59話 「オーガン」
――天賦は、砂漠にぽつんとある池に足をつけていた。
うなじに汗が伝う。木影が天賦を日差しから守っている。
どうして自分がここにいるのか。ここはどこなのか。天賦はなんとなく覚えがあった。あの、シュルトカといた川のほとりのような雰囲気だ。現実なのに、幻想の中にいるような。
だが、不思議と思考はすっきりとしていた。さっきまでのモヤが丸々晴れたようだ。
「ここ、すごく暑いですよね」
砂を踏む音が近づいてくる。
その声は、天賦の耳には新しく聞こえなかった。だから、天賦は"相棒"に手をかけた。
「……キシャ」
オレンジの瞳。茶色の髪。
炎砲の弟を自称する化け物だ。
ただ、彼は「キシャ」と言われて首を傾げていた。
「キシャ? 僕を呼んだんですか?」
「……あなたは」
「オーガンですよ。あなたたちの僧侶」
彼はキシャと違い、髪を腰まで伸ばしていて、黄金の杖を持っている。そして何より、柔らかく微笑む姿は正面から見たことがなかった。
"相棒"を撫でる。これも、シュルトカの時のような英雄の記憶なのだろうか。
「僕、こんなところまで来るとは思わなかったなあ。食べ物の味も全く違いますし、本当に異国って感じですね」
「……そうだね」
天賦は砂の上に座り直し、再び水に足を入れた。オーガンも天賦の真似をして座り込む。
「みんなと一緒じゃなきゃ、僕の人生でこんなとこまで来る機会はなかっただろうな」
天賦の目には、オーガンはキシャよりもずっと落ち着いているように見えた。一つ一つの動きがゆっくりで、瞬きでさえ動きを目で追える。
オーガンの姿を観察していると、彼は「あの」と天賦の目を見た。
「僕、本当にみんなに感謝してるんですよ」
「感謝?」
「僕の人生はつまらなかった。好きでもない剣を振り続けて、家族も味方をしてくれなくて。でも、あの日、あなたたちが僕を助けてくれた」
天賦は、再生師から聞いたオーガンの話を思い出した。剣士の家に生まれて、"勇者"たちに救われて僧侶になったと。
「……本当はいけないことですけど、僕、この魔王退治の旅が一生続けばいいなって思ってるんですよ」
「え」
シュルトカは魔王を斃して安寧を得たいと言っていた。やはり、オーガンは英雄でも特異な人物だったのか。
「みんないい人で、強くて……。そりゃ魔王は殺さなくちゃいけない存在ですけど、でも、もし旅が終わったらみんな戦わなくなるし、自分たちの日常に戻っていくでしょう。それが、嫌だなあって」
オーガンは眉を下げて笑った。
天賦は彼の考えを理解できなかった。彼が望んでいるものの正体が不明瞭だった。
天賦は思い出す。オーガン――呪源は、「守って」と繰り返していた。もしかして、それが関係あるのか。
「キ――オーガン」
「はい」
「守ってもらうこと、嬉しい?」
オーガンはゆっくり、ゆっくり、瞼を大きく開いた。
「……どうして」
黄金の杖から手を離した。天賦は膝を立てて、飛び退く準備をする。
「え、嘘。なんであなたが知って、え!?」
オーガンは――顔を赤くしていた。
全く見たことのない表情に拍子抜けする。
「な、んとなく」
「そんな、僕、嘘……」
オーガンは池に頭がつきそうなほど身を縮めた。思ったより人間らしい仕草に天賦は後ずさる。英雄の姿であれ、知性があるのに少女を殺したことを忘れてはいけない。
「ま、待ってください! その、僕は、ちゃんとみんなのことが好きなんです。大好きだから、守ってもらいたくて」
天賦が考えていたことは、どうして、だった。
守ってほしいなんて英雄が言う言葉じゃない。天賦の中の英雄像が崩れる。
「僕にはみなさんしかいないんです。あの日、僕を魔獣から救ってくれた日から……」
