60話 熱砂の大地で溺れ死ね
――水が跳ねる音。波がぶつかる音。土が歪む音。大地が焼ける音。「まもって」の音。
身体中にまとわりつく汗が気持ち悪い。思考が度々リセットされて、この不快さが繰り返して肌に伝わってくる。
水を切って、黒いドームを一瞥し、また向き直る。"相棒"を振ることができて嬉しいという気持ちはない。
「気をつけろよ、まだドカンとしたのが来てねェ」
呪源から飛び上がったカルメが言う。
ルチカナイトは鉱石を突出させる攻撃の中に「大技」を交えていた。この海には今のところ、それらしきものは見当たらない。
ただ、それでも辛いものがある。
足場はどんどん減っていくし、足を滑らせれば脳みそを掻き回される。気を抜けば色水を被ってしまう。
水位を見ても、呪源がどれだけ減ったのか判別できない。再生師なら可能だったかもしれないが。
「うわっ」
飛び移ろうとした先が波で遮られる。天賦を覆う勢いだ。
天賦はメイド長から貰った青杖を取り出し、先を波に向けた。この先に行けないと沈んでしまう。
杖の先からは【猛毒】が飛び出した。独特な匂いの緑と紫の液体が呪源にかかり、小さな穴を開けた。さすが英雄と言うべきか、この威力のものでも損傷が少ない。
ただ、天賦が通り抜けるには十分だ。その穴目掛けて"相棒"を突き刺し、頭からくぐる。くるりと空中で一回転し、次の屋上へと移ることに成功した。
そんなことの繰り返し。水を避けて、飛び移って。
再生師と炎砲の登場を今か今かと待ち望んでいた。
「ねえ、まだなの」
「ふんばれ、きっともうすぐ――オイ待て」
浮上したカルメが首をくいと曲げて、辺りを見回す。一度足を止めた時、その理由が分かった。
「……静かですね」
先程まで荒れ狂っていた海が凪いでいる。たまに壁にぶつかって小さな水滴が飛ぶだけで、それ以上の動きはない。
天賦はこの静寂に覚えがあった。ルチカナイトとの時も、こんな瞬間が訪れた気がする。これは安寧の時間じゃない。前触れだ。
辺りを警戒していると、ある一点に気がついた。
「あそこ!」
「メイド、コッチだ離れろ!」
町の中心が、黒く渦巻いている。水色が変色して、不透明な漆黒が丸く広がっていた。
そこから――べちゃりと塊を吐き出した。天賦の頭の中で、"相棒"を取り返しに行った時の光景がフラッシュバックする。
――魔物が水中から溢れだした。
「は」
水生生物の形をした魔物が水に落ちる。群れ、なんて数じゃない。クェンターレを襲撃に来るあれらよりも遥かに多かった。
それに加え――様子がおかしい。
こちらに、あるいは背後の拠点の方に一目散に向かってくると思って身構えたが、魚たちはうじゃうじゃと水中で動き回った。何をするのかと思えば、それらが規律を持って列を成し始めていることに気がついた。
魔物は、まるで知能があるかのようにずらりと規則正しく整列した。1匹1匹は大したことないのに、こうすると多大な威圧感が漂う。
「騎士かよ」
町を巡回する騎士の姿を思い出す。こいつは一体どの分際で「騎士」なんて役割を生み出したのか。
魔物の放出が止まり、三段にずらりと並んだ壁が完成した。守るものなど見当たらないのに。
「天賦様、あちらを!」
メイド長が指差した先には水の塊が立ち上っていた。水位が引いていき、魔物の壁の後ろに収束していく。
水が家の扉ぐらいの高さまで落ち着いた頃、その動きが止まった。
禍々しい、どこまでも伸びる水の柱。
黒い羽の天井まで突き破って、高く高く積み上がっていく。怪物、なんて形容の仕方で合っているのだろうか。
