、次の瞬間。
「ウッソだろ」
教会が揺れ始めた。
「これ、崩れる……!」
「炎砲、大丈夫か、炎砲!」
炎砲は倒れ、くったりとしている。祭壇のすぐ側に、天井から瓦礫が一つ落ちた。
「クソ、抱えろ! 嬢ちゃん、コッチだ!」
カルメの背に乗せられる。再生師は炎砲を横抱きし、落ちてくる瓦礫を避けながらカルメの元に戻って来た。
「ちゃんと掴まれ! 落ちンなよォ!」
カルメは風を掴んだ。
シャンデリアが落ちる。柱が倒れる。
カローラ・フェンの、サマルエルムの世界は、音を立てて崩れていった。