天賦の口からは言葉が出ない。黙って彼が話す内容を聞いていた。――そして、何故だか、ふいに、寒気がした。
「あの、だから」
世界が割れた。
砂漠に亀裂が入る。オーガンは砕けて消えた。
波が足を濡らした。見ると、池が水色の水で溢れて、底から絶え間なく湧き出ている。ただの水とは違う気味の悪い感覚に身震いした。
水が追ってくる。「守って」と、不自然に反響する声が天賦の頭を刺した。
「うっ」
鉄の生臭い臭いがする。
砂がどろりと溶けて、水色の液体が足に伸びてきた。足を動かすたびに、天賦の行く先を阻むように絡みつく。透き通った色なのに、嗅覚は不快な刺激しかとらえない。
行くあてもなく逃げる。広大な砂漠は段々とぼやけていって、現実のような幻想はただの幻想に堕ちた。
なめらかな砂の山が、定規で輪郭を引っ張ったように変異した。頭がくらくらして、目に電流が弾ける。
水がどんどん重くなって、ついに天賦は膝をついた。脳の中身がおかしくなったのも相まって。
すると、目の前に杖が落ちていることに気がついた。黄金の、この世に2つとないオーガンの杖。
重量を得た髪を振り払い、その先を見る。
そこには――うつろな目で虚無を見つめるオーガンがいた。瞳が揺れ、頭からは赤く生臭い液体を被っている。
「オー……」
「だから」
パキ、と。オーガン――キシャの顔にヒビが入った。
「――みんなが死んじゃったら! 誰が僕を守ってくれるんですかぁ!?」
目眩が襲いかかった。
スカイブルーの液体が槍のような形を取り、天賦を突き刺した。それは天賦の内臓に触れることはなかったが、彼女を吹き飛ばすには十分だった。
さっきまでの静寂は消え、彼は激昂している。
原因は何か、なんてものは無駄な思考だ。
「みんな以上に僕を守ると言ってくれる人なんていないのに! なんであんなことになっちゃったんですか!!」
炎砲を「お兄ちゃん」と呼ぶキシャの姿と重なる。
必死で口を押さえた。急流の中、水を飲んでしまわないように。
「嫌だ! 僕を守ってよ! 守ってくれないみんななんてみんなじゃない!」
体が浮いた。キシャの声が水の中でも鮮明に聞こえる。うるさい、不快だ。
血液の海に沈んでいく。真紅の光景に、自身の記憶が写し出された。
明るい森。闘技場。森。ヘイリン。ムーナ・ルイス。ルチカナイト。クェンターレ。
川。砂漠の池。雪山。丘。焚き火と鍋。
自分がどこにいるのかわからなくなって、どこに行きたかったのか、何をしたかったのか忘れていく。
ぼやける中、シュルトカとオーガン、そして、紫髪の「金眼」の女の姿だけが鮮明に浮かんだ。まるで、さっきまで一緒にいたかのように。
そんなはずないのに、自分の仲間は彼らじゃなくて――
――瞬間、ぽうっと光が浮かぶのが見えた。
まあるく、仄かに光を放っている。それを見ていると、英雄たちの顔がだんだんと薄れていって、その代わりに他の人間の姿が浮かんできた。
息をしっかり止めて、足を漕ぐ。天賦の体に縋るように巻きつく液体を無理やり振り払い、光を目指した。
光源に近づくほど、声が聞こえなくなる。「守って」とうるさく囁く水が、ゆっくりと黙っていった。
地面を歩くように液体の中を進む。光に向かって。
もう少し、もう少しであそこに届く。
"相棒"を握り、右手でその光を掴み――
「――ちゃん、嬢ちゃん!」
――目の前に、黒く鋭いものがある。
すぐにはそれが何か、誰なのか分からなかったが、視界が晴れるにつれてその正体を把握できた。
「……カルメ?」
「あァ、良かった、オレが分かるか」
そうだった。私は霧の中で水に落ちたんだ。
辺りを見回す。霧はだんだんと薄くなっていた。それでも消えたわけではない。
「ここは足場がねェ。クソ、一回退くからな」
