61話 たよるもの
――生ぬるい水の中で、まどろんでいるようだった。
息苦しいのに心地よくて、間違っているはずなのに「これでいい」と思って。
でも、その「間違ってる」の意味が分からない。どれがどう違っているのか見当つかないのに、漠然と、茫漠と。
一体、何が正しいんだっけ。
記憶が泡みたく簡単に消えていって、俺の頭に残るのは空の箱だけ。開けても開けても中身は虚無。
あ、また消えた。
……何が?
初めて見る人。初めて見る人。あなたも初対面だ。
――そっちは初めてじゃないって?
ラベルが貼られた箱を開ける。やっばり空だ。
でもいいのだ。俺には何より大事な人がいる。全ての箱が虚空になったとしても、おまえのことを覚えているのなら、ともに眠れるのなら、他は望まない。
俺が――――でいられるのなら。
真っ黒のひとがたへ歩を進める。手を伸ばす。
それに触れようとした時――頭痛が俺を裂いた。
『どうしてここまで私を助けに来てくれたのですか』
『それは一重に、あなたを愛しているからです』
『空の上であろうとも、地の底であろうとも、必ずあなたを救ってみせます』
読んで、聞かせてやった。
……誰に?
「お兄ちゃん」
俺は誰を守ると誓ったのだ。誰の手を握ってやったのだ。手をうんと伸ばして撫でた頭は誰のものだったのだ。
「お兄ちゃん」
咳をして上下するその背を撫でた。
はしゃいで走るその背を追いかけた。
「お兄ちゃん」
白く細いその手を握った。
丈夫で大きなその手を摩った。
「「お兄ちゃん」」
まろいその声。
はじけるその声。
このひとがたは誰だ。
病的に白い腕が俺を掴む。細いのに、その力は強い。
――息ができない。
安寧が消える。瞼が上がる。違う、これはあいつじゃない。俺が守りたかった人じゃない。
誰だ。離せ。離してくれ。
オレンジの灯りがふたつ、俺をじいっと見ている。その小さな口が同じ動きを繰り返した。
あ、お、え。あ、お、え。――「まもって」。
(やめろ!)
液体が迫る。気味悪い色の、気味悪い匂いのそれから逃げられない。
俺は得体の知れないナニカを守ると誓った覚えはない。こんなのじゃなくて、もっと……
思い出せない。
力が抜ける。何を活力にして生きていたのか、箱の中には何が入っていたのか。
『必ずあなたを救ってみせます』
あなたって誰だ?
これのことか?
……いや、違う。お前じゃない。
俺が守りたいのは、俺が誰よりも愛しているあいつだ。愛しているから、抱きしめてやりたいんだ。
お前なんかを守る理由なんて、ない。
――優しい桃色の光が差した。
腕が、鋭い眼光が溶ける。その陽光は俺たちをどこまでも優しく包み、俺の呼吸の手助けをした。
空箱の代わりに、地の底から古い箱が浮上する。ひっくり返ったひとつの中には荷物がぎっしり入っていた。
目の前のひとがたの糸がほぐれていく。不鮮明だったそれが、光に照らされてなめらかな輪郭が作られる。
同じ褐色の肌。ミルクの髪がきれいだ。
ああ、俺とは違って体格良く育ってよかった。
ゆっくり、ゆっくり目を開いて、にっこりと笑う。
元気で、良い子で、かわいい、俺の――
「――キシャ」
――――――――――――――――――――――――――
――波が、海が、ただ一点を見つめている。ふたつの出っ張りがついた家の屋上を、全てが。
ピンクブロンドと、赤い髪が風に揺れている。ここからでは彼らの表情は見えない。
呪源はその身をずるずる引きずりながら町を行く。その姿に攻撃の意思は感じ取れない。
再生師と炎砲がいる家を取り巻き、渦に似たものができていく。高い波は炎砲の顔を覗き込むように折れ曲がった。
天賦たちはその光景を、息を呑んでただ見守っていた。ここから何が起きるのか、呪源が何をするのか、その行く先を期待と恐怖で見つめる。
呪源は家を取り囲んで水滴を伸ばす。
「守って」と、炎砲に縋る。背を低くして、まるで天賦たちから身を隠すみたく小さくなった。
その中から、一本の水の管が炎砲に伸ばされた。
その姿はただの弱々しいスライムと何ら変わらない。呪源がその小さな手のような水を掴まれることを羨望しているのが、天賦にも理解できた。
炎砲は、大きな手袋がはめられた右手を動かした。その水に手のひらを伸ばし、そして、