呪源の中が急速に泡立つ。そして――風が突き抜けた。
「うぐっ!」
咄嗟に"相棒"を使って弾いた。体が先に反応しただけで、何が起きたのかを把握できていない。予想外の衝撃に尻もちをついてしまう。
「【水流】です!」
天賦は濡れた"相棒"の鞘を見る。呪源が高速でここまで飛んできたのか。記憶を消す、よりも、直接命を奪うための攻撃だ。これ以上隙を作らないために立ち上がる。
――柱には、3つの大きな波紋が浮かんでいた。輪の中心が渦巻き、歪な水滴が飛び出す。
そして、再び空気が切れた。
天賦は、それを完全に見切れはしなかった。ただ己の感覚に信頼をおいて、握力を強める。轟音が耳を焼いた。
カルメは呪源の攻撃が正面から直撃していたが、羽が数枚抜ける程度の損傷だ。それよりもメイド長である。
彼女は間違いなく強者だが、天賦ほどの領域には至っていない。肩のフリルが弾け飛び、スカイブルーに赤が混じる。
「メイド長!」
「ごっ……安心を。肉が少々削げただけです」
本人が「平気だ」と言うのなら、それ以上のことは聞かない。会話は余計だ。そうしている内にも再び波紋が浮かび上がっている。
真っ直ぐに、天賦の脳めがけて糸が伸びる。髪がざっくりと焦げて舞う。よろけて、突き飛ばされて、肌がひりひりと痛んだ。
「成す術がない」が脳裏をよぎる。前進できないこの状況をどう打破すればいいのか。
「クソ、焼き殺せばいいんだろ!」
「カ、ルメ!」
カルメは水柱めがけて飛んだ。――その目が橙に光った気がする。
焼いて動きを止めさせるつもりなのかもしれないが、天賦は嫌な予感がしていた。
魔物を飛び越えて呪源に侵入しようとした時――壁がせり上がった。魚の魔物がカルメに覆い被さったのだ。
「ンだコレ……ッ!」
魔物はカルメの行手を阻むかのように積み上がっていく。あの壁は見目より遥かに突破が難しいようだ。鋭く光る歯に、カルメが埋もれていく。
殺されてしまう、なんてことは考えなかった。彼なら自分で解決できる。
天賦は焦燥を募らせていた。向こうは超遠距離から攻撃してくるのに、こちらは前に進めない。再生師もいないので、ルチカナイトの時のように強行突破もできない。
このままでは炎砲が到着する前に削り殺されてしまう。
「うっ」
足首に鋭い痛みが走る。骨が壊れた感覚はしなかったので安心した。だが、ひとつの水を見逃したという事実が天賦をさらに苦しめる。
水が飛ぶ度に後退してしまう。家から弾き落とされてしまいそうだ。
ふと、天賦の腕に肌触りの良い布が飛んできた。それは白く、なめらかで、血痕が滲んでいる。嫌な予感がしたが、飛んできた方向に目を向けられるほどの余裕はない。
天賦は呪源――オーガンから目を逸らすわけにはいかない。それが、あの「守られたがり」の猛攻から身を守るための唯一の術なのだから。
「……あ」
呪源の中身が、球を描くように泡立ち始める。この光景に、天賦はある覚えがあった。
だから――絶望した。
うっすら、うっすらと、視界が水色に支配されていく。世界は不明瞭になり、頭の中を撫でられる。この、気味悪い霧のせいで。
天賦は咄嗟に息を止めた。その間にも呪源は攻撃の手を緩めない。霧がかったせいで余計に軌道が読みづらくなった。
「う、おえ」
頭の中で魚が暴れる。
死んだ目の生臭い銀色がびちびちと跳ねた。目の前の戦いに集中したいのに、魔物が跳ねる音が煩くて集中できない。
「守って。」
びちびち。
「守って。」
びちびち。
四肢が痛む。不快な臭いが鼻を刺す。ふと、諦めたくなった。そもそも何のために戦っていたんだっけ?