「わ、かった。立てる」
カルメの腕から降りる。少し頭痛がするが、これ以上介護してもらう必要はない。また泥で滑って、呪源に落ちるわけにはいかない。
「カルメ、ありがとう!」
「……おう」
2人は薄い霧の中を走る。カルメはずっと呪源を見ていた。
思考を戦闘に戻す。まずすべきことは情報の共有だ。
「呪源が相棒で焼けた。水減らせるかも」
「ははァ。やっぱり金ピカ武器になンかあったか」
既に足場は柔らかい。長く留まっていると沈んでしまいそうだ。比較的安全そうな足場を短い時間で判断して、飛び移り、また目星をつける。
絶え間ない【砲撃】のような呪源の塊を"相棒"で弾く。
剣に触れるだけで焼けてくれたらいいのに、わざわざ攻撃しないと呪源にダメージを与えられない。どんな仕組みだ。
「そっちはどうなった? 炎砲は」
「今姉ちゃんたちがなんとかしてるトコ! あと30、いや20分くらい時間稼ぐぞ」
その程度ならなんとかなる。またあの霧を吸わなければ、きっと。
「あ、あとメイドが参戦してくれてて――」
「カ、カリ……えっと、マスクの方! どこにいらっしゃいますか!」
遠くから女性の声が聞こえる。
メイド長は杖を何本も持って、迫り来る呪源から逃げていた。鮮やかな身のこなしである。
「ココだ! メイド、ココにいるぞ!」
カルメは声を張り上げた。見える位置にいるはずだが、彼女は「孤独の呪い」で天賦たちの姿が見えていない。その声に気がついた後も視線が合わなかった。
「赤い屋根んトコだ! 嬢ちゃんもいる!」
「こちらを――!」
メイド長の手から、何かが高速で飛ぶ。金の煌きを見て、天賦はすぐさまそれをキャッチした。天賦でなければ十分に反応できなかったかもしれない。
天賦の手の中に収められていたものは――指輪だった。
「おォ、マジか!」
カルメは天賦の手から断りなくそれを取った。すぐさま自身の左人差し指にはめる。
そして――羽ばたいた。左足には黄金が光っている。
「よっしゃあ! マジありがとな、メイド!」
「ん? 声が……」
メイド長は波から逃げながら上をきょろきょろと見回した。彼女にはカルメが鳥になったことは分からない。
「嬢ちゃん、アイボーで焼けたっつったよなァ?」
「言った」
「なら、こんなんもできるよなァ!」
カルメはくるんと空中で弧を描き、呪源めがけて急降下した。トポンと音を立てて水の中に入り――じゅうじゅうと大きな音が呪源から鳴り出した。
あの指輪も、同じような黄金の遺物である。
呪源の中に一直線の穴が空き、勢いよく水滴が飛び上がった。
「ッハ! 気分最悪だけど気分最高! 焼けて死ねやクソニセ弟!」
水浸しになってカルメが笑う。飲み食いしない彼だからこそできる攻撃だ。
呪源はメイド長を追うのをやめて、カルメを叩き潰そうと隆起した。高い波が鳥を追う。
「天賦様、ここにいらっしゃいますね」
「うん、いる」
「少し拠点から離れましょう。そして、これを」
メイド長が天賦に手渡したのは、いくつかの青杖と、カルメの黄色のポーションだった。
「ありがとう」
「行きましょう。マーマレードお嬢様たちへ近づけさせないように」
メイド長がマーマレードの名を呼ぶのを初めて聞いた。
彼女はスカートの裏から青杖を取り出し、蝶のようにひらりと次の屋上へと乗り移った。
天賦は、黒い羽に囲まれた拠点を一瞥した。
きっと、再生師も今なおあそこで頑張ってくれている。マーマレードも、他の癒し手たちも、そして、炎砲も。
彼が起きれば、間違いなく状況は好転する。
「おねがい……」
天賦はこめかみを軽くマッサージして、メイド長の後についていった。
――褐色の男の指先が、ピクリと跳ねた。