――風穴が空いた。水色が弾けて消えた。
呪源はその穴から真っ黒に変色し、じわじわと溶けていく。その衝撃で、炎砲の前髪が上がった。そして、天賦は目にすることになる。
「――返せよ、クソ野郎!!」
――彼の涙を。
呪源は形を変え、色を濃くした。表情も何も見えないというのに、それが「困惑」しているのだと分かる。
黒く変色した水の触手を伸ばすも、それはすぐに消滅する。炎砲の手袋から放たれた光が、呪源を否定する。
「死ね! 死ね! 死ね! 死ねよ! お前が! お前がキシャを名乗るな! 俺の妹の名前を名乗るなぁッ!!」
――それから、炎砲が放った言葉の意味を、天賦は理解できなかった。
言語が違うというより、ただ単語の意味を知らないだけ。それでも、それが暴言だということは理解できる。
「炎砲」
次々に【砲撃】が飛ぶ。黒が侵食して、澄んだ海はしだいに底が見えなくなっていった。
「オイ、準備しろ! 手袋が壊れる!」
炎砲は、彼の「魔力の呪い」を制御するあの手袋は10回程魔法を使えば壊れると言っていた。あのペースでは破損はすぐだ。
"相棒"を構える。カルメの胴と液体の区別がつかない。
再生師が炎砲を抱えて移動を始める。炎砲はそれを気にする様子もなく、呪源に【砲撃】を打ち続けた。手袋がほつれていく。
そして、一際大きな光の球が飛んだ時――手袋が弾けた。焼け焦げた回路が水に落ちる。
「カルメ!」
「降りるぞ!」
カルメが風を掴み、姿勢を翻そうとした瞬間、メイド長が天賦の二の腕を掴んだ。血で滑る。
「お待ち下さい。……凄まじい魔力を感じます」
「えっ」
それを聞き、カルメが空中で止まる。こんな空高くから魔力を感じるなんて――
炎砲と再生師がいる場所を見る。
再生師が炎砲を強く抑え込んで、炎砲はその血まみれの手を震えさせて。
カルメは何かを察したのか、高く飛び上がった。羽が舞う。上から押さえつけられたみたいな息苦しさを感じる。
強風の中、どこかから甲高い音が聞こえる。天賦の頭の中で、魔物の群れが消滅したあの夜が思い起こされた。
――瞼の赤色が見える。耳が痛い。
カルメの巨体がバランスを崩した。メイド長の手首を掴み、黒の羽毛にしがみつく。
目を開けようとしても、光が目を焼いてどうしても世界を目にすることができない。衝撃の中、体が捩じ切れてしまわないことを祈った。
暴風が止んで、瞼の裏が黒くなる。カルメの均衡も保たれた。
「オイ、コレ……」
翼の隙間から町を見下ろすと――
「――――!!」
呪源が、絶叫していた。
大きな波は丸々削げ、片っ端から溶けていく。町を浸す黒も、叫びながら蒸発する。
水がどんどん引いていく。家々を溺れさせたそれは、今ではちょっとした洪水くらいの高さになっていた。
対して、炎砲は両手を失っていた。
褐色の肌に血が被っている。力無く天を仰ぐ彼の身体を支え、再生師は治療をしていた。
「ああ……」
――泣いている。呪源が、オーガンが、大声で泣きじゃくっている。高く波を作ろうとしても、ぼろぼろと崩れて消える。被害者みたいな面して、わんわんと。
腕に力が入る。
膝を立て、黒い羽の上に立った。
「オイ、嬢ちゃん!?」
「たおす」
あれだけ削れてしまえば、もはや家の屋上を渡らずとも移動できる。"相棒"を握りしめて、カルメから飛び降りた。
「天賦様――」
風が一つに結んだ髪をもっていく。家がどんどん大きくなっていく。空中で身を翻し、"相棒"を突き立てて町に着地した。天賦だからこそできる離れ業。
呪源は膝下くらいのかさだ。天賦なら足を取られずに移動できる。
"相棒"を持ち直し、黄金の鞘で呪源を裂いた。
叫び声。懇願の声は聞こえない。
星の煌めきだけが水面に反射する。斬って、斬って、焼く。
英雄らしくない。どこまでも英雄じゃない。
これはシュルトカとは違う。私が斃すべき「敵」でしかないのだ。
これのせいで、炎砲は苦しんだ。住民たちは苦しんだ。人が死んだ。歯を食いしばって、
何十回目か、"相棒"を振り下ろした時――
「――たすけて! たすけてええ!」
黒が膨れ上がり、そこからおびただしい数の「騎士」が飛び出した。びちびちと跳ねて、天賦に向かって歯を向ける。悪あがきだ。