こんなのが続くくらいなら、寝っ転がって脱力してしまいたい。胃から物を全て吐き出したい。
【水流】のような呪源が足元を削り取る。天賦は大きく体幹を崩した。自然と力が抜けていく。水に浮かぶのもまあいいか、と。
"相棒"を抱いて、目を閉じる。そろそろ楽になるから。
――弾ける音がした。
「――ろ、起きろってェ!」
風が全身を包み込む。ふわふわとしているのに、身体はだるい。柔らかな世界で自分だけが重さを持っている、みたいな感覚だ。声が聞こえてもしばらくぽーっとしていたが、徐々に意識がはっきりとしてきて、戦闘体制に戻る。
「あっぶね! あんまし動くなよォ」
「……え?」
天賦の視界に入ったのは、空だ。空しかない。建物も、溶ける土の壁もなにもない。
足元は真っ黒で、もふもふだ。隣には血を流すメイド長が横たわっている。
そして、天賦は結論に辿り着いた。
「カっ、カルメ!?」
足元の黒鳥は、天賦とメイド長が十分に乗れるほどの図体を持っている。まるで魔獣のオヤブンのようだ。カルメは天賦の肩に乗るくらいの大きさだったのに、まるで別鳥のようだ。
「なにそれ!」
「わっかンねェよ! 気がついたらこうだったの!」
理由は分からないが、今重要なことは他にある。"相棒"を握り直し、頬をマッサージした。
空を飛んでいるのに、不安感は全く無い。巨大で、安定したこの鳥から落ちるビジョンが浮かばなかった。
「ありがとう」
「おうよォ」
呪源の波紋がこちらを見ているような気がした。下の方は霧がかっていてよく見えないが、たくさんの目に睨まれているような寒気がする。
「来るぞ、掴まれ!」
カルメが速度を上げて、呪源の水流から逃れようと暗い空を飛ぶ。天賦はメイド長の体が落ちないように支えながら、カルメの黒い羽毛をしっかりと握った。
体が大きくなった分当たりやすくなったはずなのに、カルメは軽々しく宙を舞う。急降下したり、高く飛び上がったりしているのに、不思議と息がつらくない。
地上から鳴き声がひっきりなしに聞こえる。あの魚の「騎士」たちが空飛ぶ影めがけて伸びてきていた。
「うおっ、マジかよ!」
たくさんの魔物がひとつとなって、カルメを噛み砕くために迫ってくる。その姿が巨大魚のように映った。
カルメは呪源から避けるために軌道を変えたばかりだ。このままではあれに衝突する。
天賦が拡張袋に手を伸ばした時、巨大魚の口腔が光って、爆ぜた。亀裂が入ったかのように、下まで光が落ちていく。
はらはらと灰になる杖。それを持っていたのはメイド長だった。
「よかった!」
「申し訳ございません。僭越ながらお聞きします。私は現在どのような状況下にいるのでしょうか」
「えっと、カルメが鳥になって、その上に乗ってる」
困惑するだろうと思っていたが、メイド長は目元を一瞬歪ませて「そうですか」とだけ言った。ぽたぽたと髪から血が垂れている。
「まだ時間を稼ぐ必要があるようですね」
「残りの杖は」
「ありません」
そう言う彼女の顔には疲労の色が浮かんでいた。冒険者は【治癒】で疲労の回復ができるからこそ多少無茶な動きができる。癒し手がいるのといないのとでは動きが全く変わるのだ。
「でも、きっとあとちょっとだから」
「――天賦様、呪源の様子が」
すぐに身を乗り出して柱を確認する。先程まで波紋を浮かべていたそれは、小刻みに揺れて表面が波打っていた。
何かの前触れであることくらい、天賦にも分かる。
町を浸していた水が、柱に集中する。崩れた家々が目立った。
羽の天井に溜まっていたであろう水もそこに集まっていって、形を変えた。一つの大きな波となって。
カルメは一言も発さずに、拠点とは反対方向に逃げた。天賦たちを振り落としそうな勢いで。
天井を押し退けて、ゆっくり、ゆっくり落ちてくる。あんなにのろいのに、いくら逃げてもまるで距離が変わらない。技量でもなんでもない、ただの力技なのに。