「この……っ!」
天賦は拡張袋から何かを――メイスを取り出して、それを魚の魔物に振るう。呪源の水が魔物に変化したおかげで、さらに身動きがとりやすくなった。
向こうではカルメが低空飛行をして、メイド長が斧で魔物を叩き殺している。カルメの巨体で押し潰されるのもいた。
魚の中から黒くべとべとした液体が溢れる。さらに10匹ほど斬り殺した時に気がついた。これは、呪源全域から発生している。
大通りの先を見る。ずっと「騎士」が跋扈していて――拠点まで続いている。
魔物は、黒い羽のドームに向かって行って。
すぐに天賦は駆け出した。視界を埋め尽くすほどの魔物を叩き潰して。数匹の魚が腿や腕を噛むが、天賦の気を逸らすことはできない。大通りが黒の噴水で埋まっていく。
1匹の「騎士」がドームに飛んだ。まずい、あの中に侵入して――
――魚の腹が剣で貫かれた。
「え」
それに続き、次々と武器がドームの中から突出する。「騎士」は拠点にたどり着けずに消滅した。
剣、槍、ナイフ――多様な武器の中で、天賦は二股の槍を目にした。
それを確認して、天賦は踵を返して呪源を突き刺した。自分の使命は、これを斃すこと。
魔物を殺し、呪源を焼いてある場所を目指す。
壁を駆け上がり、1人を抱える彼女に近づく。
「再生師」
「て、天賦、無事か。」
疲労が見える彼女は、既に炎砲の腕を治していた。気を失っているだろうと彼の顔を覗くと――炎砲は、尋常じゃない量の鼻血を垂らしながら、眼をかっぴらいていた。
その顔は、正気じゃない。
瞳孔が揺れている。眼球が弾けそうだ。血の上から涙が伝う。
不思議と、夢で見たシュルトカの姿と重なった。「殺せたのに」と頭を掻きむしる彼と。
「天賦、水が……!」
再生師が下を見て言う。呪源の黒色がみるみると引いていき、「騎士」が地面でびちびち跳ねた。瓦解した町が目立つ。
液体が収束して、呪源は――ひとがたになった。真っ黒の、ただの形。
すう、と炎砲が息を呑んだ。彼の思考は天賦には分からない。ひとがたはうずくまって、啜り泣いた。声は聞こえないが、そんな気がしたのだ。
「オーガン」
「キシャ。」
再生師と声が重なった。炎砲がどちらの名前に反応したのかは分からない。そのひとがたも、声を聞いてこちらを見た。泣きながら歩いてくる。あれだけ膨大だったのに。
それは、大柄な女性の形をとったり、華奢な男性の形をとったりを繰り返している。
結局あやふやになって、明確な人間の姿を象れていない。空中で、一歩、一歩。
どうしてここまで。天賦にはこれの感情を理解できても、共感できる日はこないだろう。
オーガンは天賦たちの前まで来ると、弱々しく手を伸ばしてきた。それが向けられているのは、血まみれの彼だ。
天賦も、再生師もその間には入らなかった。油断したからでは全くない。
炎砲は、再生師の手を避けて1人で立ち上がった。ふらふらとよろけながら、その黒に近づいて。
ひとがたは両手を出した。握り返してもらうことをまるで疑っていないようだった。
炎砲は小さな手を向けて――拳を作った。
ぱしゃん、と。「顔」がひしゃげる。
オーガンの顔が破けて、地面に倒れた。
「――誰が、守るかよ」
瞬間、オーガンが溶ける。黒の中身がぐちゃぐちゃになって、濁色のナニカが溢れ出した。攻撃の意思は見られない。
苦しい、苦しいと、必死で炎砲に手を伸ばす。しかし、それも溶ける。可哀想とは思わなかった。
何かの声を発しているが、その意味は分からない。理解しようとも感じない。
天賦は"相棒"を構えた。グリップを強く握る。
これは誰に捧げるべきなのか。住民?炎砲?彼の妹?
天賦には彼らの苦しみを全て想像することはできない。でも、確かなことはある。この斃仆は、誰にとっても喜ばしいことだということ。
彼が天賦を見た、気がした。
「『さよなら、オーガン』」
"相棒"を液体に突き立てる。
絶叫が耳を裂き、そして――ぽう、と光が浮かんだ。
液体は、「騎士」は消えて、まるい屑になって空に飛んでいく。町を光が照らした。
炎砲はその灯光を見て膝をつく。
そして――声を上げて泣いた。
静かな砂漠に、彼の泣き声だけがこだまする。
クェンターレが乾いていく。寒い、寒い日だ。