「クソ、息止めろ!」
天井の羽が消えていき、カルメの周りに球状の羽が構築される。天賦は"相棒"を力一杯に掴み、息を大きく吸った。
――凄まじい暴風。
風、なのかさえ分からない。少しでも水を体内に入れないように、目も瞑ったから。カルメの壁は間に合わなかったのかもしれない。
しっかりと羽毛を掴んでいるはずなのに、海の底へ放り投げられたような感覚がする。声がうるさい。少年や、青年の声がずっと。
「守ってほしいから、炎砲の妹を殺した」。
これはオーガンが呪源になったせいで生まれた考えだったのだろうか? 英雄の姿の時から、「守られる」ことに固執していた彼が。
シュルトカだって、ルチカナイトになってしまった後も「守る」ことを覚えていた。なら彼だって同じはずである。
水中で"相棒"を一度だけ振る。焼ける音で耳を守った。
声を聞いて、オーガンの姿を見て、なんとなく腑に落ちたのだ。なぜ黄金の武器で呪源が傷つくのか。
黄金の遺物はオーガンの仲間の武器。彼が恐れているのは武器自体ではなく、仲間から傷つけられることなんじゃないか。
そう、守護する者の消失、守護する者からの拒絶こそが、オーガンが嫌う唯一なんじゃないのか。
もう一度、"相棒"をオーガンに突きつける。水の流れが変わり、引っ張り上げられた。
「――はっ!」
空気に触れ、呼吸をした。喉を動かしても苦しくない。メイド長が咳き込む音も聞こえる。羽の壁が消えていって、再び空を見ることになった。
地上はまるで海のようだった。荒れ狂う波が町を支配し、魔物が泳いでいる。
「あァクソ、この野郎……」
カルメは頭を振った。あまり体を震わすと天賦たちが落ちてしまうかもしれないので、それくらいしかできない。
カルメの真下にある呪源はまだ焼ける音を発している。その部分を守るように、魚が渦巻いた。
うまく言い表せないが、その様に無性に腹が立った。
「オイ、いつでも息止めれるようにしろよ!」
「わかっ……待って」
また波が持ち上がると思っていたが、海面はそのままだ。波打つ面が穏やかになって――波紋が浮かんだ。
「これは……」
波紋が一つ二つではなく、天賦では数えきれないほど浮かんでいる。水滴すべてが天賦たちを見ていた。
「ウッソだろ」
次の瞬間、カルメめがけて真っ直ぐに、無数の槍が飛んだ。右翼から勢いよく羽が舞い上がる。僅かにバランスが崩れた。
全方向からの攻撃なんて避けようがない。
記憶を消したり、水で削り取ってきたり、魔物を作ったり、あまりにも滅茶苦茶だ。なぜあのような人間にこれほどの力を与えたんだ。
「カルメ様!」
「いいから、掴まっとけって!」
カルメは拠点から離れながら水を避ける。避けようとする。それでもやはり、回避は不可能である。
羽が抜け、空に黒が落ちる。太い閃光がカルメの翼を貫くたび、徐々に高度が低くなっていく。
なんとかしたいのに、手出しができない。下手に応戦しようとしたら"相棒"ごと吹っ飛んでしまいそうだ。
でもせめて、ささいな抵抗だけでも。
懐から黄色のポーションを取り出す。これが最後だ。
「この、人殺し!」
ガラス管がくるくる回転しながら落ちる。その形が小さくなっていって――空中で割れた。
カルメに伸びた光は瞬く間に溶ける。上から消滅した。
これをどうにかしてもすぐに次が来る。この状況を打破するためには何をすべきか、天賦は足りない頭で考えた。
魔法は使えない。青杖は尽きた。焼き殺せるだけの道具はない。明確にダメージを与えられるのは"相棒"とカルメの指輪。これでどうにかできるのか。
頭が痛い。どうすれば、どうすれば。
「……オイ、嬢ちゃん」
ハッと、世界が再び目に映る。メイド長の手が自らの肩にかけられていた。
「あちらを」
下を見やると――呪源が、呪源の波がゆっくりとどこかを見つめていた。目はないが、そう見える。
その先にいたのは――尻尾を持つ女と、褐色の少年だ。




